第17話 届かない歌声

 なぜ泣く なぜ泣く

 いとしいわが子

 おそろしい夢をみたのか

 見よ うつくしいばら色のいらか

 テレーゼ川に結ばれる 花の都

 おまえの母は いつでもそこに



(『幼き花の夢守りに捧ぐ子守唄』……この歌は、いったい誰が最初に歌ったのかしら。本当にオズさまのお母さまだったら、素敵なのに……)


 夢守りの御母堂について、残されてある記録は極端に少ない。オズクレイドにいたっては、名前はおろか、彼女がザッハトッシュ家のどの立場にいたのかすら明らかになっていない。人々の信仰が母と子で分散してしまわぬよう、あえて隠されたものとされている。


 この歌を歌うとき、クラリスは自分の母親についても考えてしまう。誰もが幼いころに歌ってもらったというそれを、せめてたった一度でも、歌ってもらったことがあったのだろうか——


 そのとき、肩に触れるコクヨウの手がいっそうしっかり彼女を抱き寄せた。


(……そういえば、彼にはさんざん歌ってもらいましたね)


 家族が恋しくて泣いた夜、わがままを言って何度も歌ってもらったことを思い出す。


 投げやりでいて、彼は歌詞の一つ一つを丁寧に紡ぐ。涙が乾くまで歌い続けてくれた。どうしてもかなしみが止まらなかったある晩は、あんたも歌ってみたらどうかと、ぶっきらぼうに誘いかけてくれたこともあった。


「いやよ。私、おうたがへたなの」

『おー、知るか。俺ばっか飽きた』


 幼いころのクラリスは音痴だった。周りの少女たちに馬鹿にされるので、讃美歌も口だけを動かしてごまかしてきていた。だというのに、悪魔はそんなことおかまいなしとばかりにせっつくので、しかたなく小声で歌ってみたのだ。「なぜ泣く、なぜ泣く……」


 悪魔は笑わなかった。それどころか、声を寄り添わせるようにそっと歌いはじめた。


「いとしいわが子 おそろしい夢を見たのか……」


(あのときはじめて、コクヨウも寂しがっていたことを知って……彼自身、気づいていなかったのかもしれないけれど。歌いおわったとき、彼が私より泣いていたものだから、私あれから……夜が怖くなくなったのでした)


 歌を好きになるのはあっけなかった。


『あんたの歌声、好き』


 そんな一言で、クラリスは歌うことが恥ずかしくなくなった。


(あれ、たしか、そのあともなにか……)


 思い出に耽っていたクラリスの思考は、獣の唸り声に食い破られる。

 はっとして周りを見やれば、闇に溶けるようにして無数の魑魅魍魎が息を潜めている気配があった。すでにコクヨウは獣に姿を変えていて、金色の瞳を爛々と輝かせている。


(昨日よりもずっと数が多い……!)


「コクヨウ、気をつけて!」

『バーカ! こいつらゼンブ俺の獲物だ。ホショクシャがエサにやられるかっての。あんたこそ讃美歌、歌ってろよ。そのあいだはあんたに近づけねぇみてーだからな』


 言うやいなや、コクヨウは床を蹴り出した。

 大言壮語でないことはすぐにわかった。荒々しく闇を食いちぎって駆ける獣は何にも阻まれない。それでいて昨晩シスターたちにそうしたように、寝台に眠る人々を踏みつけないよう器用に渡りながら悪夢を追いやる余裕があった。


 光などほとんど入らない暗闇を、瞳の金色がひらめいて、流れ星のようにいくつもの筋となって駆け抜けた。流星群のようだとあっけにとられるクラリスは、歌うことも忘れて見惚れてしまったが、その背後にしのび寄った悪夢はすぐさま獏王にのみくだされた。


「あっ! ありがとうございますコクヨウ」


 浮かぶ金色はクラリスを見なかった。

 断続的にぎこちない唸り声を漏らしたかと思うと、すぐに彼女のもとから駆け去る。


(コクヨウ……?)


 なにか、ようすがおかしい。

 うぶげを逆撫でられるような、ぞわぞわとした違和感が背筋を這った。

 声をかけるべきか。

 だが杞憂だった場合、邪魔をしたことで不意をつかれた彼が襲われてしまうかもしれない。


 クラリスはおそるおそる、讃美歌を歌いはじめる。反響で、いまどのくらいの悪夢がこの場に残っているのか、どこにその身を隠しているのか不思議と察することができた。


 暴食から逃れようとするそれらは、助けを求めるようにクラリスのもとへ寄ろうとする。だが讃美歌の響きを恐れて、足を迷わせたその隙に——金色を灯す闇にのまれる。


 つんざくような悲鳴が途絶えていく。


 間もなく獣の息遣いだけが残された。


「も、戻ってきてください、コクヨウ。もうすべてあなたが食べ尽くしました」

『グ、ゥ、グァウ……』


 眠る人々から立ち昇る闇が、次々と人型をかたどりはじめる。


 ここから先はクラリスの出番のはずだった。だというのに獏王は木床に爪を立て、次の獲物を見定めるかのように人々の影を睨みつけている。


「コクヨウ……? まさか……あなた、を食べては二度と彼らは目覚めなくなると、自分でそう言っていたじゃないですか」

『グル……ゥ』


 ——正気を失っている。


 ようやく気づいたクラリスが駆けつけるより、獏王が影に飛びかかるほうが早かった。


 よだれを散らして、牙が唸る。


 宿主の影は、ぼうっと煙を昇らせるように揺らめくだけでその場から動こうとしない。


 荒々しい捕食が、クラリスの脳裏をよぎった。食べられてしまう——どうかその前にと伸ばした両手は、彼に遠く届かない。


 そのとき獏王の周囲を蒼白い光が包んだ。

 無数の花びらとなって辺りに浮かぶ。


 照らされて一瞬あらわになった影は、ほんの三、四歳ほどの子供に見えた。


「コクヨウ!」


 クラリスが叫んだのと、揺らめいた花びらが彼の身体を燃やしたのとは同時だった。


『アアアアッ!』


 蒼い焔に包まれたコクヨウは絶叫をあげて暴れ狂う。

 そのあいだに小さな影はもとの身体と一つになって、ひらりと跳ねたかと思うと、格子窓にしがみついた。

 わずかな月明かりに、鋼鉄の鱗に覆われたいびつな背中が光る。


 水かきの張った手で容易く格子を外すと、ガラスを割って飛び出していった。


「コクヨウ、コクヨウ……!」


 火が消えたあとも彼の正気は戻らず、燃やされた衝撃でいっそう我を失ってしまったようで、近づこうとするクラリスに牙をむく。


(どうすれば声が届くの)


「なぜ泣く なぜ泣、っ」


 歌の途中で、彼女は獣の下敷きになった。


 頬によだれが落ちる。


 歌声さえ、いまの彼には届かない。

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