第七話  童のように泣く椿売

 鎌売かまめのまわりの女官は、十九歳の広瀬ひろせさまに色めき立った。

 まだ妻はいない。

 自信のにじんだおのこらしい笑顔。

 そして、かなりの美形。

 そう、顔が美形であった。

 加えて、健康で鍛えられた身体から放たれる精悍さ。

 いつも顔色悪く、線の細い兄、意氣瀬おきせさまとは違う魅力が、広瀬さまにはあった。


「聞いてくれ兄上! 信楽宮しがらきのみやから、平城京へいじょうきょうへ。一日の距離だから、遷都するって決めたら、あれよあれよ、と人が行き来するのさ! 

 オレは、なんとな、牛をひいて移動した。牛のヤツ、のったりのったり歩くんで、もう大変。」

「くくく、それは、難儀であったな。まあ、あの地震で怪我がなくて何よりだ。」


 そうやって酒を酌み交わす兄弟は、同じ母刀自ははとじを持つ。

 兄弟仲は良いようであった。





 あたしは、もしや、と思っていたが、広瀬さまにお目通りさせられることはなかった。


佐味君さみのきみだからって、ちょっと自惚うぬぼれていたかもしれない。)


 考えてみれば、あたしは意氣瀬おきせさま付の女官だったし、今はその宇波奈利うはなりめかけ)付きの女官だ。


(広瀬さまの吾妹子あぎもこ候補でお目通りされるわけもない、か……。)





 しばらくして。




 上毛野君かみつけののきみの屋敷の裏山で。


 椿売つばきめが散策を楽しんでいたとき。


 ばったりと広瀬さまと出くわした。


 それから、運命は暗転する。


(まずい、まずい。)


 事あるごとに、広瀬さまが、椿売を見る。

 視線が刺さる。

 ……あの顔は、おのこの顔。


(そんな目で兄の宇波奈利うはなりを見るんじゃあないっ!)


 野犬を追い払うような目であたしは不躾ぶしつけおのこを睨んでやるが、あたしの事は、てんで視界に入ってないようである。

 悔しい。


 もちろん、椿売は、広瀬さまの方を見たりしない。


 意氣瀬さまの宇波奈利うはなりらしく、慎ましくしている。



 だから、そのまま、何事もなく日々が過ぎ、と思っていたら。


 ……椿売が、変わった。


 何が、どう、と言うのが難しいが、何かがおかしい。


 それは、ほんのちょっとの笑顔のぎこちない瞬間。


 それは、指が触れあう時。


 意氣瀬さまに対する態度が、ほんの少し、違和感がある。


 そして、広瀬さまと椿売が、一瞬、眼差しが交差する時。


 紅く艶のある火花が散る。


 あたしは青ざめた。


 あってはならないこと。


 意氣瀬おきせさまの宇波奈利うはなりである椿売が、抱いてはならぬ想い。


 椿売は、あってはならぬ想いを抱いてしまったのだ。


 なんたる事……!




    *   *   *




 ───よもや、間男がいるわけではあるまいな、椿売?


 ───けして、けしておりません。


 ───最近のおまえは、何かおかしいのだ。


 ───何も、何も。


 ───弟を、どう見る。私と違って、健康で、力にあふれている。おのことして。


 ───んう!


 ───魅力的だと、女官たちが噂してる。


 ───うう、うう、あたしは、意氣瀬さまの宇波奈利うはなりですっ。


 ───そうだ、おまえの、何もかも、私の! ものだ! おまえが! この肌を! 誰かに許したら! 私は! 死んでやるっ! 


 ───ううう、ううう。


 ───私、が、恋うているのは、おまえ、だけだっ! いいかっ! 死んでやるからな!


 ───もう許してえ! いません、いません、誰も、いない。ああああ……っ!






 粘絹ねやしぎぬねや紅艶こうえんが散る。




   *   *   *




鎌売かまめ、お願いしたいの。椿売つばきめと話をさせて。」


 女官部屋で、うっすらと笑顔を浮かべた久君美良くくみら鎌売かまめに言う。


「ね、最後、喧嘩別れみたいになっていたでしょう。もう怒ってないし、謝りたいの。一度、ゆっくり話しをしたいのよ。」

「……わかったわ。椿売にお伺いをたてるわ。」


 そうして、椿売に許しを得て、久君美良を椿売の部屋に通した。


 はじめ、久君美良は、嫉妬の目をむけた日々を謝罪し、椿売もそれを許した。

 しかし、その後、しおらしく目を伏せていた久君美良は、ぱっと椿売の顔を見た。


「あたし、知ってるわ。広瀬さまと共寝ともねしたんでしょう?」

「なっ……!」


 椿売が驚き、あたしはすかさず、


「控えなさい、久君美良!」


 と叱った。

 久君美良は、ふん、と鼻をならした。


「やっぱりね。別にその場を目撃したわけじゃないわ。

 でも、したんでしょ?

 その顔で、共寝してない、なんて言わせないわよ。誰も信じないわ……。」


 椿売は青ざめ、ぶるぶる震え、両手をもみ合わせている。

 ひどい取り乱し方だ。あたしは、


「久君美良!」


 と、久君美良の両肩を取り押さえようとしたが、


「この事を意氣瀬おきせさまが知ったら、どうなさるかしらね!」


 と叫んだので、ぐっ、と両手をひっこめた。


「裏切り者。畜生ちくしょう

 お優しい意氣瀬さまの宇波奈利うはなりにしてもらっておきながら。愛されておきながら! 

 さあ、もう広瀬さまとは逢わない、意氣瀬さまに知られる前に別れると、今ここでうけひなさい!」


 神の神託をのべる巫覡ふげきのように久君美良が言った。


「…………。」


 椿売は、両手を握りしめながら、胸にあて、うつむいている。


「何を黙っているの。早くうけひなさい!」

「…………。」


 久君美良が、舌打ちをして一歩近寄り、声の調子を和らげた。


「意氣瀬さまを恋うているのでしょう? 意氣瀬さまを悲しませる前に、広瀬さまともう逢わないうけひをたてろ、と言ってるだけよ、椿売?」

「……たてないわ。」

「え?」

「もう逢わないといううけひは、たてない、と言ったのよ。」


 ギラギラ光る目で椿売は静かに言った。あたしは息を呑み、久君美良は激昂した。


「何を言って……!」

「意氣瀬さまを恋うているわ! でも意氣瀬さまがあたしをどう扱うか、毎夜毎夜どう責め立てるか、あなたは知らないでしょう? あたしが許してと泣き叫んでも、あの人は……。」


 そこでがばっと椿売が久君美良に抱きつき、耳元で何事がささやいた。久君美良はみるみる顔を赤くし、


「そんなの、あなたがっ、悪いんじゃない!」


 と、どん、と椿売の肩を押した。

 二歩、椿売は後ろによろけ、きっ、と久君美良を睨んだ。


「出てけ! あたしの想いはわからない!!」


 椿売が吠えた。


「うああ……。」


 久君美良がうめき、一目散に妻戸つまと(出入り口)を出ていった。


(なんてこと……。)


 あたしは、かける言葉が見つからない。

 ただ、涙がこみあげ、頬をつたう。


(……広瀬さまと、どうしてそこまで深い仲になってしまったの。逢うのは間違い。破滅よ。)


 そう言いたい。

 ……でも、あたしが何を言っても、椿売の心は動かせまい。

 それがわかってしまった。


 もう、破滅の道を、知らぬ間に、椿売は転げ落ちていたのだ。

 ……それは、あたしも。

 あたしはお付きの女官。けして、知らぬ存ぜぬでは通せまい。


(破滅よ……。)


 あたしは静かに泣いた。

 それを見た椿売が、ぐっと眉を詰め、うつむいた。


「鎌売……。見苦しいところを見せたわね。」

「……いえ、あたしこそ、久君美良を通してしまい、申し訳ありません。」


 椿売は首を横に振った。そして一つため息をついた。


「……意氣瀬さまに言う?」

「言いません。」

「そう。……ふふ、どうしよっかなあ。あたし、……どうしたいんだろう。」


 椿売は今度は天井を見上げ、悲しそうに笑い、ぽろぽろと涙をこぼした。


「ね、鎌売。あそこでうけひすれば良かったのにって思ってる?

 きっと、あそこで、広瀬さまに逢わないってうけひをすれば、久君美良は、引いてくれたわね。

 でもね、言いたくなかった。逢わないってうけひ、できなかった。

 広瀬さまは、違うの。すごく、優しいのよ。」


 小さなわらはのような顔で、震えながら椿売は泣いた。

 あたしは椿売を抱きしめた。

 椿売は、あたしをぎゅうと抱きしめかえしながら、


「あたし、意氣瀬さまを恋うてるわ。意氣瀬さまの宇波奈利うはなりだもの。いもだもの。信じてくれる? 鎌売?」

「信じるわ。椿売。」

「ありがとう。……あたし、辛い。」


 そう言って、椿売は泣いた。

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