第7話 冷ややかな瞳、微かな温度

 反射的にアリシアは青ざめる。そんな、一番見られたくない人に、この光景を見られるだなんて──。

 ボルケニクの腕の力がその声に反応して緩む。動揺していたものの、その隙にアリシアは、ボルケニクからきちんと距離を置いた。

 そろ……と、アリシアは突然現れた男を……フレドリックを、恐る恐る見上げる。フレドリックは、こちらを冷ややかな瞳で見つめていた。

 いつも犬猿の仲を装っている時、彼はこういう目をしている。本意ではなく、あくまで演技だ。でも、今は? 今……自分は彼に、どう思われているのだろう。アリシアは、恐ろしくてたまらなかった。

 だがそんな彼女に構わず、二人の男は言い合いを始める。

「そう言うお前は、覗き見か?」

「とんでもない。通りかかったら、貴方たちの姿が見えただけです。あまりに風紀を乱すような光景でしたから、声を掛けさせていただきました」

「風紀を乱すぅ? ははっ!! そんなまさか!! 俺は婚約者と愛を育んでいたに過ぎない」

 そう言って肩を引き寄せられそうになったので、アリシアは慌てて咳をするフリをして体を動かし、それを避ける。ボルケニクは眉をひそめていたが、彼女にはそれどころじゃなかった。

 勝手に婚約者と言われ、好きな人に浮気とも捉えられかねない現場を見られ、もう散々だった。手の中のクッキーを思わず握りしめ、ぱき、と小さな音が響く。

「貴方にとってはそうでも、他の者はそう感じないと思います。自分がどう見られるか、それを考えてくださらないと身を滅ぼすのは貴方ですよ」

「……噂に聞いていた通り、お前は陰気臭い奴だなぁ。そんなにグチグチ並べ立てないで、もっと単純に言えないのか!?」

 フレドリックを嘲るように、ボルケニクはそう告げる。その隣に立たされているアリシアは、不愉快極まりなかった。今すぐ口を開き、私の愛する人を侮辱しないでと、怒鳴りつけたかった。

 だがそんなことをしてしまえば最後、アリシアは自分の恋人だと吹聴して回る彼のことだ。自分たちが恋仲であることは、あっという間に広がってしまうだろう。

 何も言えないでいると、ふと、フレドリックの瞳がアリシアを映す。思わず肩を震わすと、彼は静かな声で告げた。

「──レイアナード。クイスト先生がお呼びだ。すぐ来るように、と」

「……え」

 クイスト、というと、時間厳守で有名な教師だった。授業に一秒でも遅れれば、十枚以上の反省文を課される。彼の言う「すぐに来るように」、は、「五分以内に来い」と同義だった。

 ボルケニクも彼の恐ろしさをよく知っていた。だからこそ彼はフレドリックに早く言え、と告げると、アリシアの背を押す。

「こちらだ。案内する」

 そしてフレドリックの先導の元、アリシアはその場を離れた。

 背中に刺さるボルケニクの視線は気にならない。アリシアには、目の前をきびきびと歩くフレドリックの方を、ずっとずっと見ていたかった。


 ◇ ◆ ◇


 しばらく歩いて辿り着いたのは、裏庭だった。日中だというのに日が当たることはなく、なんだか湿っぽい。少し風が吹くだけでうすら寒く、アリシアは思わず腕を摩った。

 そして遅れて気づく。ここに自分たち以外の姿はない。……てっきりクイストの所へ連れて行かれると思ったのだが。

「……クイスト先生からの呼び出しという話は方便……ということかしら」

「流石だな、その通りだ」

 いつも通り、棘のある声で告げると、フレドリックは振り返りながら冷たい声で答えた。

 どこに人の目があるかは分からない。だから二人はどこにいようと、この態度を崩すことはない。……だがアリシアは思わず、自分の口元が緩むのを感じていた。

 二人きりというこの状況、そしてフレドリックに「流石だ」と褒められたのだ。これが喜ばずにいられるだろうか。

 二人の課したルールの一つに、「悪口を本意だと捉えない」とある。つまり誉め言葉は素直に受け取っていいということに他ならないのだから。

 だがアリシアの喜びも束の間、フレドリックは大袈裟なくらいなため息を吐くと、アリシアに向けて冷たく告げた。

「……君は婚前の乙女だという意識をよく持っておいた方が良い。あれだけ男に迫られたのは、君の警戒心不足なんじゃないか?」

「……」

 ご尤もだった。ぐうの音も出なかった。

 確かに、油断があったのは否めない。あれだけ近くに来られていたのに、全く気付かなかったのだから。いくらフレドリックのことを考えていたとしても、浮足立ちすぎだ。

 気が抜けているのかもしれない。気を引き締める意味でも、アリシアは大きく息を吸った。

「……ご忠告、どうもありがとう。それから、助けてくれたことも」

「……素直に君が私に礼を言うとはね。明日は悪天候になりそうだ」

「あら、実現させてあげましょうか?」

「いや……遠慮しておく」

 空から光を奪えば、ここら一帯を悪天候で包むことは容易いだろう。雷光を走らせてもいいかもしれない。一応案はあったが却下されたので、でしょうね、とアリシアは心の中で呟いた。

 そこでふと、フレドリックの瞳がすうっ、と細まった。そしてその瞳の奥に、微かな温度が宿る。この暖かさを、アリシアはよく知っていた。誰よりも。


『俺の可愛いアリス。君が可愛いということは俺が誰よりも理解している。……でも俺だけのものだから。だから、あまり他の奴に触らせたら駄目だよ』


 それはアリシアを心配する慈愛であり、同時に、どろどろと渦巻く独占欲でもあった。それを一心に受け止め、思わずアリシアは背を震わせてしまう。唇の隙間からは微かに息が漏れた。

 口パクで告げられたその言葉に、アリシアは小さく頷く。そして同じく口パクで返した。


『ごめんなさい。でももちろん分かっているわ。私の心も、体も、全て貴方のものだもの』


 フレドリックも、思わず小さく微笑む。こんなに可憐な乙女が、自分をこんなに好いてくれているのだ。これが喜ばずにいられるのだろうか。

 だがすぐに表情を元に戻すと、冷たい表情で踵を返す。

「では、私はこの辺で。今後、目に余るような行為は控えることだな」

「ええ、貴方に言われなくてもそうするわ。次は助けてくれなくても結構よ」

 最後にお互い嫌味を放ち、二人は背を向けて歩く。

 少しの寂しさを覚えつつも、彼と会話を重ねることが出来たこと。アリシアは今、その貴重な喜びを心の中で反芻し、咀嚼していた。


 ◆ ◇ ◆

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