第九話  命死ぬべく

 いぬの刻。(夜7〜9時)


 十日に一回、意氣瀬おきせは寝る前に法華経ほけきょう写経しゃきょうして過ごす。


 わらはの頃、生死の境をさまよう高熱を出したことがあった。みほとけにおすがりし、命が助かった、と母刀自ははとじから聞かされている。

 そして、母刀自から、十日に一回、必ず写経をしろ、と厳命されたのである。


 月明かり、蠟燭、細い明かりではあるが、さらさらと紙に文字を連ねていく。

 墨痕淋漓ぼっこんりんり

筆勢ひっせいが生き生きとしてさかんである。)


 と、妻戸つまと(出入り口)の外から、


久君美良くくみらです。入れてくださいまし……。お願いがあってまいりました。」


 と女官の声がした。

 珍しい事もあるものだ。


「どうした?」


 と妻戸つまとを開けると、すう、と丸顔の女官が思い詰めた顔で部屋に入ってきた。

 

「お願いとは……。」


 なんだ、と意氣瀬おきせが言う前に、久君美良がいきなり胸に飛び込んできた。


「うわっ。」


 驚きに、変な声がでた。

 意氣瀬に許可を得ることなく抱きついてきたおみなは、


「恋い慕っております。あたしとさしてください。あたし、あたし……。」

「やめないか! そのようなつもりはない!」


 己から久君美良を引き剥がす。

 意氣瀬おきせにその気はない。

 むしろ、不愉快で虫酸が走る。

 主に召されたわけでもないのに、身の程をわきまえず、夜、自らを抱けと迫ってくる女官なぞ、打擲ちょうちゃくの末、放逐ほうちくが望ましい。


 久君美良は、ぶわっと涙を流し、顔を醜く歪めた。


「どうしてです? あの夜、初めてお目通りした夜、意氣瀬おきせさまは優しく、力強く、あたしを抱きしめてくださったではありませんか。

 あたしは、意氣瀬さまに呼ばれる日を、一日千秋の思いで待っておりました。なぜ、椿売つばきめを呼んで、あたしは駄目なんです?」


 答える気にもならない。

 椿売つばきめいもだ。

 今生こんじょうで恋うたった一人のおみなだ。

 誰と比べられるものでもない。


「出ていけ!」


 罰を与えないのは、意氣瀬の温情である。

 にらみつけ、厳しく言い渡すと、あはは、とおみなは笑った。


「わかりました。出ていきましょう。でもその前に一つだけ。

 椿売は今ごろ、誰と逢ってると思います? 広瀬さまですよ。」


 くっ、と喉をならして久君美良が笑った。


「馬鹿な!」


 頭からざああっと血がひき、気がつけば簀子すのこ(廊下)を走っていた。


 部屋に残してきたおみなの、悲鳴のような慟哭が背中に聞こえた。


「かっ!」


 いきなり走ったので、むせた。……喀血かっけつした。

 ぱたぱたっ、と血が簀子すのこに落ちる。

 この頃、とみに出るようになった。


(忌まわしい!)


 このような身体。

 今はかまっている時ではない。


(椿売、椿売……。)


 弟が奈良から帰国して、しばらくしてから、……椿売は、何かが変わった。

 あの身体の、何かが。

 おのこの影がある気がしてならない。

 知りたくない。

 知りたい。

 許せぬ。

 信じたくない。


 違う、何もない、もう許して、と懇願する椿売を責めた。

 身体の深奥しんおうまで己のものにしても、まだ、安心ができない。

 椿売は私のいもなのに、全てを手に入れられている気がしない。


 ……きっと、椿売が心ひかれるおのことは、弟だ。


 私と違って健康で、自信たっぷりに笑う弟。

 ずっと仲良くやってきた。

 上毛野君かみつけののきみを守る両翼りょうよくたれ、と父上から言われて、そのつもりで接してきたのだ。


 だが、あの逞しい身体が、私のいも柔肌やわはだを抱いたなど、想像するだけで……。


(許せぬ!)


 それが真実なら、どうなるか、どうなるか……。


 見ておれ!




    

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