第55話:決着

 * * *


「やあ、どうもどうも」


 次の日曜日、出島さんは見知らぬ小柄な男性とやって来た。三日前に「弁護士さん、連れてくるね」と聞いていたから、驚くことはなかったが。

 ダークグレーのスーツと、てっぺんが凹んだ帽子のおじいちゃん。すっかり起き上がれるようになったあたしに、「いやいやいやいや、楽になさって」と腰が低い。


「思い出したくないことを聞いちゃうと思うけどね。今日で最後だからね、楽にしてあげるからね」

「え? はあ」


 お医者さんと間違えたかなと思った。しかしそんなはずはなく、視線を向けた出島さんは真面目な顔で頷く。

 おじいちゃん。もとへ弁護士さんは帽子を取って丸椅子に座ると、革のカバンにちょうどという大きなノートを取り出した。

 胸のポケットからは颯爽と万年筆を抜き、キリッと表情が引き締まる。


「じゃあ、起こったことのおさらい」


 宣言通り、カフェで噂がはやった辺りからを遠慮なく問われた。と言っても


「贈り物のペンを壊されたそうだけど、今は持ってないですね?」

「いえ、あります。いつもリュックに入れてるので」


 という確認作業で、あたしが思い出して答える場面はほとんど無かった。

 必要な写真はスマホで撮られ、そこはちゃんと現代なんだと妙な感心もしたりして。計ったように三十分で「はい、復習は終わり」とノートが閉じられた。


「あと、もう一つだけ」

「はい、どうぞ」

「先方が持参した現金。最低条件は、その辺りでよろしい?」

「ええと……治療費とかは出してもらいたいですけど。それ以上を、とは思ってなくて」


 もう一つ、と立てた弁護士さんの指がくるくる回る。五周ほどもして、にんまり。


「なるほどなるほど。こういう怖い目に、二度と遭わないことが優先。そういうことで?」

「できるなら、はい」

「ええ、ええ。これは力を入れてやらせてもらいましょ」


 ノートをしまった弁護士さんは、帽子を胸に当てて頭を下げる。


「そも、手抜き仕事はしませんがね」


 剃ったヒゲさえ白い口元を笑わせ、弁護士さんは出ていった。訪れた時と同じく「やあ、どうもどうも」と。


「お疲れさま。これから育手さんのところにも行かなきゃいけなくて。悪いけど、俺も行くね」

「悪くないです。お手数かけてすみません」


 せっかくのお休みに弁護士さんを案内してくれるのだ、引き留めることはしない。と思ったが、背を向けた彼の足は止まる。

 それはいつの間にか伸びたあたしの手が、袖口を引っ張ったから。


「ん。何か言い忘れ?」


 見上げるあたしに、彼は巨人にも思えた。少し伸び始めた坊主頭とカクカクした顔、袖越しにも筋肉質と分かる腕。

 それでいて眠そうな眼を、糸のように細めて笑う。

 びっくりして指を放す。あとは、ぼんやりした頭をふるふると揺するしかできなかった。


「退院の時にまた来るよ」


 宙へ浮いたままのあたしの手を、握って振る。握手なんてしたのは、いつ以来だろう。


「また来るよ」


 もう一度きゅっと力強く握り直して、彼は弁護士さんのあとを追った。

 それからどれだけ経っても、大きな手指の跡が見えるような気がした。自分の手の裏表を、何度も何度もひっくり返して眺める。


 あと四日。

 あと三日。

 あと二日。

 木曜日と決まった退院まで指折り、一日が千年にも感じた。

 そしていよいよの日。固定具が着いたままだし、痛みの残るところだらけだが、帰り支度くらいは自分で整えられた。

 着られる服がないので、明さんのくれた部屋着だけれど。


 午前十時過ぎ。ベッドへ掛けて待ち構えると、ジーパン姿の出島さんが来てくれる。ただ、病室に入る人数は二人だった。


「手伝おうと思ったけど、準備できてるっぽいね」


 苦笑の彼の後ろに、見慣れたパンツスーツの明さん。


「下でね。ロビーで一緒になっただけだから」


 それぞれの言葉に「わざわざ、ありがとうございます」と頭を下げる。明さんの言いわけじみた言葉の意味が、ちっとも、これっぽっちも、さっぱり分からないまま。 


「育手さんも居ることだし、帰る前にいいかな」


 目の前に立つなり、彼は言った。手にある大きな封筒を突き出しながら。


「何ですか? あれ、あたしの名前」


 宛て先の住所は書かれていない。真ん中に筆で、端居穂花様とだけ。

 受け取り、ひっくり返す。すると先日の弁護士さんの名前もあった。


「この間の議事録とか?」

「まあ、見てみてよ」


 何だろう。彼の表情から窺おうとしても、いつも通りにしか見えない。

 でもまあ疑うつもりもなく、糊付けされた封筒を開く。サッと差し出されたハサミで。


「……示談書?」

「向こうのサインは先に入ってるはずだよ」


 整然と。さすがに筆ではなくワープロの文字が並ぶ、難しげな書類。二枚で一通の二ページ目の最後、トビと鴨下さんの名前と印鑑。

 縦に並んで一番上に、きっとあたしの署名する欄だけが空いている。


「えっ。いや、もう?」

「慰謝料、迷惑料、休業補償で五百万円。治療費や介助費用、弁護料は実費。請求には代理で鴨下さんが支払って、鳶河さんが借用するって形」


 頷きつつ、彼は大まかな内容を指で示しながら教えてくれる。専門用語が多くて、あたしだけでは理解できないところだった。


「それに、接近禁止命令も申請中だって。あと一週間くらいかかるそうだけど。裁判所から命令が下れば、鳶河さんは端居さんに近づけない」

「そんなことまで?」

「うん。それでも近づいてくるようなら、すぐに連絡してくれって弁護士さんが」


 久しく使わなかった国語的な脳みそを叩き起こし、書類の隅から隅までを繰り返しに読む。

 おそらく彼の解説の通り。あたしが署名さえすれば、すぐに効力を持つと付箋も付いていた。

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