第29話:ミスマッチ

 一歩踏み間違えれば、でんぐり返しをしそうな勢いで走った。行き当たった表通りも、脇目もふらず横切る。

 直後、背中に熱い風が巻いた。鼓膜を破りそうなほどのクラクションも。


 罵られる代わりに黒い煙を浴びながらも、足を止めなかった。カフェとは対面にある住宅街を、どっちへと見当もなく駆ける。

 出島さんが、すぐ後ろを追っている気がして。


 ――どれだけ行っただろう。喉が震え、うまく息が吸えなくなった。

 それでも忙しく足を動かそうとして、よろめく。誰かの家のゴツゴツした塀に手をつき、来た方向を薄目に見た。

 誰も居ない。


 啜るように息をしばらく続け、やっと普通に「はあはあ」と乱れた呼吸に戻る。

 薄暗い、家と家の間の通り。泥棒でもして逃げる途中みたいな気分になった。ガクガクして言うことを聞かない足を引き摺り、見知った景色を探しにまた進む。


 と思ったら何ということもない、あたしの家のすぐ近くだ。

 帰って、シャワーをして、他には何もせずにベッドへ転がりたい。できるなら布団を被ったまま、二度と出てきたくない。


 どこまで実現できるかはさておき、とにかく我が家へ急いだ。

 小綺麗なエレベーターに乗り、降りるのは三階。金色に縁取られた、高級なんだか安っぽいんだかの玄関扉を前にリュックを探る。


「あ」


 店の鍵束を持ったままだ。返さないと、明日の営業が始まらない。


「ふう……」


 ため息を一つ、降りたばかりのエレベーターを盗み見る。十歩足らずの通路が遠く、暗い。

 行かなきゃ。

 そう思うのに、足が動かない。二つ目、三つ目のため息。玄関の鍵でなく、スマホを持ち上げる。


 ニャインを立ち上げ、明さんのアイコンを叩く。あの人も、ちょうど帰宅したかどうかのはず。

 店の鍵を持ち帰ってしまい、まで打って削除を連打した。通話のボタンを押して、スマホを耳へ。


「はいはい、穂花ちゃん。何かあった?」

「あの、うっかりしてて。お店の鍵を家に持って帰っちゃって」

「あらら。でもいいよ、予備があるからどうにかなる。明日、シフトだっけ?」

「いえ、お休みです。でも明日、お店に持っていきます」


 ああ、そうなるのか。言いながら、やっぱり今から家に持っていこうと思いを変えた。

 けれど先に、明さんが


「うーん。できればなんだけど、二号店に持ってきてもらったりとか?」


 と。


「行きます。そうさせてください」

「じゃあ七時で。夜の」

「えっ? いえ、はい。分かりました」


 ズルいあたしは二つ返事だ。やけに遅い時間指定とは思ったが、何か都合があるのだろう。

 目論見通り、すぐにシャワーを浴びて布団に丸まれるのだから文句はない。


 * * *


 翌日、午後七時を目指してバスに乗った。歩いて行くには、ちょっとつらい距離だ。

 席が空いていても座らず、絶え間ないあくびを手で押さえ込む。


 出島さん、変な意味に受け取ったよね。

 ほとんどこればかりを、ゆうべからずっと考えていた。というか考えようとしなくても、頭から消えることがない。

 全部でなくほとんどなのは、どうしてこうなったかの理由について。それは不倫の噂と、二人連れの客のせい。


 どうしよう、どうしよう。いくら悩んでも、答えは分かりきっている。

 どうしようもない。

 言った言葉も事実のない噂も、消す方法なんてないのだから。


「お待たせ!」


 歩く速度で調整し、五分前に二号店へ着いた。するとむしろ待ちかねたように、明さんが裏口から顔を出した。


「よし、行こっか」

「行くって?」

「せっかくだし、ご飯食べようと思って」


 挨拶めいたものもなく、明さんは歩き始めた。うちのカフェでなく、よその店へ行こうと言うらしい。

 初めてのことで、嬉しいサプライズ的な感覚はある。こんな時じゃなかったら、と顔に出ないようにする苦心のほうが強かったけれど。


「あれ、今日はもう終わりなんです?」


 店長と明さんには、休日がない。誰かの結婚式やお葬式で居なかったのが何度かあるくらいだ。

 だから今日も閉店まで仕事のはずだが、彼女は制服でなかった。明るいグレーのパンツスーツは、今日もキマっている。


「うん。終わりにした」

「終わりにした?」

「うん」


 噛み砕くと、本当は終わりでなかった。となると店長に丸投げしたに違いない。


「何か特別なことでも」

「特別ってこともないけど。穂花ちゃんと話したかったから、いい機会かなと思って」

「はあ」


 あたしが何かやらかして、お小言とか。いやそれなら普通にお店でいい。

 探るように問いかけても、具体的に答えるつもりはないようだ。ならば残るは、おとなしく着いていくだけ。


 二号店から十軒ほども離れた居酒屋さんに、明さんはスルスルッと吸い込まれる。もちろんあたしも、そこらじゅう見回しながら続く。

 顔見知りらしい店員さんの案内で、テーブル席の合間を縫う。

 奥まった通路に面した引き戸。店員さんの開けてくれた中は、三畳の個室だった。


「さっそくなんだけど」


 入り口側にどかっとあぐらで座るなり、明さんは言った。メニュー兼、注文装置らしきタブレットを取りつつ。

 座卓の対面へ急いで回り、画面を覗く。あたしに見やすい向きにしながらも、明さんは器用に操作した。


「ウチの旦那に何回かカマかけてるんだけど、珍しく言い逃れるんだよね。いや、知らぬ存ぜぬって奴?」

 

 さっそくって、そっちか。早く注文を決めろと言ったのかと思った。顔を熱くして、正座の足をモゾモゾ座り直す。


「遠慮しないで、何がいい?」

「えっ、選ぶんですか」

「じゃないと食べられないよ?」


 どうもじっくり選ぶ感じでないけれども、仕方なく自分のお腹との相談をする。カップのヨーグルトを食べたくらいで、満腹とはほど遠い。


「蔵人の性格的にね、追い詰め過ぎるとサッと飛んでいくと思う。そしたら働いてくれるみんなに迷惑かかるから、どうしたもんかなって」

「飛んでいくって、どこかに逃げるっていう?」

「そうそう」


 こんな話を聞きながら、注文なんか。もう目の回るような気持ちなのに、明さんの持つタッチペンが「どれ?」と急かす。

 もう何でもいいや。たまたま目に入った、わさび漬けを押すと注文数がカウントされる。


「おっ、いいね」


 合格らしい。


「だけどみんなの前に、穂花ちゃんの迷惑が甚大なわけでさ。このままズルズルって気もなくて、近いうちに決着つけたいとは思ってるの」


 揚げ物、焼き物、グラタンやおにぎり。あたしなら十食分以上が注文欄へ並び、なお明さんは「あとは――」と考え中。


「言い逃れてるのに決着って、できるんですか」

「蔵人のスマホに追跡アプリ仕込んだから。内緒ね」


 しーっ、と唇に人さし指が当てられた。

 あたしはといえば、あまりのことに息を呑む。追跡アプリとはGPSを使って、スマホの持ち主の行動をつかむという物だろう。

 話に聞いたことはあっても、実際に知った人が。しかも明さんがと思うと、落ち着いていられない。


「それでアレコレあったとしたら、店を畳む可能性もかなり高いのね。で、そうなった時に穂花ちゃんはどうしたいかなって。一番の被害者だし、先に聞いとこうと思ったの」

「どうって……」


 これが本題らしい。どうもこうも、一番の被害者は明さんだ。あたしが口を出すことなど何もない。

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