5-4.おぞましく、気持ち悪いのですか

 真鶴まつるの眼前で、ゆっくりと首を持ち上げたヤマタノオロチが一つ、咆哮ほうこうする。


 びりびりと全身をわななかせるほどの声は、おさの四人に苦痛な面持ちを作らせるに十分だった。


「土蜘蛛、貴様、一体何をした!」


 らんが激昂の声を上げ、怯えた様子のふゆに問う。


星帝せいていさまが末路衣まつろいをなさるなど、よほどのことがなければありえん!」

「わ、わたくしはただ、加賀男かがおさまをなぐさめようと……」

「嘘をつくでない。これはただ事ではないぞえ。……よもや」


 檜扇ひおうぎを開き、オロチと対峙していた銀冥が、流し目でふゆ音を見た。


「よもや、酒を飲ませたのではあるまいな?」

「それは……それは、全てを忘れたいと加賀男かがおさまが」

「このれ者がっ! 星帝せいていどのが酒を飲んだならば末路衣まつろいすると知っておろうが!」

「わたくしは悪くないっ。そこの女が、人間の身でありながら加賀男かがおさまのお心を縛るからっ」


 ふゆは憎悪をなくすことなく、真鶴まつるへとねたみのこもった視線を向ける。


真鶴まつる真鶴まつるとそればかり……! こ、この娘が加賀男かがおさまを裏切ったのですわっ」

「アンタの差し金だろ。オレの娘にまで危害を加えたとも聞いてる」

「わたくしは無実ですわ! なぜ人の子の言葉を信じるの!?」


 激情でか、ふゆは金切り声を上げた。崩れた化粧、埃まみれの着物。そこには美しさなど一つもない。


 真鶴まつるを横抱きにしたまま、ハナミが呆れたようなため息をつく。


「バカとの話はあとだね。まずは星帝せいていの旦那をどうにかしなくちゃ」

「あ、あのようなおぞましい化け物を、一体どうすればいいと仰るの?」


 おぞましい、その単語に真鶴まつるはまた、前を見据えた。


 うごめくオロチが鳴いている。叫んでいる。壊れたように、それこそ理性をなくしたように。


 どこがおぞましいのだろう。不気味なのだろう。ふゆ罵詈ばりは全く心に響いてこない。


 加賀男かがおが今も、心底苦しんでいるのがわかる。


(泣かないで、あなたさま)


 おののく腕を動かし、加賀男かがおへ、オロチへと手を伸ばそうとした直後。


「一旦退却するぞえ。犬神よ、しんがりは我が務めようぞ。まずは寿々すずの小僧と共にみなを退避させねばのォ」

「承知。土蜘蛛は自分が連れていく。夜叉鬼やしゃおに、先頭を頼む」

「あいよ。真鶴まつる、ちょいと速さを上げる。しっかり掴まってな!」


 即断即決とはこのことだ。真鶴まつるが手を伸ばしきる前に、疾風はやてのごとき速度でハナミは宙を駆け出した。


 オロチがまた、声を上げる。


 一歩、また一歩と歩みを進めるオロチに、檜扇ひおうぎを振るうのは銀冥ぎんめいだ。


「土蜘蛛、みなを逃がせ。貴様の民だろう」


 銀冥ぎんめいがなんらかの力を使い、オロチの動きをとどめる。その様子を家屋や道端で見上げ、硬直しているのは蜘蛛の面々だ。


 首の根っこを掴まれたふゆは、しかし体を震わせたままで小さな口を開け閉めする。


「こ、腰が抜けて、とても」

「民を守ることなくおさの地位に就くなど、笑止! みな、退避せよ!」

「アンタら、逃げないと大変な目に遭うよっ。早くしな!」


 らんとハナミの言葉に、ようやく我に返ったのだろう。それこそ蜘蛛の子を散らすように、それぞれあちこちに逃げていく。


 だが、中には逆に、未だ真鶴まつるたちへと向かってくるものもいた。


「チッ……邪気じゃきに当てられたか。ここは自分がどうにかする。いけ、夜叉鬼やしゃおに

「あいさ。とっとと寿々すずの坊やも逃がさないとねっ」


 らんが速度を落とし、立ちはだかる蜘蛛たちを軍刀でなぎ払う。


 その隙を突いて、ハナミは真鶴とふゆと共に、なんとかみつやの元まで辿り着いた。


真鶴まつるちゃん、ハナミさん! 遅いよっ」

「みつやさん、ご無事ですか?」

「文句を言う元気はあるんだね、アンタ」

「それより……あれ、あのオロチ……加賀男かがお、だよね?」


 ほっと胸を撫で下ろしたような様子で、しかし顔を青ざめさせながらみつやは言う。


「誰が酒を飲ませたんだよ、もう! 末路衣まつろいしてる加賀男かがおを止めることなんて……」

「……ます」


 ぽつりと、真鶴まつるは呟いた。


「え?」

「泣いています、天乃あまのさまが。苦しくて、辛くて……どうにもならないことに」

真鶴まつる星帝せいていの旦那の声がわかるのかい」

「そう思うんです。感じるんです」


 痛む胸に手を当て、ここからでもわかるオロチを見つめた。周囲を飛び回り、動きを抑えているのは銀冥ぎんめいだろう。だが、その力も次第に弱まっているのか、確実にオロチは家屋を壊し、山の方へと向かっていた。


蛇宮へびみやの方に向かってる……なんでだろう」

「無意識に天岩戸あまのいわとを使おうとしている、とかじゃないだろうね」

「え!? そ、それも心配だしツキミちゃんが……!」

「結界があるっても、倒された木に巻きこまれる可能性も少なくない、か」

「ツキミさん……蛇宮へびみやにいる皆さまのことも、心配です」

「お前の、せいよっ!」


 今まで大人しくしていたふゆが、再びうるさく声を張り上げる。


「お前なんていなければ、加賀男かがおさまがあんな化け物にならずにすんだのに! 気持ち悪いお姿になることなんてなかったのにっ」

「ちょいと、いい加減に」

「……何が気持ち悪いのですか?」


 怒気を孕むハナミを手でとどめ、真鶴まつるはふゆの前に出た。


「何が、って……か、加賀男かがおさまに決まってるでしょっ」

「おぞましく、気持ち悪いのですか。あなたにはそう見えるのですね、ふゆさま」

「そうよ! あの黒い蛇も! どこから来たのかわからないけど……突然姿を見せたかと思えば、加賀男かがおさまにすり寄って。不気味ったらありゃしないっ」


 そこまで言わせた真鶴まつるは、心の奥底で何かが込み上げてくるのを感じた。


 手が動く。次の瞬間に、無意識のうちにふゆの頬を手のひらで叩いていた。


「なっ……な、なっ」

「申し訳ありません、ふゆさま。聞くに堪えなかったものですから」


 顔を真っ赤にし、口を開いては閉じるふゆに、真鶴まつるは微笑んだ。


「あなたにはもう、天乃あまのさまを任せられません」


 ヒュウ、と一つハナミが口笛を吹く。


「こ、小娘……人間の小娘程度が……ッ」

「動くんじゃないよ、土蜘蛛。アンタ程度、オレ一人でどうにかできる」

夜叉鬼やしゃおに……!」


 屈辱でだろうか、それとも怒りでだろうか。ともかく憎悪をまとうふゆへ、棍棒を突きつけたのはハナミだ。


「修羅場はさておいて。加賀男かがおのこと、どうする?」


 おそるおそる、というようにみつやが手を挙げる。


「このままじゃあ、半日もしないうちに影ヶ原かげがはらの町は全滅だよ」

「……天乃あまのさま」


 みつやの言葉に、また真鶴まつるの心が少し、軋んだ。


 壊したくないだろう。暴れたくないだろう。まつろわぬものたちを慈しみ、彼らと共に歩んできた加賀男かがおのことだ。正気に戻った際、壊れた町を見て強い衝撃を受けるに決まっている。


銀冥ぎんめいもそろそろ力を使い切るね。防戦一方なのが悔しいけどさ。どのみち、攻撃に転じることができても、名付け親にオレたちの力は効かない」

「名付け親……」


 真鶴まつるはもう一度、オロチを見た。


 ハナミのいうとおり、銀冥ぎんめいの力が少しずつ弱まっているように思える。オロチの進む速度は次第に速まり、もう山の目前へと迫っていた。


「……こがね?」


 ふと、気付く。


 一つの頭、そこだけが漆黒だ。そして瞳もホオズキ色ではなく、金。中央ではなく端にある一体――暗緑色の体にまぎれて見えなかったが、確かに異なっている。


 それがこがねだとしたら。


 そこが全ての大元だとしたら。


「ハナミさま、お願いがあるのです」

「なんだい、真鶴まつる

「あの山まで、天乃あまのさまが向かっている山まで、わたしを連れて行くことはできますか?」


 振り返り、たずねる。ハナミが唖然とした表情を作った。みつやも同様にだ。


真鶴まつるちゃん……どうする気?」

「あの、基本は名付け親が強いのですよね?」

「まあね。名付けるのはまじないだから。名付けたものの下になるっていう」

「それなら……どうにか今の状況を変えることが、できるかもしれません」


 真鶴まつるが続ければ、みつやがはっと、何かに気づいたようなおもてをした。


「まさか、こがねのこと? そりゃまあ、君が名付けたのは加賀男かがおの分身にだけど」

星帝せいていの旦那の分身に? どういうこったい」

「説明はあとです。お願いです、ハナミさま。わたしを山の近くに」

「……死ぬかもしれないよ、アンタ」


 脅しではない忠告に、真鶴まつるはただうなずく。


「怖くないのかい? 勇気と蛮勇ばんゆうは、違うよ」

「怖いです。本能が怯えていて、今も足がしっかりしていません……でも」


 笑った。心からの喜びをこめて、頬を赤らめながら。


「わたしは今度こそ、天乃あまのさまのお役に立ちたいのです」


 破砕音。逃げ惑う足音。オロチの、いや、加賀男かがお咆哮ほうこう。そんなものがこだました。


 しばしの静寂ののち、ため息をついたのはハナミだ。


「……わかったよ」

「ハナミさん! 真鶴まつるちゃんも。危険すぎる!」

「オレはこの子に賭けるよ、寿々すずの坊や。ここで逃げてもどうせみんな、死ぬ。そうじゃなくても致命的なことになるかもしれない。だったら真鶴まつるに託すよ、オレは」

「ありがとうございます、ハナミさま」

「そうとなれば転移の方がいいね。走るより確実に時間を縮められる」


 ハナミが差し出した手に真鶴まつるはうなずき、かっちりと握る。


寿々すずの坊や、アンタは土蜘蛛を見張ってな。それくらいできるだろ」

「うん……真鶴まつるちゃん、無事でね、絶対に」

「はい、無事に帰ってきます。天乃あまのさまと二人で」

「いくよ、真鶴まつる

「お願いします、ハナミさま」


 目を閉じた瞬間、ツキミに送ってもらったときのような酩酊感めいていかんがする。


 まぶたの裏に、加賀男かがおとこがねの姿が浮かんでいた。

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