第20話 言葉以外の方法

 抱えてほしいと頼んだのはクラリスだったが、しぶしぶ受け入れたコクヨウが姫君でも扱うような丁重さで横抱きにしたのは想定外だった。完全に虚をつかれて、彼女としたことが感謝を伝えることすら忘れてしまった。


 楼門を越えるのは一瞬だった。

 視界がぐんと上昇した直後には、猛落下していた。これが意外に爽快で、いまのような逼迫した状況でなければ、年甲斐なくきゃあきゃあとはしゃいでいたかもしれなかった。

 着地はあっけなく、二人分の体重をどこにやったのか不思議に思うほど軽やかだった。


「耳とか腕とかとれてねーか」

「おかげさまですべて揃っています」

「ホントかよ。鼻、小さくねぇか? ちょっとちぎれちまったんじゃねーの?」

「失礼ですね……前からこの高さですよ」


 いまの跳躍でクラリスに対する触れ方をつかんだようで、彼の口調から緊張が抜ける。

 もともと過剰なほどの自信家で、調子に乗りやすい質である。あっという間にいつも通りの尊大さを取り戻して、にたりと笑う。


「よし。こんまま行くぞ」

「えっ、いいです下ろしてください!」

「うっせぇな。どこまでならあんたの鼻がとれねぇか、たしかめさせろよ。それに、んな短けー足で走るより俺が運んだほうが速ぇ」


 そんなやり取りのあいだにも、重なる二人の影は駆けだしていた。


 月明かりの花びらがほどけていく。

 リンデバウムがみるみる遠ざかる。

 灯りのない街道は、道も木々も区別がつかないほど暗かったが、コクヨウにそんなことは関係ない。迷いのない足は加速していく。

 そのうちにクラリスも姫抱きに慣れた。暗闇を急がなければならないいまは、たしかにこれが合理的かもしれない——そんなふうに納得して、みずから彼の首にしがみついた。


 上り坂をしばらく行ったつきあたり、つづら折りの曲がり角からは急な下り坂となる。


 ざあざあと、川流れの音が大きくなる。

 昼間であれば、道に沿うテレーゼ川の青々と透きとおる水面がはっきり見えたはずだ。


「まっすぐ行ってください。楼門の下あたり、きっとそこに悪魔がいます。でも……」


 クラリスは眉をひそめた。


「……悪魔の身体は、宿主の子かもしれません。逃げるとき、人型の影とその子の身体が一つになって、悪魔に姿を変えたのです。憑依、でしょうか……ともかく、むやみに食べてしまっては、あの子を助けられないかも」

「は? ヒョーイ?」

「ええ。コクヨウはそういう、私にのりうつる、みたいなことはできないのですか?」


 ぴたりと、彼の足が止められる。


「知んねーけど、そいつにできて俺にできねぇことなんかねーだろ」


 言い方を間違えたとクラリスは後悔した。対抗心に火がついてしまったらしい彼は、この場で憑依をためそうとしている。


「コクヨウ! いまはそんな場合では」


 低い唸り声が制止をかき消した。

 亀裂のような瞳孔が、さらに細く裂ける。

 不気味な風が彼の髪をふくらませて、毛先をゆらめかせた。クラリスの胸に下がるペンダントが、呼応するように浮き上がる。

 思わず彼女は身を縮めた。いくらきょうだいのような相手だからといって、心の準備もなく憑依されてしまうのは恐ろしかった。


 だがいくら待っても、それ以上のことが起こらない。


「……ア?」


 ぱっと気迫をゆるめたコクヨウが首を傾げる。すぐにまた集中をはじめるが、さきほどと同じことがくり返されるだけだった。


(できないみたい……?)


 クラリスはこれ幸いと彼の背をさすって言った。


「ほら、きっと、勝手が違うのかもしれません。私たち契約はしていますけど、彼らのように悪夢と宿主という関係ではないでしょう」


 コクヨウが閉じこめられていたのは悪夢ではなく、オズクレイドをかたどったペンダントである。どういう経緯でそうなったのか、なぜクラリスがそれを持たされたのか定かではないが、彼らと明確に異なる点はそこだ。


 派手な舌打ちがあった。そのあとに深いため息が落とされる。プライドは大いに傷ついたが、クラリスの説得に納得はしたらしい。


 脱力したクラリスは、ふと目を向けた暗がりに人影を見とめた。


 ぞっと背筋がわななく。

 悪魔かどうか考えるよりもまず、夜道でじっと動かない何者かに純粋に恐怖した。


 だがすぐに、その人影が十歳前後の子供に似ていると気がつくと、彼女はコクヨウの腕から飛び降りてみずから駆け寄っていった。


「ねえあなた——」

「おいクラリス、そいつ」


 遅れて人影に気づいたコクヨウがとっさに彼女の腕をつかもうとしたが、びくりと震えた指先は、寸前のところで下ろされた。


「あなた昨日の……」


 目鼻は、長い前髪に隠されてしまっている。例の美しいボーイソプラノの少年が、腹部をおさえるように身を屈めて立っていた。


「ウ……ウ……」


 かすかに呻き声が聞こえた。


「行くな。罠だろこれ」


 隣に立ったコクヨウが、それ以上近づけさせないよう行く手を腕で塞いだ。


 クラリスにもこの場に彼がいることの不自然さはわかっていた。昨晩、騒動のさなかにぼうぜんと礼拝堂の前にたたずんでいたことといい、その挙動は明らかにおかしい。


(でも、苦しそう……もしかしたらどこか、怪我をしているのかもしれない……)


 たとえ罠だったとしても、目の前で苦しむ人に手を伸ばさないでいるよりかは、自分が傷つけられたほうがずっとましだと思った。


 コクヨウの腕を避けて、少年に近寄る。

 小さな肩に手を伸ばしたとき、前髪の隙間から、葡萄色の大粒の瞳があらわになった。


 ——覚悟はあった。

 隣の彼を信頼もしていた。


 けれど少年の手にひらめく銀色が見えたとき、クラリスはぎゅっとくちびるを噛んだ。


 痛みが襲うことはなく、危なげなくコクヨウが叩き落としたそれが地面に転がる。


 子供用のテーブルナイフだった。


「あのなァ!」


 噛みつくような怒号は少年ではなく、クラリスに浴びせられた。はなから彼の助けをあてにして無茶をしたことに気づいたようだ。


(あとで謝らなければ)


 少年は泣きそうに顔を歪ませていた。

 やはり彼には伝えたいことがあったのだ。

 それが讃美歌よりも鋭利なかたちとなって、突き立てられようとしていた。


「大丈夫です。ゆっくり、聞きますから」


 少年は必死で口を開け閉めする。しかし言葉は紡がれず、声は泡のように儚く弾ける。

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