第三話  あり通ひの約束

 三日後。

 椿売かまめ上毛野君かみつけののきみの屋敷の庭の石畳を歩いていると、


佐味君鎌売さみのきみのかまめ!」


 性懲しょうこりもなく、上毛野衛士かみつけののえじ午団長うまのだんちょうが背中から声をかけてきた。


 あたしは、ちょうど他の女官と炊屋かしきやへ向かうところだった。

 立ち止まり、一緒に歩いていた女官に先に行くよう、目配せをする。

 今は無手である事を残念に思いながら、くるりと後ろを振り向くと、真剣な顔の石上部君八十敷がいた。


 武人らしい風貌。

 背は高く、肩幅は広く、全体ガッチリと筋肉がついて、顔は眉が太く、男らしい精悍な顔立ちだ。

 口元を引き締め、眼差しに浮ついたところはない。


「金輪際近づかないで、と言ったはずよ。」


 冷たく言うと、


「そんな、そんな冷たくしないでくれよ……。」


 八十敷は、困ったように視線を下げた。

 はっ、とあたしは威嚇するように息を吐いた。


(冗談じゃないわ。また来るとは思わなかった。何を考えてるのかしら?)


 たしかに、石上部君いそのかみべのきみは家柄の釣り合いは良い。

 母刀自ははとじが聞いたら、喜んで婚姻を承諾するだろう。


(ああ、やだやだ。)


 仕える主である、意氣瀬おきせさまや、広瀬ひろせさまに望まれたなら、覚悟はできている。

 でもそうでないなら、あたしは、女嬬にょじゅとなる夢のために、ここにいるはず。

 間違っても、婚姻の為にいるわけではない。


 その事を、このおのこは全然わかっていない。


 あたしの事をちっとも知りもしないで、大方おおかた、家柄の良いおみなを見つけたから婚姻を申し込んでやろう、と思ったのであろう。

 傲慢な鼻っ柱を言葉の鉄拳で砕いてやった。

 これでもう近づいてくることはあるまい、あたしも早く忘れよう。

 そう思っていたのに。


「オレはおまえに恋したんだよ。おまえを妻にしたいんだ。一生大事にする。おまえに、オレのいもとなってほしい。」


いも。)


 ちょっとその言葉の甘やかな響きは耳に残ったが、あたしは、ふん、と鼻で笑った。


「あたしはあんたに恋してない。

 たしかに、石上部君いそのかみべのきみの家柄は立派ね? 

 だからって、あんたが望めば、どんなおみなでも妻になりたがると思ったら大間違いよ。

 変わり者と思ってもらってかまわない。

 あたしには、あたしの夢があるの。婚姻はしない。」

「二十歳になっても、誰とも婚姻しないつもりか?」


 慎重に八十敷が訊いてきた。

 あたしはうつむいた。

 上級女官は、ほとんど二十歳で婚姻をする。


「……そこまでは思ってないわ。」

「なら……!」

「まだ四年ある。それまではしない。」

「なんでそんなに、婚姻したくないんだ?」

「夢があるのよ。あたしは女官として、大きくなりたいの。」


 あたしは悲しくなって、目をつむった。

 あたしの夢。

 ……椿売。

 ……久君美良くくみら

 二人は黄泉に渡ってしまった。

 あたしの夢は、今や血も肉も削げ落ち、白骨を荒野にさらしているようなものだ。

 きっと叶わないだろう。

 さらには。

 女官は婚姻したら、その家のおみなとなる。当然、女官ではなくなり、この屋敷を離れる事になる。夢の終わりだ……。


「鎌売。」


 はっ、とあたしは顔を上げた。

 いつの間にか近づいていた八十敷が、心配そうにあたしを見下ろしていた。

 

「そんな悲しそうな顔をしないでくれ。

 オレは、本当に、おまえに恋してるんだ。

 オレは、婚姻したとしても、おまえの夢の邪魔はしない。

 女官でいたいんだな?」


 こくり、とあたしはうなずく。


上毛野君かみつけののきみの屋敷の近くに、屋敷をもうけよう。

 婚姻しても、そこから、上毛野君かみつけののきみの屋敷に女官として通えば良い。」

「女嬬になってないのに?」


 女嬬の人数は限られている。

 女嬬ならば、婚姻後も、上毛野君かみつけののきみの屋敷近くに住む事を上毛野君かみつけののきみから求められ、通いの女嬬として、仕え続けられるのだ。


「ああ。だから、オレの妻となってくれ。」


(……悪い話ではないかも。女嬬でなくても、婚姻後も、女官を続けられるなら……。)


 急速に心が動いた。

 

「オレは他に妻も吾妹子あぎもこもいない。

 これから先も、鎌売以外の妻も吾妹子あぎもこも作らないとうけひする。

 おまえの危機には、この命をかけて、おまえを救う。

 鎌売、オレのこの想い、受けてくれ。」


 ……どうせ、二十歳になれば、母刀自ははとじに、家柄の良いおのことの縁談を進められるのだろうし。

 おのこなんてどれも同じよ。

 それなら……。


「……二十歳になったら、あんたでも良いわ。」


 渋々、そう言うと、にかっ、と八十敷が笑った。


「もう一声!」

「……は?」


 何を言いだすのだろうか。

 あたしは目の前のおのこを思い切り睨みつけた。

 八十敷はにこにこと笑っている。


「その条件なら、何も二十歳まで待たなくても良いだろう。

 オレは、すぐにもお前を妻にしたい。」


(変な男!)


 あたしは、一歩石畳を下がった。


「大人しくあたしが二十歳になるまで待ってれば良いじゃない!」

「お前が恋しい。待てない。

 お前が恋しすぎて、今にも、心臓しんのぞうが裂けて血潮ちしおが流れ出していってしまいそうだ。

 なあ……、どうしたら、もっと早く妻になってくれる? 

 なんでも言ってくれ。なんでもするよ。」


 二十歳より早く婚姻するのなんて、ごめんだわ。そう言って、この婚姻自体をやっぱり断ろうか、とも思ったが、


 ───なんでもするよ。


 その言葉に、ふと心が動いた。


「じゃあ、あたしに一日一回、会いに来て。毎日、ずっとよ。」


 ちょっとした悪戯心である。

 八十敷は、こくっと頷いた。


「いつまで?」

「いつまでなんて、決めないわ。

 あたしの気が済むまでよ。」

「待ち合わせ場所は?」

「そんなのも、決めない。あたしは普通に生活してるから、あなたがあたしを見つけて、毎日、顔を見せて。ありがよひ(通い続ける事)よ。どう?」

「……厳しい条件だな。」

「やらなくても良いのよ。そしたら、あたしが二十歳になるまで、きちんと待つことね。」

「……やる。」


 思案顔だった八十敷が、朝日が照らすように笑い、ぱっとあたしの両手をとった。


(あっ! 何するの。恥ずかしいじゃない!)


「鎌売……。オレは心からおまえを恋うている。それをいついかなる時も、忘れないでほしい。」


 八十敷はじっとあたしを見つめながらそう言って、顔に微笑みをたたえたまま、


「また明日、会いに来る。

 佐味君さみのきみにも、正式に婚姻の申込みをする。……たたらき日をや(良き日を、さよなら)。」


 と、手を離し、くるりと背をむけ、石畳の道を迷いなく歩いていった。


(て、て、手を握りやがって、この野郎……。)


 八十敷を心のなかで、つい乱れた言葉遣いで批判しつつ、あたしは驚きで口を半開きにし、無言で八十敷の背中を見送った。


 広い肩幅。力強い足取り。明るい笑顔。真剣な眼差し。


(……あたし、なんで、婚姻を、あっさり認めちゃったんだろう?)


 自分の言動が、自分でも不思議で、あたしはパチパチとまばたきをした。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る