5-2.邪気、怖いですの

 軽い目眩がした次の瞬間、真鶴まつるが目にしたのは一面の赤、赤、赤。


 赤く巨大な満月が、影ヶ原かげがはら全体を染め上げていた。


「月が……赤い」


 天を見上げ、それから周囲を確認する。どうやら今いる場所は、はじめて加賀男かがおとここへきた際に訪れた山の頂上付近のようだ。


「山の中か。加賀男かがおの屋敷までどのくらいだろ」


 背後から現れたみつやは、紫紺しこんの髪と紫の瞳という姿となり、様子を見定めている。


 そういえば、と真鶴まつるは自分の髪を一房持ち上げてみた。髪の色が多少、常磐ときわ色に近くなっていることに気付く。だが、すぐにそんな場合ではないと首を横に振った。


「そこまで時間はかからないかと……最初にきたときもこの場所でしたから」

「なるほどね。まつろわぬものたちの力や気配は……うん、ない。これなら館まで突っ切ることができると思う」

「はい。あの、月が赤いのはどうしてでしょう」

「あいつの力の暴走具合らしいけど。ぼくもお目にかかるのはこれがはじめて」


 うなずく真鶴まつるもまた、満月により自身の瞳の色が変わるのを自覚した。


「急ごう、真鶴まつるちゃん。少しばかり走るよ」

「わかりました」


 みつやと共に、真鶴まつるは駆け出す。草履ぞうりは痛くない。何度も確認して、加賀男かがおが買ってくれたものだ。鼻緒も簡単にちぎれはしないだろう。


星帝せいていさまがご乱心!』

『逃げられん、我らはここでお陀仏だぶつだ!』


 途中、ナラやブナの木から悲鳴が伝わってきた。梢は風もないのにこすれ続け、藪もまた、逃げ出したいのかその葉を震わせている。


(ごめんなさい、今はみんなの心をなぐさめていられないの)


 普段なら、安心させるために対話をしていただろう。だが、今は一刻も早く、加賀男かがおをなんとかしなければどうにもならない。


 唇を噛みしめ、走り続けて石灯籠いしどうろうの道へと出る。明かりは相変わらずついておらず、ツキミの安否が気になった。


 先を急げば、加賀男かがおと二人でくぐった白い鳥居が見える。いまやその美しさは禍々まがまがしいほどの赤に侵蝕され、不気味な雰囲気を漂わせていた。


「ツキミさんは大丈夫でしょうか」

加賀男かがおの屋敷は四つの鳥居で守られてる。ここまでくればきっと平気なはずだよ」


 走っていた足を止め、二人で煉瓦造りの門を通る。館は、見た限り無事だ。だが、引き戸には鍵もかけられていなかった。


「ツキミさん、大丈夫ですか? どこにいらっしゃいますか?」

「ツキミちゃん、返事をしてくれたまえ。ぼくと真鶴まつるちゃんだよ!」


 土足のまま館内に入り、片っ端から扉を開けては中を確認する。


 客間、食事処、応接室――そうして台所近くにある廊下を通ったときだ。


「ひいさま……」

「ツキミさん!」


 弱々しい声が、した。ツキミの部屋、使用人のための部屋からだ。真鶴まつるとみつやは慌てて使用人室に飛び込む。


 そこには、布団の上にうずくまっているツキミがいた。周囲には乾いたジャムパンが数個、落ちている。


「ツキミちゃん、どうしたっていうんだい。大丈夫かい?」

「うう……みつやさん、体が重くて熱いですの……」

「ひどい熱だ……真鶴まつるちゃん、水を持ってきてくれないかな」

「急いで準備します」


 息を荒げ、赤い顔をしたツキミの容体を確認するみつやに、真鶴まつるはうなずいた。


 台所におもむき、たらいへ水を張る。冷たい水に数枚手拭いをつけると、両方を持ってツキミの部屋へと戻った。


 そこで真鶴が目の当たりにしたのは、みつやが小刀をツキミへ振りかざそうとしている姿だ。


「みつやさん、何をっ」


 止めようとしたが、彼は気にすることなく、ツキミの体周辺の空間を切り裂いた。


 すると以前、真鶴まつるの草履近くに現れたように、空気が盛り上がって蜘蛛の姿をとる。


「蜘蛛の毒、邪気じゃきだよ。今、はらった。これで少しはよくなるといいけど」

「それではまさか……あのときの停電は」

「あっ、体、少し楽になったですの」


 ぱちくりと目をまたたかせ、ツキミが喜びの声を上げた。


「だめですよ、ツキミさん。まだ寝ていなくては」

「ひいさま……」

「そうだよ、まだ完全に毒が抜けてないからねえ」


 みつやがツキミの体を横抱きにし、布団に改めて寝かせる。


 真鶴まつるはツキミの額に、角の上から冷えた手拭いをかけてやった。


「ツキミちゃん、停電になったのは体の不調からだよね?」

「はいな……パンを食べてたら首がチクリ、ってしましたの。それから熱が出て。ずっと転がってましたの」


 申し訳なさそうな表情を作り、ツキミは言う。


「じゃあ、やはりふゆさまが故意に?」

「ここは結界に守られてるとはいったけど、招いたものの力を止めることはできないんだ。内側からじゃなく、外側からの護りだからね。たぶん、隙を見て蜘蛛を放ったんだろう」

「ツキミさんにまで、なんてひどいことを」


 真鶴まつるは呟き、唇を噛んだ。


 自分だけでは飽き足らず、まだ幼いツキミを毒牙にかけるとは。怒りの感情はまだ取り戻せていないものの、悔しい気持ちが胸中にこみ上げてくる。


 みつやが大げさにため息をつき、かぶりを振った。


「馬鹿だよねえ。これを夜叉鬼やしゃおにのハナミさんが知ったら……」

「うう、かかさまに未熟だと怒られるですの。蜘蛛ごときにやられるなど間抜けですの」


 恨めしそうにツキミが唸り、それを見たみつやが苦笑を浮かべた。


「仕方ないさ。成人じゃない鬼子は、霊気れいきも強くないわけだから。ゆっくり養生したまえ」

「はいな……」

「ツキミさん、寝る前に一つ聞かせて下さい。天乃あまのさまは今、どこに?」

「わからないですの。ひいさまの荷物をまとめてどっかに送ったと思ったら、凄く怖いお顔で外に……もう、ウチ、そのとき半分意識飛ばしてたんですの」

「そう、ですか……」

「蜘蛛おさが関わっているとなると、きっとあの女のところにいるんじゃないかな?」

「ふゆさまが治める区画は、確か……土淵つちぶちですよね」


 真鶴まつるはツキミの額に被せた手拭いを変え、顔を引き締める。


「わたし、ふゆさまの下にまいります」

「ぼくも行こう。今の状態の影ヶ原かげがはらを一人で歩かせられないよ」

「でも、ツキミさんを診ててあげなくては」

「ウチなら平気ですの……土淵つちぶちに行くならお手伝いしますですの」

「ツキミちゃん、体の具合は?」

「ひいさまたちを移動させて帰るくらいには、回復してるですの。それ以外にお手伝いはできませんの……」

「十分すぎます。ツキミさん、お願いできますか?」

「はいな! よっこいしょっ」


 手拭いをとり、ツキミは勢いよく起き上がる。


「準備は大丈夫ですの? しゅんっ、ていきますの」


 ツキミが手を差し出してきた。真鶴まつるはうなずき左手を、みつやもまた、小刀を持ったまま右手をそれぞれ握る。


「そーれ」


 トントン、と二度、ツキミが爪先で畳を叩いた刹那、浮遊感が真鶴まつるを襲った。


 次の瞬間には、江戸時代のような街並みが視界に飛びこんでくる。


「ここが土淵つちぶちですの。お城は、まっすぐ」

「ありがとうございます、ツキミさん」

「なんかふわふわするですの……邪気じゃき、怖いですの」

「うん、助かったよ。ツキミちゃん、早く屋敷に戻って。あとはぼくたちがなんとかするから」

「はいな……」


 再び足で地面を叩いたツキミが、消えた。


 その直後だ。凄まじい破砕音が聞こえたのは。


「えっ……」

「うわっ!」


 けたたましい音と共に、爆風が真鶴まつるたちを襲う。髪と着物を押さえ、丸まるようにして真鶴まつるはその勢いに耐えた。


真鶴まつるちゃん、あれ!」


 数秒早く前を見据えたみつやの言葉につられ、怖々と瞳を開ける。そこには。


「……蜘蛛と、鬼?」


 巨大な土蜘蛛、女郎蜘蛛の群れと、それに攻撃をしたと思しき鬼の軍勢がいた。


「出てきな、高慢ちき蜘蛛女! 星帝せいていの旦那に何かしたのはお見通しだよっ」


 巨大な鬼の肩、そこに乗って啖呵たんかを切っているのはハナミだ。飛びかかってくる蜘蛛を、それこそ蹴散らすように手にした棍棒で殴っては豪快に笑う。


「ハナミさま! ハナミさま、真鶴まつるです!」


 真鶴まつるはハナミへと必死に声をかけた。


「うん?」


 蜘蛛がたじろいだ瞬間、攻防の音がやみ、ハナミがこちらに気付く。


「なんだ、ちっこい真鶴まつるか。どうしてこんなところにいるんだい、アンタ!」

天乃あまのさまをお救いするためですっ」

「救う……? この邪気じゃきに異様な月、やっぱり星帝せいていの旦那に何かしたんだね、あの女」

「それはまだわからないんだけど、ハナミさん。でも、ツキミちゃんに蜘蛛をけしかけたのは事実なんだ」

「ツキミに、かい。そりゃまたずいぶん、娘を可愛がってくれたもんだねぇ」


 ハナミの怒気が膨れ上がり、込められた殺意が蜘蛛を押し返す。だが。


真鶴まつるちゃん、上!」


 はっとして真鶴は右上を見上げた。瓦屋根から飛びかかってきたのは、一匹の蜘蛛だ。


(間に合わない……!)


 避けることも逃げることもできないまま、蜘蛛の口が開くのを見た、刹那。


退け、げすが」


 冷ややかな声音と共に、蜘蛛が千切りにされた。


「らんさま……!」


 軍刀の振りだけで蜘蛛を切ってみせたのは、犬神のらんだ。


「ほほほ、また会ったの、古野羽このはの出来損ない」

銀冥ぎんめいさま!」


 高笑いに真鶴まつるが振り返れば、犬神のらんと揃って並ぶ九尾の銀冥ぎんめい、二者の姿があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る