5-5.わたしのこがね
脳裏に
「ついたよ」
ハナミに声をかけられ、
草木の匂いがする。ナラやブナだけではなく、カシワやクスノキ、樫の木などが乱雑に、無作為に生い茂る山の中にいた。
淡く輝くカタクリやクチナシなどの花と木々は、近付く暴風に、怯えるようにして小刻みに震えていた。
『怖いよぅ、
『逃げたい。ここから今すぐ立ち去りたい』
木花の念が聞こえる。そこら中から響き渡る念話は強く、大きい。ともすれば頭の中を埋め尽くすばかりの悲鳴に、
「この山を越えたら、
「結界はあくまで
「はい。
「アンタ、どうやってあのオロチを止める気だい?」
「わたしは
「それがその分身ってわけだね。で、どうする」
「木々の皆さんに力を貸していただきます。
「声が届くかどうかもわかんないよ、ありゃ。いくら名付け親とはいえど」
ハナミのため息に、
ヤマタノオロチが段々と、町を壊してこちらへと近付いている。
「変わる、勇気」
「ん?」
オロチを見つめ、
「変わることには痛みを伴うと、わたしの姉が言っていたのを今、思い出したのです」
「食べられることを想定してんじゃないだろうね」
「いいえ。
らんたちの様子はここからでは確認できない。他の蜘蛛たちの姿も、同じく。
「痛みがわたしを変えてくれました。何もできない、何もしようとしていなかったわたしから」
オロチの全貌が見えてくる。まっすぐ、山を飲みこむ勢いで差し迫る
「わたしにはなんの力もないけれど、
言い切っただけで、気持ちが
「……いいさ、好きなだけやってごらん。オレはただ、見ててやるからさ」
「ありがとうございます、ハナミさま」
答えて目をつぶると、今までの出来事が走馬灯のように駆け巡った。
優しく抱き留められた事実。髪を
「木々の皆さん、お願いです。わたしに力を貸して下さい」
『頼みってなんだいな、こんな大変なときにさ』
「わたしをどうか、
『何を無茶なことを! そんなことしたらなぎ払われちゃうじゃないか』
「このままでも、きっとそうなるはずです。わたしは皆さんを助けたい。天乃さまをお救いしたいのです」
だめだ、いやだ、逃がせ、ここから出して――
否定と困惑の念話だけが返答として脳内に響く。
「お願いです。わたしを運んで、
それでも心から必死に頼む。この事態を収拾するためではなく、
オロチから伝わる地響きが、地面を揺らす。必死に両足へ力をこめ、ただただ
「誰か、お願い。わたしを……」
『
「樫、さま?」
『ワシらの力を汝に貸そう。ここで無闇に手折られるのも、無念というもの』
しわがれた声に、
ざわり、ざわりと音を立て、樫たちが梢や葉を大きく伸ばしていく。
左右へ上下へ、寿命の全てを使い果たそうとするように。くねった枝の数々は、まるで
「……お願いします、樫の皆さま」
『よく掴まっているがいい』
木々の異変に、だろうか。それとも別の要因があるのか――
オロチの首が一斉に、
背筋が寒くなる。恐ろしいと思う心が、無意識に瞳を見開かせる。息が荒くなり、ただ眼前のオロチを、すくんだまま見つめることしかできない。
「
それでもするりと言葉が出た。オロチが止まる。七つの頭は今にも、目の前の獲物を、
だが。
「……
一つの頭、金色の瞳を持った漆黒の頭頂だけは、子どもがそっぽを向くように視線と顔を逸らす。
今更何をしに来たと、問われた気がした。
足が震え、手の先が冷たくなる。
怖いという思いも、恐ろしいという気持ちも、本能がすくむ恐ろしさも確かにあった。
それでも、微笑む。心の底から偽りのない笑みを浮かべ、オロチに――いや、
樫でできた
恐ろしいけれど、怖いけれど。慕う人のことは全て、受け入れたい。
「あなたさま……いいえ、
視線を合わせようとしないこがねの前で、はじめて名を呼ぶ。こがねが、その金の瞳を見開いた。
深く、笑む。
とろけゆくように。
誰よりも幸せであるように。
「わたしは、あなたさまだけを、お慕いしています」
樫の道、その最先頭へおもむき、漆黒の頭へと身を寄せた。
冷たい感触。さらさらとした、馴染みのある肌触り。
もう怖くない。不気味でもない。そう、一体何を怖れるというのだろうか。
「帰ってきて下さい、
全身が震えた。喜びという感情に支配される。動悸がし、体中が熱い。
背筋に何か、形容のしがたい思いが駆け上がってくる。
オロチが光に包まれた。それはみるみると
漆黒の光にそっと抱きついて、口ずさむ。
「……喜び笑むはサクヤヒメ あなたさまに向けるのは 花
家伝の
ざわりと髪の毛が、揺れる。鳥肌が立ち、髪の毛先までもが痺れた感覚に陥った、直後。
樫の若苗に、桃色の花が咲く。銀の花粉を撒き散らし、ツバキにも似た形をしたそれが、弾けた。
町へ、山へ、壊れたありとあらゆる場所へ散った花びらが降り注ぐ。星屑よりも、流星よりも遙かにまぶしく、きらびやかに。
「……
呆けながらそれを見ていた
静かに顔を上げた。泣きそうなおもての
「
「お帰りなさい、
銀の花粉と桃色の花びらが舞い散る中、強く、今までにないほどの力で
「愚かな俺を、許してくれるか」
「あなたさまは……愚かなどではありません。命の恩人で、わたしの一番大切な方です」
「これからも俺の側にいてくれるか、
「はい。もちろんです」
「俺は……俺は、君だけを思っている」
「わたしもです、
自分を抱き留める腕に、いや、それを越えて背中へと手を回す。
同じ、鼓動だ。
片手で頬を持ち上げられた。
そして、唇が重なる。
その口付けは、唇の感覚は、まぎれもなく忘れがたいあの日と同じものだ。
「……はじめてがあなたさまで、よかった」
彼の頬は紅潮していた。
抱き合う
「
ぽつり、と
舞い散る花の花弁は桃色だ。銀の花粉が砂粒のようにきらめいて、やまない。
二つは淡く輝きながら、町や山へと降り注ぎ続けている。
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