第五話  徳音の閨

 女嬬にょじゅから、


「おまえは今夜、広瀬さまの粘絹ねやしぎぬねやへ呼ばれました。」


 と告げられた時には、鎌売かまめは口から胃の腑がぽろりと出そうなくらい驚いた。


(とうとうか。)


 幼い頃から、上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官となるよう育てられたのだ。

 別に驚きはしない。


 いや、さっきすごく驚いたけど。


 そして何故か、……八十敷やそしきの顔が頭をよぎった。


 武人として堂々としていながら、すごく優しい笑顔であたしを見る八十敷の……。


(いいえ。こうなる運命さだめだったのよ。)


 あたしは女官。

 ここにいる以上、あたしが御手おてつきになったって、それで婚姻相手が難色なんしょくを示すことはない。


 ……あたしは、何回呼ばれることになるだろうか。


 一回、二回、呼ばれたくらいでは、今の生活は、あまり変わらない。


 二十歳になったら、八十敷とあたしは婚姻することになるだろう。


 でも、頻繁に呼ばれるようなら。

 吾妹子あぎもこ(愛人)となれるだろう。

 それでも、何年かして、広瀬さまがあたしに飽きたら、あたしは吾妹子でなくなり、二十歳を過ぎていれば、八十敷と婚姻するだろう。


 反対に、広瀬さまが、あたしにいつまでも飽きなかったら、……八十敷と婚姻という道はない。


 また、一回、二回呼ばれただけでも、もし緑兒みどりこ(赤ちゃん)を授かったら。


 無事に出産が叶えば、宇波奈利うはなりめかけ)に、おそらくなれるだろう。


 確実に八十敷との婚姻の道はない。


(八十敷。あきらめて。こうなる運命さだめだったのよ。)


 思いのほか、心は波だち、広瀬さまの部屋へ向かう足は重いのだった……。




   *   *   *




「どれ、顔を見せてみろ。」


 広瀬さまは、あの事件があってから、かなりやつれた。

 前は明るく自信にあふれた笑顔を浮かべるおのこだったのに、今は、陰の濃い笑顔を浮かべるのだった。


 あたしは倚子に座る広瀬さまに近づく。


「ふうん、これが私の頬を張ったおみなの顔か。」


 そう広瀬さまは言うと、興味なさそうにあたしの顔を見るのをやめた。


「座れ。喉を浄酒きよさけで潤せ。

 水がよければ、水瓶すいびょうの水を飲んで良い。

 腹がすけば、机に置いてある豆菓子をつまめ。美味いぞ。」

「はい……。」


 あたしは大人しく、向かいの倚子に座った。

 しかし、広瀬さまは倚子を立ち、さっさと奥の寝床へ行き、一人でごろりと横になった。

 あたしは置いてけぼりである。

 寝床と倚子では、距離がある。

 どう頑張っても共寝は無理である。


 これは、あたしの方から、広瀬さまあ〜ん、さ寝してくださいまし〜ん、と言わなきゃならないのだろうか?


(ぐはああ───っ!)


 嫌すぎる。

 似合わない。

 言いたくない。

 しかし、言わねば膠着こうちゃく状態のままであろう。


 あたしは顔をしかめた。びきびき、とこめかみが脈打った気がする。

 しかし笑顔を取り繕い、倚子を立ち、


(どのような無理筋の責務せきむでも、果たすのみっ!)


「ひっ、ひひっ!」

「来るな。倚子に座っていろ。命令だ。……悪いが、さ寝する気分ではない。」

「ひへ……。」


 広瀬さま、と名前を呼ぼうか、はあ、と言おうか迷って、変な返事になった。


「夜、寝付けんのだ。浄酒きよさけも浴びるほど呑んだが、飽きた。徳音とくおん(良い言葉)が欲しい。語れ。」

「あの……。」

「語ることが何もなければ、おまえの同室だったおみなのことを話せ。……私の知らないことを、おまえは知っているのだろう?」


 あたしは息を呑んだ。湧いてきたのは、……いきどおり。


「あたしの同室だったおみなは……。」


 誰のせいで……!!


 目の前のおのこを、立場も時もわきまえず、睨んでしまった。

 ……まだ椿売つばきめが黄泉渡りして、一月もたっていないのだ。


 その視線に気がついたのだろう、広瀬さまがさっと上体を起こし、寝床に腰掛け、右手の平をこちらに見せた。


「すまないが、私を責めるな。女官からの愚癡ぐちを聴く耳は持たぬ。

 ただ……、おまえの主だったおみなを……、おまえから奪うことになった。許せ。」


 それだけ、傷ついた瞳で苦しそうに言うと、広瀬さまは、また、どさりと寝床に寝そべり、あたしと目をあわせるのをやめた。

 あたしは、はあっ、と大きなため息をついてやり、倚子に座りなおした。

 浄酒きよさけを遠慮なく須恵器すえきはいになみなみと注ぐ。


「ありがたく頂戴します。……本当に、寝床の方には近づきませんからね?」


 むしゃくしゃする。

 あとから気が変わった、って言いよって来たら、顔をひっぱたいてやる!


「ああ、私はこれ以上、そちらに近づかない。おまえから欲しいのは、徳音とくおんだけだ。」

「左様ですか。」


 ぐーっと浄酒をあおったら、気持ちが落ち着いた。

 ふう、良し。




 あたしは、椿売との出会いから、語ってきかせた。

 広瀬さまは、そうか、と相槌をうち聴いていたが、そのうちに、壁際を向いてしまった。



 そうして、静かに一人、泣いていた。





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