第18話 旋律に結われる

 クラリスはすがりつくように腕をまわして、力いっぱいに抱きしめた。虚をつかれた獣がわずかに動きを止める。その一瞬にどうにか首を起こし、右の牙にくちづけをした。


 唾液でぬるついて、熱く、クラリスなど簡単に砕いてしまえる硬さがあった。恐ろしいとは思わなかった。荒々しいキスの最中でさえ、彼は鋭い歯をどこにもひっかけてしまわぬよう、細心の注意をはらっていたのだ。


 牙の硬質さが、くちびるのやわらかさに変わる。大きく見ひらかれた目の、揺れる金色のなかにクラリスは微笑む自分を見つけた。


「よかった、コクヨウ」


 人間の姿となったコクヨウは、飛びすさるようにしてクラリスから離れた。とっさにその腕をつかもうとするが、風のような俊敏さに追いつけず、指先はくうを掻く。身を起こそうとした振動で、頭の後ろが鈍く痛んだ。


「血のにおい……」


 コクヨウは息をのんだ。消え入りそうな声が、ぼうぜんとつぶやいた。


「ああ、たぶん少し頭を打ちつけたのです。大したことはないので、気にしないで——」

「そんなわけない。あんた、我慢してる。そうやって笑うときは意地張ってるときだ」


 つとめてやわらかい表情でなだめようとすれば、押し殺したような低い声に遮られた。


 ガリリ、と耳障りな音がした。

 コクヨウの長い爪が、床に弾かれて割れる。それでもなお彼は爪を立て続ける。


 食いしばられたくちびるからは血がこぼれていた。あごに線を引いて、いまにも滴り落ちようとする。

 見ていられず、クラリスはすくい取ろうと指を伸ばした。

 だが触れる直前で、コクヨウはその場から大きく跳躍した。化け物が壊した格子窓に手を引っかけると、髪の尾をひるがえして、逃げるようにそこから出ていってしまった。


「コクヨウ!」


 叫んでも、聞き届ける者すらいない。


(ようやく正気になってくれたのに)


 頭の傷など、すでに痛みは感じなかった。

 じくじくとした熱は怒りにさえ変わる。一度は抱きしめられたのに、震える身体を離して、怯えた彼をそのまま一人にさせてしまった自分自身がふがいなくてしかたがない。


 だがそんな怒りすら、すぐにむなしくなった。

 なに怒ってんだ、とからかう声がない。

 はじめてひとりぼっちになってしまった。その実感が、遅れて身体を蝕んだ。


 膝を抱えて、ぎゅっと足先を丸める。


 ——目を閉じると、かすかに讃美歌が聴こえた。

 はっとして顔を上げれば、割れた窓ガラスから、シスターたちの歌声が流れこんできていた。いまも彼女たちは、クラリスと黒夢病の患者たちのために祈り続けているのだ。


(なにをばかなこと、考えていたの。私は全然、ひとりぼっちなんかじゃないでしょう)


 意地っ張りな足は、シスターを悠然と立ち上がらせた。


 見渡せば、闇に慣れてきた目にはいくつもの人影が映った。これほどの人々が歌を待っている。彼らを救いたくてこうして立っているのだということを、忘れてはいけない——


(歌わなくては)


 ふと、昨晩の契約のときコクヨウに言われた言葉を思い出した。本当はそう信心深くもない……うなずくことはできなくても、いまこのとき胸に浮かぶのがオズクレイドの顔でないのだから、あながち間違ってもいないのだろうと思われた。


「なぜ泣く なぜ泣く……」


 建物を満たす暗闇は、もはや恐ろしくなかった。それらは眠る人々の心そのものだ。


「いとしいわが子」


 頭巾も衣服もすべて闇に預けてしまって、クラリスは伸びやかに喉を震わせた。


「おそろしい夢を見たのか」


 影が一人、また一人と、訴えかけるように歌いはじめた。掠れる歌声、がなる歌声、涙に濡れる歌声……様々な悪夢を旋律が一つにまとめて、共に歌う者たちの心を流れていく。

 気を抜けば押し流されてしまいそうなほどの激しいかなしみだった。気丈に腕を広げて抱きしめようとする、そんなクラリスを、外から流れこむシスターたちの歌声が支えた。


(ああ……ありがとうございます、シスター。あなた方の歌声は、届いております)


 親との関係に悩む者、

 幼き日の心の傷に苛まれる者、

 犯した罪に心が悲鳴をあげている者——


「見よ うつくしいばら色のいらか」


 悪夢のなかで、彼らは孤独だった。

 けれど夢から醒めてしまえば、ひとりぼっちの者など誰もいない。たった一人に思えても、歌を歌えば、旋律が皆を結いまとめる。


「テレーゼ川に結ばれる 花の都」


 合唱はリンデバウムまで響いているだろうか。クラリスは大輪の花束となる彼らの歌声を抱きしめながら、どこかにひとりぼっちでいるはずのコクヨウを想った。聴こえていてほしい。届いていてほしい。そして、気が向いたらでいいから、一緒に歌ってほしい。


(あれだけでたらめだった私の旋律は、あなたが整えてくれたおかげでこれほど多くの歌声に寄り添えるようになりました。けれどやはり、あなたの歌声がなくては恋しい……)


 影は少しずつその姿を消していた。

 歌声もしだいに減っていく。


「おまえの母は」


 やがてクラリスの声だけが残されて、


「いつでもそこに」


 その歌声も、そっと溶けた。





「終わったのですか、シスタークラリス!」

「ええ、陽が登ればおのずと目を覚ますかと思います。ですがお一方、昨晩の悪魔の宿主が逃げてしまわれて……みなさん襲われたりしていませんか、姿を見かけたという方は」


 空には暗雲がかかっていた。

 月明かりはわずかで、敷地の外れなこともあって窓から漏れる灯りも見当たらない。

 シスターたちは顔を見合わせたが、悪魔を見たと言う者はいなかった。ならば早急に、手分けをして見つけだす必要がある。


(でも私、なぜかしら、わかるかもしれない……)


 夢で見た奇妙な光景がよぎった。

 月明かりが泳ぐ水面に、波紋が立つ。

 そこから現れる、鋭い虎の爪——


「シスタークラリス、わたくし……わかるかもしれません。なんとなくそのような気がするというだけで、はっきりとした根拠はないのですが……」


 おそるおそる、シンシアが手をあげた。


「テレーゼ川の静かな水面に、悪魔が息を潜めている予感があるのです。リンデバウムの月明かりが届くところ……けれどこのあたりは月に雲がかかっておりますから」

「ああっ、私、通りました!」


 唐突にそう叫ぶなり、クラリスは慌てて頭巾をひるがえした。

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