第十七話  鎌売の秘密 其の二

「か、鎌売かまめ……? どういうこと……?」


 宇都売うつめさまは震え、おびえた目で──まったく怯える必要はないのだが──あたしを振り返った。


 ……美しさを鼻にかけない、気立ての良い宇都売うつめさまは、慣れない上毛野君かみつけののきみの屋敷の暮らしで、いつもどこか、おどおど、びくびくした態度なのだ……。


 あたしは宇都売うつめさまの正面に進み出て、礼の姿勢をとり、大田児おおたこの隣に、堂々と立った。


宇都売うつめさま。たしかにあたしは、昨晩も広瀬ひろせさまのねやに呼ばれました。

 しかし、広瀬さまは指一本、あたしに触れた事はございません。

 広瀬さまが、お兄様を亡くしてらっしゃる事はご存知ですね?

 あたしは以前、お兄様、意氣瀬おきせさまの宇波奈利うはなりめかけきの女官でした。

 その昔をしのび、話し相手が欲しいとの仰せです。あたしは何も、宇都売うつめさまに恥じる事はしておりません。」


 大田児おおたこが、あたしに向かって金切り声をあげた。


「嘘よ! 白々しらじらしい! おのこおみなが、幾夜もねやにいて、何もないわけがないでしょう!」

うるさい。何もないのです。」


 あたしは、かっ、と目を見開いて大田児おおたこを見た。

 ごくり、とつばを呑んだ大田児おおたこを尻目に、あたしは、カツ、と宇都売さまに一歩近づいた。


「宇都売さま。あたしと、広瀬さまの間の気配を思い出してください。

 あたしと広瀬さまが男女の色を匂わせた事が、一度でもあったでしょうか?

 真実とは、おのずと明らかになるものです。

 ですが……、僅かでも疑いを残す事は、宇都売さまに仕える身として不本意です。広瀬さまに直接お伺いしましょう。」

「えっ……?」


 前と後ろから───つまり、宇都売さまと大田児の口から、同時に驚きの声がでた。

 宇都売さまは、花顔雪膚かがんせっぷの美しい顔に驚きを浮かべ、ぱかっ、と口を開いたまま固まった。

 あたしは女官の名を呼んだ。


大路売おほちめ! 今すぐ広瀬ひろせさまのところへ使いに立ちなさい。

 今宵の夕餉ゆうげ宇都売うつめさまの部屋にお越し下さいますよう、鎌売かまめ請願せいがんたてまつると伝えなさい!」

「はい!」


 大路売おほちめしとやかに礼をし、部屋を出る。

 あたしは、す、と後ろを振り返った。

 そこには、信じられない、というように、唇をわななかせた大田児おおたこがいた。

 あたしは、にぃ、と口の両端を釣り上げてみせる。

 

「ふ、このように出るとは思わなかった?」


 愚かなおみな。許さない。


「覚悟しておくがよい。」


 あたしの低い静かな声を聴いて、大田児は紅で赤い顔を、さらに真っ赤にさせた。

 




 夕餉。

 広瀬さまは宇都売さまの部屋にいらして下さった。


「なんだ。馬鹿らしい。」


 広瀬さまは一笑にふした。


「全て鎌売かまめの言う通りだ。

 これから先も、鎌売を呼ぶことがあるだろう。

 だが、手は出さん。

 ───なあ、鎌売、もし私が手をだしたら、いかがする?」

「恐れながら申し上げます。頬を張り倒します。」

「わははは!」


 広瀬さまは可笑しそうに笑い、宇都売さまは、


「笑い声、初めて聞いた……。」


 と呆然とし、女官一同は微妙な空気になり、しきりに目配せしあった。

 大田児は、一人、顔を強張らせて、冷や汗を手布てぬのでしきりにぬぐい、顔の紅粉をすっかり落としてしまった。

 すぐに笑い終えた広瀬さまは、いたずらっぽく口に笑みを刷き、


「それでも、私が止まらなかったら?」


 と言った。あたしは凛と響く声で、


「舌をかんで死にます。

 あたしは心も身体も八十敷やそしき一人のものとうけひを立てております。」


 皆の前で言いきった。

 ほぅ……、と皆がため息をもらした。女官の秋萩児あきはぎこなどは頬に手をあて、うっとりした表情を浮かべている。

 広瀬さまは、ほんの少し笑い、


「幸せ者め。」


 小さくつぶやいたあと、いつもの冷たい表情に戻った。


「さて、疑いは晴れたか? 宇都売。」

「はい。あの……、はじめから疑ってなど……。」


 宇都売さまはうつむき、もそもそと小声で言った。このままでは宇都売さまが可哀相だ。


「宇都売さまは大田児おおたこの話を聞こし召しただけです。これは大田児の咎です。」


 あたしは言いきった。

 大田児が、ぎくり、と身体に緊張をみなぎらせた。化粧紅はすっかり落ちているのに、顔が赤い。

 広瀬さまは目を冷たく光らせる。


「ほう……、鎌売は私が女嬬に推した女官。どのような罰が良いか……。」

「広瀬さま。不要です。これは女官のこと。女嬬であるあたしが始末をつけます。」


 あたしはピシャリと言う。

 今度は、皆、しん、と静まりかえった。

 広瀬さまは肩をすくめ、


「そうか。」


 とだけ言った。あたしは宇都売さまを見て、


「あたしに始末をお任せいただけますか。」


 と確認をとった。こくり、と宇都売さまは不安そうな目で頷いてくださった。あたしは大田児の赤ら顔を見据えた。


「大田児。明日の朝一番に生家せいかに帰りなさい。」

「そんな……、こんな事で、あたしに女官を辞めろって言うの、鎌売っ!?

 帰れるわけないじゃない! 母刀自になんて言えば良いのよ!」

「お黙り! あたしは女嬬です。あたしの決定に逆らう事は許しません。」

「広瀬さまのお情けで女嬬にしてもらったくせにっ! おまえが女嬬なんて認めるものか! おまえなんかあの火事で一緒に焼け死ねば良かったのよ! おみな三人、みーんな仲良く、死ねば良かったじゃないっ。」 


 鎌売は白い怒りの炎でくらくらとした。

 鎌売は知っている事がある。知っていても、一女官では、今までどうにもできなかった。

 女嬬となった今では違う。

 遅かれ早かれ、このおみなは追放するつもりだった。あとは時期をはかっていただけだったのだ。


「……おまえ、久君美良くくみらが火をつけたところを見た、と、務司まつりごとのつかさに申告したわね? 嘘つきめ。」

「あはははは!」


 大田児おおたこは嘲笑した。


「見たのよ。」


 鎌売は動いた。さっと右手を振り上げ、容赦ない平手で大田児の頬を打った。


「きゃあっ!」


 大田児おおたこは膝から崩れ、床に手をついた。


「おまえは嘘をついている。あたしにはわかる。

 久君美良くくみらは火を放って椿売つばきめを殺したりしない。

 敵と味方の区別もつかず、味方のあらを探し続け、攻撃しつづけるつわものはこの陣営に要らぬ!  

 信頼のない女官に、ここに立つ資格はない! 去れ! 縄で縛られたまま生家に送りつけられたいか!」

「わ───っ!」


 大田児おおたこは顔を覆って泣きながら部屋を走り去った。


(終わった……。)


 あたしはその背中を見送りながら、透明な悲しみが心に湧き上がってくるのを感じた。

 久しぶりの、この悲しみ……。

 椿売つばきめ久君美良くくみらを失って知った悲しみだ。


久君美良くくみら……。これで良かった? 黄泉で、やっと落ち着いたかな?)


 久君美良は無実であると、証明まではできない。手段がない。

 あたしに出来ることは、ここまでだろう。


椿売つばきめも、これで良かったよね……。)


 なぜ火が出たかは、わからない。

 でも絶対、久君美良じゃない。

 久君美良が火をつけたって皆に信じられたままじゃ、椿売も、黄泉で嫌な気分だったはずだ。


(あたしを見守っててね、二人とも……。あたし、女嬬として、頑張るから……。)


 今夜は、八十敷に全部話して、いっぱい、いっぱい、ねむころにしてもらおう。

 そして、八十敷の胸で泣こう……。



 ───大田児おおたこが部屋から出ていって、八十敷の胸で泣くという結論にたどり着くまで、呼吸一つ分の時間で終えた。



 皆、静まりかえるなか、


「見苦しいところをお見せしました。」


 あたしが宇都売さま、広瀬さまに礼の姿勢をとると、宇都売さまは、肩から力を抜き、はあっ、と息を吐き出しながら、


「頼もしいのね、鎌売……。」


 と満月のような美しい笑顔で褒めてくださった。広瀬さまは、


「見事。」


 と一言だけ口になさった。

 あたしは広瀬さまを見る。

 広瀬さまもあたしを見た。いつもの、感情のこもらない、心の冷えた目で。



 ───昨晩のことを思い出す。

 広瀬さまとの約束を果たした夜を。



 あたしは、広瀬さまのねやで、椿売つばきめの、今まで黙っていた、あの話をした。

 全て話し終えると、広瀬さまは、


「話してくれた事を感謝する。今宵はもう、下がれ。」


 と苦しそうに胸を抑えながら、言った。

 あたしが部屋を出た途端、


「おああああ…………!」


 とおのこの深い慟哭が、部屋から聞こえてきた。






 ……ワガママ毛止豆女もとつめと一緒にいる時の顔は知らないが、広瀬さまは、宇都売うつめさまと一緒にいる時も、いつも、ひんやりと冷たい表情を浮かべている。

 だから、宇都売うつめさまも、いつまでたっても、おどおどした態度が抜けない。


 広瀬さまの表情に生気が満ちるのは、あたしが椿売の話をしている時だけ。

 きっと、皆、驚くだろう。

 この広瀬さまの表情を見たら……。

 広瀬さまは、ずっと、椿売だけを恋うている。

 すでにこの世にいないのに。


 もう、お忘れください。


 そう言うべきなのであろうが、あたしは言えない。

 椿売の友であり、椿売の話で女官を続けさせてもらったあたしの口からは。



 ───宇都売うつめさま。

 このおのこの愛は頼めません。 



 ……こんな残酷なこと、宇都売さまには、とても言えない。

 宇都売さまに忠実でありたいあたしの、たった一つの、口にできない秘密であった。








 大田児おおたこは、翌朝、すぐに生家に帰った。

 女官を辞めさせられたおみななどというのは、評判に傷がつく。

 縁談には苦労するだろう。

 鎌売の知ったことではない。


 それ以来、大田児を見ることはなかった。






 

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