第十二話  いちしの花

 ありがよひ  かくふれこそ


 いちしの花  いちしろく告げなむ


 あれも恋ふるに





 有我欲比ありがよひ  如是戀礼許曽かくこふれこそ

 壹師花いちしのはな  灼然将告いちしろくつげなむ

 吾毛戀丹あれもこふるに




(あなたがあたしのもとへ)通い続け、このように恋してくれたからこそ。


 曼殊沙華まんじゅしゃげの花よ、はっきりと伝えてほしい。


 あたしも恋しているのだと……。





 灼然いちしろく……はっきりと。目立って。



     *   *   *




 八十敷やそしきは、次の日、鎌売かまめのもとに現れなかった。


 八十敷とありがよひの約束をしてから、実に三十日が経過していた。


 ありがよひの約束は、果たされることなく、終わったのである。


 その次の日、陽が落ちきる前に、広瀬さまと、八十敷は、勢多郡せたのこほりから、上毛野君かみつけののきみの屋敷へ戻ってきた。


 しかし、八十敷は鎌売のもとへ会いにこなかった。



 ……次の日も。




       *   *   *




 り、りり……。りり……。りりぃ……。

 こほろぎが鳴く。



 戌はじめの刻(夜7時)。



「ふ……う……、う〜っ。」


 女官部屋で一人、あたしは寝床につっぷして泣いていた。


 あたしは、……少しだけ期待していたのだ。

 八十敷がなんとか都合をつけて、早朝会いにくるとか、多少非常識な時間でも、自分に会いに来てくれることを。


 八十敷が、覚悟を見せて、ありがよひを続けようとする様を、見せてくれるのではないかと。


 期待していたのだ。


 その期待は打ち砕かれた。


 あたしだって、上毛野君かみつけののきみの屋敷を休みで四日間離れるときは、ありがよひを続けられるよう、工夫をしてあげたのに……!


 二十歳まで婚姻したくない。

 偽らざる本音だ。

 なのに、この八十敷の行いに、傷ついてる自分がいる。


 あまつさえ、八十敷は上毛野君かみつけののきみの屋敷に戻ってきたのに、あたしに会いに来ようともしない。


「うええ……ん。」


 声を押し殺しながら、あたしは泣く。

 手には、素朴な彩色の施されたいちしの花のかんざしと、矢羽根の形の水精すいせいの塊を握りしめて。

 耳には、水精すいせいぎょくの耳飾りをし。


 今朝、この耳飾りをつける時、


 ───今日、八十敷があたしに会いに来たら、勢多郡せたのこほりから帰ってきて、すぐにあたしに会いに来なかった事をなじってやろう。


 そう思った。


 そしたら八十敷は困ってうつむいて、でも、あたしの耳飾りに気がつくはず。水精すいせいの耳飾りの事を口にしたら、あたしは、


「これは気に入ってるのです。市歩きが楽しかったから。」


 と言おう。

 そしたら、八十敷は笑顔になるだろう。その笑顔を見たら、きっと、あたしは八十敷を許せるはずだ。

 ありがよひの約束は終わりでも、あたしは、八十敷をズタズタに傷つけるほど詰問きつもんしないですむ。


 そう思ったのだ。


 でも、八十敷は、なかなか会いに来ず、


 ……今日も、八十敷は会いにこないのか。

 もう、八十敷は、あたしを想わなくなったのだろうか?


 日が沈む頃、耳につけた水精すいせいを引きちぎって捨ててやりたくなった。

 衝動的に耳に触れ、……でも、水精すいせいに指先が触れたとき、その冷たく滑らかな感触に、手は止まった。

 そっと、水精すいせいを撫でた。


 ……捨てられるわけがない。

 八十敷が、優しくあたしの耳たぶに触れて、つけてくれた耳飾りを。

 八十敷の思いがこもった水精すいせいを。


 女官の務めを終え、一人、女官部屋に戻ってきて、どっと疲れながら、夜着に着替え、耳飾りをはずそう、と思った。


 でも、愚かな事に、あたしは耳飾りをはずすどころか、部屋に飾っていた矢羽根の形の水精すいせいの塊をつかみ、いちしの花のかんざしを握りしめ、寝床につっぷして泣き始めたのだ。

 


 ───もう、あたしのことは想っていないの?

 どうでも良いの?


 このいちしの花のかんざしにも、水精すいせいの耳飾りにも、


「鎌売。オレは心からおまえを恋うている。それをいついかなる時も、忘れないでほしい。」


 その想いがこめられているのではなかったの?

 この矢羽根の水精すいせいの塊にも、


「二人……、心が離れないように。

 夫婦めおとの道とは、お互い澄んだ心を持ち続け、このように、おまえと一つでありたい。」


 その想いがこめられているのではなかったの?




 あたしは泣く。

 思い出の品を大事にき抱いて、泣く。

 なんて愚かな。

 あたしはこんなにも愚かなおみなだったのか。

 こんなに傷ついて、物にすがって。ぼろぼろと泣いて。

 自分が信じられない。

 

 理屈じゃない。

 ……理屈じゃないのだ。

 

「ええん……。」


 もとは三人いた部屋で、ただ一人、泣く。


「慰めてよぉ、久君美良くくみら……。」


 優しく背中をさすって、泣きやんで、と声をかけてほしい。


椿売つばきめぇ……。」


 いつまで泣くのよ、と辛辣に、色が匂い立つような美貌で、言ってほしい。


「うええん……。」


 今、話を聞いてほしい。八十敷ったら酷いの、って、……恋の話を。二人にしたい。


「なんで二人とも黄泉渡りしちゃったのぉ。五人部屋であたし一人なんて、寂しすぎるわよぉ……!」


 聞こえてくるのは、庭のこほろぎの鳴き声だけ。

 一人で泣くのは辛い。


 からり。


 部屋の妻戸つまと(出入り口)が開いた音がした。あたしは驚く。


 妻戸つまとには鍵がつけられていない。

 女官部屋に忍び込む不届き者など死罪だからだ。


 あまり遅くまで蝋燭ろうそくを使用していると、


「蝋燭の無駄遣いはやめなさい!」


 と女嬬にょじゅが叱りにくることがあるが、声をかけずに妻戸を開くことはしない。

 

 妻戸を見た。


 そこには、八十敷が立っていた。

 

 半月の月明かりが半蔀はじとみ(跳ね上げ窓)から差し込む宵、薄暗いなかで、八十敷の顔は青ざめ、口は引き結ばれ、目だけが異様に光りを放っている。


 泣いている無様なところを見られた屈辱より、戌はじめの刻(夜7時)に女官部屋の妻戸つまとを開けた無礼に怒りが湧いた。


「ここをどこだと思っているのです! 非常識ですよ!」


 八十敷は無言で、後ろ手で妻戸を閉めた。

 

「オレは今宵、おまえを抱く。」


(なっ……!)


 八十敷は全身から、むわ、と、何か獣じみた気配を発した。

 

 ……怖い。


 身がすくむ。

 しかし、無礼を働かれたまま萎縮するなど、あたしの誇りが許さない。

 あたしは立ち上がり、きっ、と八十敷を睨みつけた。


「今すぐ出て行って! 人を呼ぶわよ!」

「呼ぶなら呼べ。そうしたら、流石にオレでも死刑だ。鎌売、おまえはオレを殺せる。」


 八十敷は大股で歩み寄り、肩をいからせたあたしの右手をとり、己の胸に押し当てた。


「今宵、おまえを抱けなくても、オレの心臓しんのぞうは張り裂けて、死ぬ。

 もう、限界だ。

 ありがよひの約束なんてくそくらえだ!

 もう待てない。恋いしさで、オレは死んでしまう、鎌売。

 今宵、さ寝してくれ。おまえが欲しい。」

「………。」


 あたしは始めこそ、八十敷の放つ気配に怯えたが、言うことを聴いているうちに、あっけにとられた。


「さ寝しなくても、人は死なないわよ?」

「違う。死ぬ。わからないか、鎌売。おまえが恋しすぎて、今にも張り裂けそうなんだ───。」

「…………。」


 あたしは目を伏せた。

 八十敷がおのことして怖い。

 同時に、身の内が震えている。

 恐怖ではない。

 八十敷に恋心をここまでぶつけられて、あたしのなかのおみなの魂が歓喜し震えている。


 ……あたしも、恋うているから。


 もう、八十敷の執着が、あたしから離れてしまったのかと、この三日間、ずっと怖かった。

 八十敷には、あたしを恋うていてほしい───。


「いいわ。手を離して。」

「え?」

「手を離して、と言ったの。」


 八十敷が不安そうな顔で手を離した。

 あたしは目を伏せたまま、己の手で、えいっ、と帯をといた。しゅるり、と浅葱あさぎ色の帯が床に落ち、桃色の夜着やぎがはだける。

 とどまらず、ひらみ(女性が腰下につける下着)の下紐も、自らの意思で解いた。

 次の瞬間、逞しい腕に抱かれていた。

 ん、と言う間もなく、八十敷に口づけされた。

 熱く、柔らかく、魅惑的に動く、おのこの唇は、丁子ちょうじの香りがした。

 あたしの唇を引き剥がして飲み込んでしまうのか、というほど、引き、み、唇を押し当て、あたしの唇を味わおうとする。


(ひ、ひええ……。)


 ちょっと引く。

 やっと唇を離した八十敷は、あたしの頭の後ろに手をやり、額をこつんとあわせ、


「ずっと、こうしたかった。ずっと……!」


 と熱い息で言った。


(そんなに? 八十敷。)


 そんなに、あたしが欲しかったの?


 八十敷の想いに呑み込まれてしまいそうだ。

 あたしは無言でパチパチと瞬きをする。心臓しんのぞうが高鳴る。

 













↓挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330665001267017

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