第八話  唄う久君美良

 背子せこは  てどまさず


 かりも  とよみてさむし 


 りにしを




 吾背子波あがせこは  待跡不来まてどきまさず

 鴈音文かりがねも  動而寒鳥とよみてさむし

 吾者余利尓思乎あはよりにしを





 あたしの愛しい人は、待っても待っても来ない。


 雁の鳴く声も、秋の空に寒々しく響き、さみしい。


 あたしはこんなにも、心をあなたに寄せてきたのに。





     *   *   *




「悪かったわ。鎌売かまめ。」


 女官部屋に帰ってきた久君美良くくみらは、泣き腫らした目であたしに謝った。

 あたしは、当然怒っている。


「…………。」


 無言で睨みつけてやると、久君美良は、少し息を詰め、


「あなた本当、怖い顔するわね。」


 と下を向いた。


「騙すようなことして、ごめんなさい。……意氣瀬おきせさまに言うつもりはないわ。安心して。それに、もう、椿売には、なるべく会わないようにするわ。……辛いもの。」


 あたしはひそかに息を吐いた。


(……言うつもりがないのなら、良かった。)


「信用していいのね?」

「ええ。」

「……わかったわ。許します。

 ───ねえ、久君美良、どうして、なの?」


 どうして、こんな狂ったような事を。


「どうして? どうして……。どうしてかしらね。

 意氣瀬さまの事になると、自分でも、どうしてこんなに、というような事を、してしまったり、考えてしまったりするの。

 もう考えるのはやめよう、と思うのに、すぐに、意氣瀬さまのことを考えてしまうの。どうしてかしら……。」


 久君美良は静かに涙を流した。

 あたしは、そっと久君美良の肩を抱いた。


「ね……、もういいじゃない。

 意氣瀬さまのことは。

 あなただって、とても可愛い、名家のおみなじゃない。

 もう、女官もやめちゃいなさいよ。

 今からでも、あたしの兄上の妻になってよ、久君美良。」


 久君美良の肩が、ぴくん、と揺れた。


「知ってるのよ。兄上、億野麻呂おのまろが、正式な手順をふんで、婚姻の申込みをしたのを、あなた断ったのでしょう?

 あたしの兄上は、適当そうに見えるかもしれないけれど、あなたを本気で恋い慕ってるわ。」


 本当のことである。

 月に一回の四日間もらえる休みで、佐味君さみのきみの屋敷に戻り、兄から話しを聞いた……、というか、久君美良の事を訊かれた。


「本当に恋うてる、幸せにするつもりだ。なんで断られたのかな……。

 なんでもいい、久君美良のことを教えてくれないか、鎌売。」


 と、すっかりしょげた兄上は、ため息をつきながら言ったのだ。


「ねえ、兄上の妻になれば、必ず、幸せにしてくれると思うわ、久君美良。そうしなさいよ。」

「ごめんなさい、鎌売。」


 久君美良は、涙を流しながら、肩を抱くあたしの手の上に、手を重ねた。


億野麻呂おのまろには、三回会ったわ。……良い人だと思う。

 だけど、あたし、……意氣瀬さまじゃないと駄目なの。」

「家の釣り合いはぴったりじゃない。どうやって断ったの?」


 普通に考えれば、良い話だ。きっと、久君美良の両親は婚姻に前向きだったはずだ。

 どうやって久君美良は断ったのだろう? 


「……意氣瀬さまの吾妹子あぎもこになれないで、この縁談を受けたら、舌を噛んで死ぬ、って母刀自に言ったわ。」

「ワーホーイ……。」


 鎌売は天を仰いだ。

 なんと哀れな兄上だ。

 万に一つの望みもない。


「ごめんなさい、鎌売。あなたの兄上を傷つけたかったんじゃないの。

 ……椿売のことも、傷つけたかったんじゃないの。

 あたし、意氣瀬さまが恋しいだけなの。

 ごめんなさい、ごめんなさい……。」

「いいから。もう泣かないで。久君美良。」


 あたしは長いこと、久君美良の肩を抱いていた。










 ……その後、久君美良は、言った通りに過ごした。

 何日も過ぎ、このまま久君美良は落ち着くものと思われた。


 椿売には、危ない橋を渡るのはやめろ、と言いたかったが、……言ってどうなるものでもない事がわかっていた。


 なら、あたしにできる事は一つ。


 共に地獄まで。




    *   *   *




 

 鎌売かまめは寝たようだ。

 その深い寝息をしっかり確認してから、久君美良はそっと寝床から起き出した。

 蠟燭ろうそくの明かりはつけられない。

 暗いなか、女官の、蘇比色そびいろの衣を手探りで身につける。


背子せこは……。」


 久君美良は、小声で、ほんのすこし鼻にかかる声で、唄う。鎌売を起こさないように。

 どうしても、唄いたい気分だった。


てどまさず……。」


 髪にさねかずらの油をたっぷりつけ、つみくしで、髪をくしけずる。

 髪に艶がでますように。


かりも……。」


 玉櫛笥たまくしげ(化粧箱)を開け、そっと化粧紅の粉を薬指にとり、頬に、唇にのせる。

 唇に粉のザラザラとした感触が残る。

 暗くて、細かい作業はできない。

 ほんの少しでも、紅を差し、ほんの少しでも、美しく見えれば、良い。


(……あたしは、鎌売に身支度を手伝ってもらうわけにもいかないもの。)


 久君美良は、鎌売を振り返り、ふっと笑った。

 鎌売は、まなじりの切れ上がった鋭い顔つきの奥に、篤い真心を持ってる事を、この九ヶ月間の同室暮らしで、久君美良は良く知っている。


(あなたは良い友人よ、鎌売。あたしが、あなたを側付きの女官にしたかった。)


 、鎌売はもう椿売付きの女官だから、それは叶わない。

 

「とよみて寒し……。」


(できれば、……いもと呼ばれてみたかったな。)


 小声で唄い続けながら、そんな事を思う。


 あたしの愛しい方は、もう、椿売つばきめいもであると宣言した。

 いもおのこにとって、一生に一人のおみな

 この先、他の女は、妻や吾妹子あぎもこ(愛人)にはなれても、いもとなることはできない。


 ふと、このように、貴い方を恋い慕い続けても、いもとなる事はない自分と、郷の、ごく普通のおのこいもとなり、愛される良民りょうみん(平民)のおみなと、どちらが幸せかな、と思った。


 どっちかな。


 どっちでも良い。


 あたしはただ……。


 愛したい。

 愛されたい。

 どうしようもなく、恋うている。


は寄りにしを……。」


 さあ、行こう。




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