第19話 腹を満たすもの

 リンデバウムから風に運ばれてきた、月明かりの花びら。夜を映すテレーゼ川——


 おぼろげだった夢の光景が、いまは音や色まで鮮明にクラリスの頭に浮かんでいた。


(これが予知夢というものなのかしら……)


 偶然それらしい夢を見ただけとするには、不気味なほど脳裡にこびりついている。シンシア——生まれながらに不思議な力があるという魔女が同じ光景を知っていたということが、ただならぬことという裏付けに思えた。


 いまごろは、シスターたちが司祭や他の修道女に事態を報せているだろう。シンシアの言葉を彼らは信じるだろうか。短いあいだで妹のように思うようになった彼女を案じながらも、クラリスは街明かりと月の花びらに飾られるリンデバウムを早足で通り抜ける。


 場所は確信していた。リンデバウムを目指す道中で、たしかに目にした風景だった。


 テレーゼ川に沿う街道のすべてが記憶にあったわけではない。むしろ、鉛の足をどうにかシスターらしい所作で動かすことに意識のほとんどは持っていかれていた。記憶に残っていたのは、そこがリンデバウムの光の花びらをはじめて目にした場所だったからだ。


 小さな修道院の窓辺で、花の夢守りの歌をくちずさみながら幾度も夢想した。薔薇色の街とは、光の花びらとはどんなだろう——

 だが、うす紅色の朝焼けがテレーゼ川にはらはらと舞うその美しさは、少女だったころのたくましい想像力をもってさえ描けなかったものだった。焦れたコクヨウに声をかけられるまで、そこに自分が立っているということすら忘れて見惚れてしまうほどだった。


 間もなくクラリスは楼門の前に立ち止まった。


 とうに開門時間を過ぎた扉は固く閉ざされ、夜の暗闇に厳重に塗りつぶされている。


「コクヨウ!」


 迷わずクラリスは声をあげた。

 すぐさま楼門の上に、金色の双眸が浮かぶ。


「……気づいてたのかよ」

「いいえ、けれどあなた寂しがりやだから、きっとそばにいるような気がしたの。コクヨウ、私を楼門の外までつれていってください」


 クラリスは両腕を伸ばして願ったが、彼は警戒するようにその場からじっと動かない。


「なんであんたが行く必要あんだよ。シンプに任せりゃいーじゃん」

「私があなたに何を願ったか、忘れてしまったのですか。私は宿主の子を助けたい」


 舌打ちのあとで、コクヨウはしぶしぶといったように楼門から飛び降りた。

 ようやく姿があらわになった。ズボンのポケットに両手を入れて、口を曲げ、気まずそうにそっぽを向いている。一歩クラリスが詰め寄ると、彼はそのまま二歩ほど後退した。


「門、ぶっ壊せばいんだろ。どいてろよ」

「だっ、だめに決まっているでしょう! そんなことをせずとも、あなたほどの身体能力があれば、私を抱えて越えられるでしょう」

「トーゼンだ。でもイヤダ」

「コクヨウ……さきほどのことなら、本当に気にしなくていいですから。調子に乗って、少しはしゃぎすぎてしまったのですよね」

「そんなんじゃねぇよ」


 はっきりとした否定だった。

 彼はきつく腕組みをして、クラリスを正面から見つめた。

 傷を負った獣の、痛々しい目つきだった。


「……腹がへって、どうにかなりそうなんだよ。悪夢を食えば食うほど満たされて、そのくせどんどんへってくんだ。いまも、なんだっていいから、喰いたくてしかたねぇ」


 『なんだって』のところで、クラリスを映す金の瞳が獰猛な光をはらんだ。

 しかしたぎるような食欲を向けられた張本人は、腰紐にぶらさげられる小袋をのんびりとあさっていた。旅の途中にかじっていたビスケパンが、包み紙ごところりと出てくる。


「ビスケパンならありますよ」

「そういうことじゃねんだわ」

「食べませんか」

「……食う」


 ビスケパンの乗る手のひらに、コクヨウはそろりそろりと近づいた。


 二歩ほどの距離を置いて、奪い取ろうとするようにぱっと伸ばされた手を、クラリスは両腕で抱えこむようにしてつかまえた。


 どんなに暴れられても絶対に離さないつもりで力いっぱいしがみついたのだが、彼は暴れるどころか石のように硬直してしまった。


「……マジでやめろ。もう、さっきまでどんな力加減であんたに触れてたかわかんねーんだよ」

「心配しなくとも、あなたはもともと結構強引です。それに悪夢なんてふわふわしたものばかりではお腹がすいて当然ですよ。ほら、ちゃんとお腹にたまるものを食べてください」


 割られたビスケパンのかけらが、コクヨウの口に詰められた。


 ほとんど小麦粉と塩、水だけで作られたそれは、修道院のおやつとしては定番だった。よく乾燥されてあるために、噛むのになかなか苦労を要するものだったが、コクヨウはあっけなく噛み砕いてごくりとのみこんだ。


 ぱちぱちと、不思議そうにまばたきがされる。


「あ……? 腹がへらねぇ」

「食べたのですから、それはそうでしょう」

「おい。残りもよこせ」

「もちろん構いませんが、ちゃんと噛んで、ゆっくり食べるのですよ。食材や、作ってくれた方々に対する感謝の気持ちを忘れずに」


 説教が終わらないうちに、すべてのビスケパンがコクヨウの胃に収まった。

 満足げに息をついたその表情は晴れやかで、さきほどまでの憂いなど忘れてしまったかのようにけろりとしている。——空腹はそれだけで気持ちを後ろ向きにさせるものだ。クラリスは我が身をふり返って思う。身体を得るようになってから悪夢しか食べていない彼がそうなるのは、しかたのないことだ。


「元気が出たでしょう。さあ行きますよ」


 だがコクヨウは、戸惑ったように眉を寄せて、なおもクラリスに触れようとしない。


「私のことを食べたいと思うほどの空腹はおさまったのでしょう」

「それはそーだけど……。なぁ、あんたもっとこう、強くなれねーの? もうちょっと固くなるとか、せめて尖るとか」

「それは難しいですが、代わりにあなたが守ってくださるのでしょう」


 おおげさなため息があった。


「なんもわかってねーの!」

「わかってます。コクヨウ、なにか後悔することがあったなら、まずは素直に謝罪を告げたほうがいいと思いますよ」


 コクヨウは下くちびるを突き出した。


 けれど震える手は、おずおずと彼女の肩を引き寄せる。


 頭の後ろを、切なげな目が見おろした。


「ごめん……」

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