第五幕:願はくは われ春風に 身をなして

5-1.お前を失ったからだよ

 支度を全て終え、トウ子と輝広てるひろに見送られて、真鶴まつるはみつやと共に陽月ひづき家をあとにした。


真鶴まつるちゃん、その着物よく似合ってるねえ……って、こういうこというからだめなのか」


 提灯ちょうちんを持って弱々しく笑うみつやに、真鶴まつるは苦笑する。


「みつやさんは悪くありません。信じてもらえなかったわたしのせいです」

「大方は蜘蛛おさのせいだろう、きっと。加賀男かがおにいらないことを吹き込んだんだろうさ。陽月ひづき家の当主も言ってただろう、真鶴まつるちゃんへの罪悪感が弟にはある、ってね」

「わたしは、嬉しいです」

「嬉しいって?」

「幸せを願ってくれていることが。でも、私の幸福は天乃あまのさまと共にあります」

「そっか」


 まるで自分のことのように、みつやは相好そうごうを崩した。真鶴まつるはうなずく。


 みつやを先頭に、真鶴まつるは見知らぬ道を少し早めに歩いた。


 現在、の刻――夜四つ半二十二時。月明かりと提灯ちょうちんがあるとはいえ、外は暗い。霞町かすみちょうは住宅地ということもあってだろう、人気が皆無だ。ところどころに僅かにある電灯には、がたかっている。


 みつやは先程から、道の様子を見ては何かを探しているようだ。


「みつやさん、何を探してらっしゃるのですか?」

「四つ角。辻にあるんだよ、影ヶ原かげがはらへの入口が」

「それでしたら、私の実家が近くです。天乃あまのさまが迎えにきたときも、そこから」

「よし。じゃあ真鶴まつるちゃんの実家に行こう」

「ご案内します」


 複雑な道から、真鶴まつるの実家までは距離があった。大通りに出てから再び家屋を目指す。


「……ぼくの母親は、優しい人だった」

「え?」


 不意にみつやが口を開くものだから、真鶴まつるはつい、横にいる彼を見上げた。


 みつやは眼鏡を指で押し上げ、懐かしむような面持ちを作る。


「愚かなまでにね。誰にでも優しかった。父が正妻せいさいの座を他の女に譲る、といったときも黙って受け入れてた」

「どうして……?」

「あの人は弱い人だから許してあげましょう、といってね。まあ、僕を父の暴力から守るためだったのかもしれないけど」

「みつやさんも虐げられていたのですね」

「うん。殴られて、蹴られて。しょっちゅう物置に閉じこめられてた。暗所が怖くなったのはそれが原因」

「そう……だったんですね」


 加賀男かがおの屋敷で、母を呼びながら震えていたみつやを、真鶴まつるは思い出す。


「ぼくは真鶴まつるちゃんに、母様の面影を重ねていたのかもしれない」


 ぽつり、とささやかれた言葉に、真鶴まつるは少し目をつぶる。


 きっとみつやは、母の温もりを求め、夜な夜な花街かがいへ行っているのだろう――そう推測し、まぶたを開けて静かに答えた。


「わたしは……いいえ、誰もみつやさんの母親代わりにはなれません」

「うん。わかってるんだけどね。花街かがいに行くのはやめられそうにないなあ」


 自嘲気味に笑い、みつやはそれから話をやめた。


(優しさは毒、というのは、みつやさんの原風景に焼き付いた言葉なのね)


 沈黙の中、真鶴まつるは思う。優しさは人を甘えさせることにようやく気付けた。


(それを与えるのは、ただ一人でいい……天乃あまのさまに、注ぎたい)


 無言のとばりが降り、歩いて十五分ほど。ようやく真鶴まつるたちは洋館の近くまで辿り着くことができた。


「あ……」


 白熱灯で浮かび上がる実家。その隅に建てられた離れは、まだ取り壊されていない。


「あの離れは?」

「わたしが暮らしていた場所です……お姉さまがもしかすれば、壊すことをやめさせたのかもしれません」


 そう、小声で答えたときだ。


 酔っ払ったと思しき真鶴まつるの父、葉太郎ようたろうが、千鳥足で馬車から降りてくるのを見た。


「どこかに隠れましょう」


 みつやと共に、近くにあった電灯の影へと身を潜める。


 葉太郎ようたろうを出迎えるのは使用人の女だ。彼は使用人の肩に、倒れ伏すようにして玄関の中へと入っていった。


「いいの、真鶴まつるちゃん」

「何がでしょう?」

「だって、長雅花ながみやばなを使ってないんだよ、君はさ。父君の誤解を解かなくていいの?」

「……わたしはまだ、長雅花ながみやばなを咲かせられていません。古野羽このはの女としては未熟です。それに」

「それに?」

輝政てるまささまには恩義があります。天乃あまのさまとわたしを出会わせてくれた恩が。現当主の輝広てるひろさまにもお世話になりました。陽月ひづき家の秘密を暴露するような真似は、できません」


 真鶴まつるはきっぱりと言い切った。


 それに、葉太郎ようたろうが真実を知れば、加賀男かがおへ憎悪が向くだろう。よしんば、完全に引き離される可能性もありうる。ならば誤解されたままで構わない。


「行きましょう、みつやさん」

「なんか強くなったなあ、真鶴まつるちゃん……」


 ささやくみつやに苦笑だけをこぼし、真鶴は樫の木が見える四つ辻へと向かった。


『真鶴や』


 唐突に木々の梢がさざめき、真鶴まつるに思念を跳ばしてくる。


「じいや?」


 天を見上げると、風一つもない中、葉がこすれているのが見えた。


『久しぶりだの、元気にしておったようで何より、何より』

「じいやも無事でよかった。ヤツデやユズリハも、大丈夫?」

『大丈夫よ、真鶴まつる

『トウ子さまが当主さまにお願いをしてくれたんだ! だから平気さ』

「やっぱりお姉さまだったのね。あなたたちが刈られたりしなくて、本当によかった」

真鶴まつるや、安心するにはまだ早いぞ』


 胸を一旦撫で下ろした真鶴まつるに、厳しい声音で樫の木が忠告する。


「ええ、これから影ヶ原かげがはらに向かうから……」

『それもある。今現在、まつろわぬものたちが荒ぶりつつあるのだ』

「まつろわぬものたちが?」

「どうしたの、真鶴まつるちゃん」

「樫のじいやが……まつろわぬものたちが、荒ぶりつつあると」

「そりゃあ確かに、今日は満月だけど……」


 みつやは眉根を寄せ、顎に指を添えて何かを考える素振りを作った。


「樫のじいや、一体何が起きているの? 満月だからかしら」

星帝せいていさまが我をなくしたのだよ。すでに影ヶ原かげがはら霊気れいきの均衡を失っておる』

天乃あまのさまが、我をなくした? 霊気れいきの均衡……?」

加賀男かがおが我をなくしただって? なんてこった、影ヶ原かげがはらは人間が入れる場所じゃなくなりつつあるぞ」

「どういうことですか? みつやさん」


 小首を傾げて問えば、みつやは難しい顔でその場をさまよいはじめる。


霊気れいきの均衡、っていうのは、いわば天気の状態。普段は加賀男かがおがいるから落ち着いてる。でも、その加賀男かがおが暴走したなら、霊気れいきは裏返って邪気じゃきになる」

邪気じゃき……悪いものの気のことですよね?」

「そう、古来から病をもたらす元になった、とされるものに。それに当てられて、一般のまつろわぬものたちもきっと、姿を本来のものに変えてしまうだろう」

「猫又さんや烏天狗からすてんぐさんたちも、危ないのですか?」

「凶暴になる。人間や敵意を持ったものを食らうほどに、ね。とはいえ、こんなことは今までになかったから、加賀男かがおから聞いたことをそのまま伝えてるだけだけど」

「でも、どうして天乃あまのさまが我を……」


 うろたえるみつやを見ながら呟けば、樫がさざめいた。


『お前を失ったからだよ、真鶴まつる

「えっ?」

『お前を失い、深い悲しみと絶望でやけになったのだ、星帝せいていさまは』

「わたしが……いなくなったから?」

『それだけ真鶴まつる、お前は思われていた。我らよりも深く、強く、あのお方はお前を慕っていたのだよ』


 また真鶴まつるの胸が、とくん、と胸が高鳴る。


 影ヶ原かげがはらが危機にある。それをもたらしたのは、自分だ。それでも加賀男かがおの強い気持ちに、思いに報いたいと思った。


 微笑んで一つ、うなずく。


「わたし、天乃あまのさまの下へ、まいります」

真鶴まつるちゃん! 危ない、だめだ。加賀男かがおの結界ですらぐちゃぐちゃで、邪気じゃきが漏れ出てる。今影ヶ原かげがはらに行けば、たちまち襲われてしまうよ」

「大丈夫です。わたしには……この懐中時計があります」

「それ、って」


 帯から差し出してみつやに見せた懐中時計は、仄かに緑に輝いていた。


天乃あまのさまからお借りしたものです。影ヶ原かげがはらの他の四区画に引きずられないよう、まじないを施してあると」

「ちょっと手にとっていい?」

「はい、どうぞ」


 と、みつやに手渡す。彼はじっと、懐中時計を凝視した。穴が空くくらいの勢いでだ。


「なるほど……加護のまじないか。真鶴まつるちゃん、どうにかなるかもしれない」

「本当ですか?」

「秒針は狂ってるけど、正しい霊気れいきがこの時計からは感じられる。君に近付いた場合、まつろわぬものたちは少しの間、正気を取り戻すだろう」


 言って、みつやは時計を真鶴まつるに返す。代わりにスーツのふところから出したのは、小刀だ。


「結界の場所は見つけた。あとはそれを切って飛びこむ。準備はいい?」

「……大丈夫です、いつでも」


 真鶴まつるが息を吸い、首肯した直後。


「やっ」


 と、かけ声一閃、みつやは四つ角の虚空を切り裂いた。


「空間へ、走って!」


 真鶴は言われるまま、裂け目のようなものに飛びこむ。


 迷いも、恐れも、何もなく。ただ、慕う人のところへおもむくために。

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