第16話 夜の訪問者

 修道院の門が閉ざされる。

 昼間の喧騒は瞬く間に幻となる。粛然とした石畳の通りを、黒刺繍のベールが行く。


 彫像のように美しい姿勢を崩さないシスターのかたわらには、奇妙な格好をした男の姿があった。スリットが腰まで入るワンピースのような白い上着が、シスターの黒いベールと並んで春の夜風にひるがえる。彼は両手をズボンのポケットにしまい、警戒する猫のように背を丸めながら彼女に付き添っていた。


 腰で跳ねる三つ編みは獣の尾のよう。

 月明かりは、尖る耳先をあらわにする。


 すれ違う者たちは決して声をかけようとはしないものの、誰もが二人に注目していた。胸のペンダントを握りしめて、横目に恐々とうかがう。救世のために悪魔と契約したシスターと、神から彼女を奪い取った悪魔けだものを。


 シスターの切りそろえられた爪が、オズクレイドをかたどるペンダントに触れる。


(コクヨウ)


 隣を歩く男はふり返らない。


「……コクヨウ」

「あん?」

「もしかして私の心が読めないのですか?」

「あー……だな。なに」


 耳を寄せようと近づいたコクヨウから、弾かれたようにクラリスは身体を離した。


 金の目が訝しげに睨む。


「あんだよ」

「いえ……。あの、提案なのですが、しばらくその……き、キスはやめておきませんか」

「はァ⁉︎ んでだよゼッテーやだかんな! つかさっきはあんたからキスしてきたんだろ」

「わああああ!」


 彼の大声を抑えようと伸ばされたクラリスの手は、口を覆う前にがぶりと噛まれる。

 鋭い歯と舌の濡れた感触は、さきほどまでの出来事を生々しく思い起こさせた。


 コクヨウのくちづけは捕食だった。

 気の済むまで貪られたクラリスは、いまも実のところ足もとがおぼつかずにいる。

 いくらか体重が減っただろう。そうでなくても、なにかしら損なわれていなければ嘘だと思った。頻繁にされては食らい尽くされてしまう。彼女としては切実な申し出だったが、コクヨウは食事中の獲物を奪われようとしたかのように全身で抵抗の意思を示した。


「俺はあんたがあんなに美味いなんて知らなかった。教えたセキニン、ちゃんととれよ」

「わ、私は触れただけです! あんなっ」

「だってナカのほうが美味かったし、なんか知んねーけどちょっと気持ちよかったし」


 べぇ、と垂らされた舌を、とても直視できなかった。クラリスの目に涙がにじむ。


「い、いやらしい……」

「気持ちいいといやらしいのかよ」

「いやらしいです!」

「へえ、じゃーあんたもいやらしいじゃん」


 羞恥の糸か、怒りの糸か——コクヨウのからかう声に、ついにクラリスのなかでなにかが切れる音がした。


 頬から赤みが引いていく。厳粛なシスターの顔で、彼女はひたと悪魔を睨みつけた。


「コクヨウ、キスは食事ではありません。それが理解できないようなら、二度と私のくちびるに触れることはゆるしませんから」

「ハン、ゆるさねぇって、どうすんだ」

「嫌います」


 静かな宣告に、コクヨウは言葉を失った。





「こんばんは、シスタークラリス」


 黒夢病患者の眠る建物前に、マーロウひきいるシスターたちが待ちかまえていた。昨晩の騒動で救った顔ぶればかりではない。食堂でクラリスの言葉を聞いていた者たちの姿もあり、結構な人数が彼女を出迎えた。


「そばにいては邪魔になってしまうとも思ったのですが……それでも、なにもせずにはいられなくて」

「来てしまいました、シスター」


 シンシアが飛び出してくる。

 少女はおそるおそる、クラリスの隣を見上げた。


「もしかして、そちらが」

「はい。私の——夫です」


 口を縫い合わせたように黙りこんでいたコクヨウが、いじっていた髪の尾からわずかに顔を上げた。

 だがすぐにまたうつむく。


(叱られた犬みたい……)


 それほど自分に嫌われることがショックなのかと思うと、ついゆるしてあげたくなってしまうが、それではいけないとクラリスは自身を律する。


「コクヨウ、シスターたちに挨拶を」

「……ドウモ」


 舌打ち混じりではあったが、いつものように文句を漏らすことなく、一言があった。


「昨夜は、私たちを助けてくださってありがとうございます」

「別に……」

「どうか彼女を大切にしてあげてください」

「こいつのほうが俺を大切にしねぇ」

「すみません。喧嘩中でして」


 にこやかにクラリスが遮ると、マーロウは嬉しそうに目を細めて笑った。


「仲がよろしいのですね」

「ええ……ですから、あなた方を助けるために、決して犠牲となったわけではないのです。私は彼の手を取りたくて、彼を選びました」


 マーロウだけではなく他のシスターたちも、ほっと息をつくようすがうかがえた。


「なあばあさん、キスって——」

「シスターマーロウ、せっかく来ていただいたのに申し訳ございません。夜明けを迎えるといけませんので、私たちはそろそろ……」

「いいえ、こちらこそ引きとめてしまってごめんなさい。私たち、ここであなたのためにずっと祈っております。どうかご無事で」


 指を組んだマーロウたちに見送られながら、クラリスはいよいよ建物へと入った。


 鉄格子の嵌る窓は月明かりをほとんど通さなかった。燭台もあったが、これから起こることを考ると火を灯すことは危険に思えた。


 かび臭い空気が密閉されている。青白い花びらがかすかに浮かび上がらせる無数の寝台と、横たわる人々。墓場のような沈黙が支配するなか、気配だけが肌をなぞって、クラリスはペンダントをぎゅっと握りしめた。


 コクヨウには辺りが見えているようで、怯える彼女の肩を抱き寄せながらずいずいと奥まで足を進めていく。悪夢に起こされてトイレに行きたくなったとき、真夜中に水が飲みたくなったとき、これまでも彼の存在に救われたことはあったが、生身でそばにいてくれる安心感はかつてなかった。


「あの悪魔がどっかに潜んでるかもしんねぇ。俺のそばから離れんなよ」

「宿主の子も、ここにいるのかしら……」

「さあ。少なくともあの子供はいねぇな」


 さっと目を走らせただけで確認ができたらしい、彼はつまらなそうに肩をすくめる。


「んじゃ、とりあえず歌うか。選曲は? また卵男の讃美歌か?」

「その呼び方は不敬です。……ここに眠られるほとんどはこのあたりの方でしょうから、やはり花の夢守りさまの歌が良いしょう」

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