第四話  あり通ひ、絶好調。

「ふうーっ。」


 石上部君八十敷いそのかみべのきみのやそしきは、石畳を歩きながら、長い息を吐いた。

 先程、鎌売かまめの柔らかい手を握りしめた両手を、開き、ぐ、と握りしめる。

 もう秋で涼しい風の吹く午後だというのに、汗ばんでいた。


(おやおや……。)


 このオレがここまで緊張するとはな。







 三日前、鎌売かまめに、───たしかに、石上部君いそのかみべのきみの家柄は立派ね? 

 だからって、あんたが望めば、どんなおみなでも妻になりたがると思ったら大間違いよ。


 そう言われ、オレは驚いた。

 だって、おみなにとって、家柄が大きな問題じゃないのか。

 石上部君いそのかみべのきみはしっかり金持ちの豪族だし、名誉だってある。

 鎌売の両親は間違い無く、石上部君との婚姻を喜ぶはずだ。

 違うのか、鎌売には。

 なぜ、こんなに反発するのだろう?


 とにかく、慎重にいこう、と思った。

 オレは、鎌売の愛が欲しいのだから。

 手探りで、鎌売の思っている事を探っていくしかない。

 



 オレはこれまで、妻も吾妹子あぎもこも欲しいと思ったことはなかった。


 オレにとって大切なことは、武芸を鍛え、仁徳を尊び、石上部君いそのかみべのきみおのこの務めを果たすことだった。


 日中は、群馬郡くるまのこほりの見回り、主の警護、午団うまのだんとの稽古、上毛野君かみつけののきみの屋敷の警邏けいらの取りまとめ、上毛野かみつけのの衛士団長えじだんちょうの父上からの教え、とにかく忙殺される。

 それでも早朝、己一人で武芸の型をさらう日課を、欠かしたことはない。

 主からの仁恩じんおん

 仲間からの信頼。

 父上からの信任。

 それらに相応しいおのこであること。

 それこそが、重要なことだった。


 妻は、将来、家が勝手に家柄の良い娘と縁談を組むだろう。それで良い、と思っていた。


 あの火事の夜。

 鎌売と出会うまでは。


 これまで、鎌売を上毛野君かみつけののきみの屋敷で見かけた事もあったかもしれないが、女官は大勢いるので、全く覚えていない。


 なので、オレにとっては、火事の夜が、初めての出会いだ。


 オレの頬をはたき、広瀬さまの頬をはたき、迷いなく燃え盛る建物に飛び込める女。

 あんな事ができるおみなは、他のどこにもいるまい。

 あの夜の鎌売の姿を思い出すと、まだ、身体が痺れるように感じる。

 灰に煤けた顔。

 きりりと眦の切れ上がった、意思の強い瞳。

 とめどなく溢れる涙。

 濡れた衣。


 このおみな

 このおみなだ。


 オレの妻は、この女以外、いない。

 オレのいもとなる女は、このおみなだ。

 他の誰でもない。


 あの日から、八十敷やそしきの身体の全てがそう叫んでいる。

 鎌売を向いている。


 多少、わがままでもかまわない。

 多少、風変わりでも、それは問題ではない。


 鎌売が欲しい。

 鎌売が良いのだ。

 綺麗なおみなだが、もし、鎌売があれほど綺麗な女でなくとも、オレはこのように、鎌売が欲しいと思っただろう。

 不思議なものだ。


 会った初日に、頬を二発はたかれ。

 次に会った時には、真剣に妻問つまどいしたのに、顔に水を浴びせられ。

 三度目に会った時は、とにかく毎日会いに来い、と、なかなかに難しい条件をだされた。


 これからありがよひ(通い続ける事)をして、さて、どんな珍妙な事を、あのおみなは言い出すだろう。


 いいとも。

 全部呑んでやる。

 そして、最後は、必ず、鎌売をこのかいなにかき抱く。

 そうでなくば、本当に、このオレの心臓しんのぞうは張り裂けて、血潮ちしおき止めておけなくなってしまうだろう。


 恋しさゆえに───。




   *   *   *




 鎌売が洗濯した大きな布を取り込んでいると、風もないのに、ふいに白い洗濯物がはためいた。

 がばっと洗濯物の向こうから、


「かーまめっ。」

「うっ!」


 にこにこ笑顔の八十敷が顔を出した。


「びっくりするでしょう!」


 あたしは額をぴしゃりと叩いてやった。


「あて……。会いに来いって言ったのはそっち……。」

「驚かせろとは言っていません。仕事の邪魔です。」

「ちぇ……。」


 八十敷はすねたように唇を突き出すが、すぐに、にこっと笑って、


「鎌売、顔が見れて良かった。また来る。たたら濃き日をや。」


 とその場をあとにした。


「ふん……。」


 あれから本当に、八十敷は毎日、あたしに会いに来た。

 ある日は、簀子すのこ(廊下)を歩いている時。

 ある日は、炊屋のなかで。

 ある日は、湯殿を出た直後。


「ちょっと……、おみなの湯殿の出口で待ってるとは、どういうつもり?!」


 恥ずかしくなって叫んだが、


「だって、だってよぅ……。今日、会えなかったし……。随分探したのに、すれ違ったみたいなんだよ。」


 と八十敷も、これまた恥ずかしそうに身体を小さくして言う。

 鎌売はその必死さにぷっと笑って、


「わかったわ。これ以上怒りません。……明日は、もっと早く見つけられると良いわね?」

「ああ。見つける。」


 と八十敷は明るく笑った。

 八十敷のそばにいた若い衛士が思い悩んだ様子で、突然、声をかけてきた。


鎌売かまめ。これでも八十敷やそしきは、午団長うまのだんちょうです。広瀬ひろせさまの警護、屋敷の警邏けいらのとりまとめなど───。」

「やめろ。」


 ぼかん、八十敷が若い衛士の頭を殴った。


「それ以上言うな。……鎌売、また明日、会いに来る。味澤相あじさはふをや(良い夜を)※。」


 八十敷は若い衛士の首に腕をかけ、ぎゅうぎゅうと締め上げながら、鎌売に笑いかけ、去っていった。




 ……わかってる。

 八十敷だって、忙しい。

 期限も決めず、会う場所も決めず、毎日会いに来いなんて、まわりから見たら、なんてワガママな事を言ってるのか、と映るだろう。


 ……でも、八十敷が、やるって言って、実際、毎日会いに来ているのだ。





 ちょっとだけ、今日は、どこで見つかるのかしら、と思いながら、あたしは一人の部屋で朝を迎えるようになっていた。









 そうやって、半月が過ぎた。


 夜。


 あたしは、広瀬さまのねやに呼ばれた。






   *   *   *



味澤相あじさはふをや───夜の挨拶。良い夜を。さようなら。

 夕餉ゆうげを楽しみ、満ち足りた夜を過ごせますように。

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