終話  夢のきざはし

 十八歳の鎌売かまめに、緑兒みどりこ(赤ちゃん)ができた。

 あたしは、お腹がせり出す頃になっても、きびきびした所作で、女嬬にょじゅとして務め続けた。


「無理はしないでね? 鎌売かまめ?」


 と宇都売うつめさま、他の女官にも心配されたが、


「ええ、無理はしていません。宇都売うつめさまの傍で、一日でも長くお仕えしたいのです。」


 とあたしは答えた。

 八十敷やそしきにも、


「だっ、大丈夫なのか、鎌売??」


 と心配顔で訊かれたが、あたしが、かっ、と目を見開いて、


「だい、じょう、ぶっ!」


 と告げれば、八十敷は、


「そ、そうかよ……? おまえがそう言うなら……。」


 と、すごすごと引き下がるのである。


 やせ我慢ではない。

 なにせ……、八十敷の子である。

 どうやって授かったか。

 もう、すんごいのである。


「ああああ、もう、さゑさゑ……っ!※ あたし、さゑさゑ……っ!」


 と叫ぶまで許してくれない八十敷は、激しく、濃く、愛を込めて、飽かず数多夜あまたよをさ寝してくれた。


 そのなかで授かった緑兒みどりこが、やわな子であるわけがない。

 あたしには確信があった。


 その年、安産で、おみな緑兒みどりこを出産し、日佐留売ひさるめと名付けた。









 ───翌年。己丑つちのとうしの年(749年)。

 鎌売、十九歳。


 おのこ緑兒みどりこをやはり安産で、あたしは出産した。

 布多未ふたみと名付けた。


 八十敷は、緑兒みどりこ二人に骨抜きである。

 こんなに甘々の顔ができるのか、というほど、とろけた笑顔で、幸せそうに二人の緑兒みどりこを代わる代わるあやす。


 そして、夜、あたしの許しを得て、期待に輝く目で、いそいそと布団に潜り込んでくる。

 普段、額をピシャリと叩かれてもニコニコしている二十一歳のつまは、あたしの夜着を脱がせると豹変する。

 あたしは万歳をさせられ、され放題で身悶えし、言葉で虐められ、為すすべなくたっぷりと濡らされ、逞しい腕のなか、めくるめく快楽くわいらくの果てに、


「もう、さゑさゑ───!」


 と言わされてしまう。

 困ったことだ。

 夜が待ち遠しい。




    *   *   *





 庚寅かのえとらの年(750年)一月。


 鎌売かまめ、二十歳。


 群馬郡くるまのこほりの、石上部君いそのかみべのきみの屋敷。


「良く来てくれたわね、兄上。」


 あたしは、遊びに来てくれた兄、億野麻呂おのまろを、門近くの庭で、にこやかに迎えた。


 さるの刻(午後3〜5時)、穏やかな日差し。

 柳の葉が優しく風に揺れる。


「あんにゃ。」


 二歳になった娘が、てちてち、と歩きながら、億野麻呂おのまろに抱きついた。


「わー! 日佐留売ひさるめぇ〜。歩くの上手になったなぁ。えらいえらい! ほおら、ご褒美だぞぉ。宇母うも(里芋)だ!」


 と、億野麻呂おのまろはヒョイと日佐留売ひさるめを抱き上げ、自分がお土産に持ってきた柏葉かしわばの包みを日佐留売に持たせた。


「わぁほーい! うも〜!」


 日佐留売はきゃっ、きゃっ、と可愛らしい声をあげる。あたしは、


「日佐留売、ありがとうございます、は?」


 下に降ろしてもらった日佐留売に言う。


「あがとます!」


 日佐留売は、よいちょ、とお尻が下につきそうなほど、膝をかがめ、礼の姿勢の真似をした。

 あたしの腕のなかにいる緑兒みどりこ(赤ちゃん)が、


「あぶぶぶ、あぶぶぶ!」


 かまってほしい、とばかりに元気な声をあげる。

 億野麻呂おのまろはあたしに近寄り、おのこ緑兒みどりこを覗き込んだ。


「お〜、布多未ふたみも元気いっぱい、健やかそうだな。」

「うふふ、そうよ。八十敷の息子ですもの。逞しい武人になりますわ。」

「おうおう、期待していますよ、女嬬にょじゅ! まったく、おまえは立派だぜ。やるなあ。」

「兄上こそ。その言葉、そっくりお返ししますよ。」

「あははっ、そう?」


 倚子に座った兄は明るく笑う。

 この兄、なんと池田君久君美良いけだのきみのくくみら同母妹いろも二人をいっぺんに妻にした。


「妻二人を一緒の屋敷に住まわせるなんて、聞いたことがありません。

 しかも、一人につき二人の緑兒みどりこを器用に作って。今は四人の子供がいるなんてびっくりです。やるなあ、はそちらですよ、兄上!」


 億野麻呂おのまろ曰く。


 ───だって、阿耶売あやめ之伎美しきみも、オレに恋したって言うんだぜ。

 オレが選べないって言ったら、選ぶ必要はない、二人ともまるごと愛してくださいませって言うんだ。

 本当に仲良しで、姉妹で一緒の屋敷に暮らしているのが、幸せなんだってよ。


 とは、既に聞かされたのろけ話だ。


「あはは! オレもびっくりだよ。二人の美貌の妻、可愛い子供たち。びっくりするくらい、毎日が幸せだ。……おまえも、そうだろ?」


 力強くはいはいをして足元にきた布多未ふたみを、膝に抱き上げ、億野麻呂おのまろが笑って言う。

 

「おめでとう。三人目が、お腹にいるんだってな。」

「ありがとうございます、兄上。その通りです。

 とても幸せですわ。」


 そう、あたしのお腹には、今、三人目がいるのだ。


 机のはじでは、可愛い日佐留売ひさるめが、


「あむ、あむ。」


 と夢中でふかした宇母うもを手づかみで口に入れている。

 あたしは日佐留売の側に控える、日佐留売の乳母ちおもに目配せをする。

 乳母ちおもは頷いて、須恵器すえきはいの水を、


「喉につまらせぬよう、お飲みください。」


 と日佐留売に促し、日佐留売の口のまわりを手布てぬので拭った。

 日佐留売は、こっ、こっ、と水を飲む。

 あたしは満足し、兄に視線を戻す。

 

「でも、まだまだ。あたしは望みます。

 ……宇都売うつめさまに、ご懐妊の兆しがあります。

 上手くいけば、あたしは乳母ちおもとなれるでしょう。」

「……まことか!」


 億野麻呂おのまろが息を呑んだ。

 あたしは目をらんらんと輝かせ、頷く。


 宇都売さまの御子おこおのこなら。

 その乳母ちおもは、長く女嬬として側仕えをし、権力は盤石ばんじゃくとなるであろう。

 ……ワガママ毛豆止女もとつめとの戦いは激化するであろうが、受けて立つ!


「おまえ、生き生きした顔をしてるなあ。」


 億野麻呂おのまろがしげしげとあたしを見ながら言う。


「あたしの、夢ですから。」


 そう、あたしの夢の階段きざはしは、今は努自にじ(虹)のかかる空まで続いてる気がする。

 あたしはどこまでも登ってみせる。


八十敷やそしきさまがお帰りになりました。」


 下人げにんおのこが庭から告げた。


「わかったわ。」


(今日はお帰りが早い。)


 瞬時に顔が緩み、あたしは小さく微笑んだ。

 向かいに座る億野麻呂が、満足そうに笑い、ゆるやかに庭を見る。


「ちち〜!」


 日佐留売ひさるめが立ち上がり、てとてと門にむかい歩き出し、


「うう〜!」


 と布多未ふたみが驚く早さのはいはいをして後に続く。

 日佐留売と布多未、それぞれの乳母ちおも二人が、すかさず二人の後を追う。


「帰ったぞ〜。オレの天女、日佐留売ひさるめ。オレのうらぐはし若葉、布多未ふたみ。愛しい鎌売かまめ〜。」


 庭から、上機嫌な愛子夫いとこせの声が聞こえてきた。








         ───完───









    *   *   *



※さゑさゑ──ざわざわする、の意。そこから転じて……意味は恥ずかしくて書けません。以上!


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