7-2

 室井健太は、学校の屋上で小春たちを待っていた。


 夏至が過ぎ、例年より遅れ気味の梅雨を待つ夕暮れの空はすっきりと晴れて、まだ浅いオレンジ色をしている。その空の下で、由希斗の白銀の髪が、夕陽をあびて淡い金色を帯びる。


「小春ちゃん!」


 由希斗が屋上への扉を開き、互いの姿が見えてすぐ、絵里奈が半泣きの声を上げた。小春は優しく微笑み返す。


「ひとまずは、無事でよかったわ」


 絵里奈の腕を、見知らぬ男が掴んでいた。ほかに拘束されている様子はないものの、絵里奈は動けないようだ。その男と絵里奈の一歩前に立ち、室井が小春たちに対峙した。


 それなりに広い屋上の端同士に立つ小春たちと室井とのあいだには、駆け寄ってもすぐには近づけないほどの距離があった。


「それで、君たちの要求は何?」


 由希斗の桃色の瞳は鋭く細められ、夕陽の加減で血のように朱く見える。市長だったら腰を抜かすところかもしれないが、室井健太は、少し怯んだ様子を見せても退きはしなかった。


「菅原を解放しろ」

「それは、僕と小春のあいだのことだよ。君に言われてどうこうするものじゃない」

「菅原、お前はこいつを憎んでいるんだろう?」


 由希斗にあしらわれた室井が、小春に目を向けて言った。由希斗が小春を見下ろし、伏し目がちになった瞳に暗い影が落ちる。小春は呆れて言い返した。


「素敵な誤解ね」


 室井との会話を思い返してみても、いったい何がどうして小春が由希斗を憎んでいることになるのか、小春には全く身に覚えがない。


「お前、言っただろ。お前を救うために、殺してほしいって」


 確かにそう言いはしたが、半分以上は室井への意地悪で、残りが由希斗の苦しみを和らげたい思いである。そこに憎しみなどひとかけらもなかった。


「それでわたしがユキを憎んでいると思うのは、あなたがそう思いたいからだわ」


 周囲の霊力がいくらか荒れて、小春は由希斗を見上げた。彼は室井を見据えながら、重く暗い気配をまとっていた。

 由希斗を気にしながら、小春は室井へ言う。


「もし、わたしがユキを憎んでいるなら、ユキを殺してと言ったでしょう」

「でも、死にたいと思うくらい、お前は不幸なんだろ?」

「不幸になるより、偽物でも幸福を感じていたい、と言ったはずだわ」

「偽物の幸福で、いいわけがないだろ!」


 室井が叫ぶのに、小春の隣で、由希斗が鋭く息をのんだ。彼は苦しそうに顔をゆがめ、視線を落とす。


 小春は、手のひらに小さな痛みと、そこからほんのかすかに霊力が流れ出すのを感じ、由希斗の手へと視線をやった。握りしめられた指で、爪が手のひらに刺さっている。


「ユキ!」


 小春がそっと彼の手に触れると、由希斗ははっと指をほどいた。


「ごめん、小春……」

「謝ることはないわ。でも、あまり握りしめたら痛いでしょう」


 小さな傷は、治癒の術を使うまでもなく霊力の巡りでもう治りかけている。その痕を指先で撫でてやりながら、小春は室井に言い返した。


「偽物なんかじゃないわ」

「偽物って言うんだよ、そういうの。そいつの幻想に捕らわれているんだ、お前」


 由希斗の手が、小春の手の中でぴくりと震える。小春は少しだけ勇気を出して、由希斗の手を握った。


 その温かさを手のひらいっぱいに感じて、答えは自然とうかんでくる。


「これは幻想じゃない」


 室井にも、自分にも、由希斗にも聞かせるように、きっぱりと返した。


 神に仕える一族に生まれて、神さまのために舞い、その由希斗に生かされてきた。

 由希斗に与えられるものが、小春のすべてだ。それを幻と言うのなら、小春の存在まで、幻ということになる。


「オレには、お前にはわからない真実がわかる」

「わかっているつもりになっているだけだよ」


 突き放すように由希斗が言った。


「僕と小春のことが、なぜ君にわかるの」

「部外者から見たほうが、わかるときってあるだろ。だいたい、菅原を縛り付けているお前には、自覚があるんじゃないのか」

「僕は、小春を縛り付けているわけじゃない。……互いの意思のもとに交わした契約だよ」


 そう言う由希斗は、室井に対しては強気に見えたが、小春と繋いだ手からは力が抜けかけていて、彼の怯んだ気持ちを感じさせた。由希斗の手は、小春より大きくて、重い。小春は、彼の手が自分の手のひらから抜け落ちてしまわないよう、繋いだ手に力を込めた。


「言葉の意味を歪めたり、隙を突いたりして、『契約』をするのが、お前みたいな奴らのやり口だって聞いた。本当に菅原の意思だったのか?」

「……」


 由希斗が口を閉じる。小春は彼の顔を見上げた。


 彼が契約と言う、そのもとになった意思――『生きたい』と願ったこと――を、小春は憶えていない。


 由希斗の桃色の目が小春を見、何かを訴えるように細められた。それを受けて、少しだけ考えつつ口をひらく。


「神や、妖怪と呼ばれるようなものたちが、言葉の曖昧さや不確定さを利用して、本意とは違う結果をもたらすことがあるのは、わたしだってよく知っているわ。でも、ユキは……」


 ひとつ息をついて、小春は空いているほうの手を胸に当てた。


 鼓動の代わりに、小春を生かす霊力が、ゆったりと脈打つようなリズムを伝えてくる。小春は、心臓が跳ねたり、脈が速くなったりするように感じてしまうが、本当は、すべて由希斗にわけ与えられた霊力の巡りだ。それは心のうごきに合わせてリズムを変え、ときには乱れる。


 心臓が時を止め、由希斗の霊力に代わっても、小春の心が、小春といういのちの存在を知らせている。


「ユキは……わたしに生きてほしいと願ってくれた。うれしかったの。ほんとうに」


 室井よりも、由希斗へ向けて言った。

 今、ここに生きているいのちの重苦しさと、その喜びは、相反するものではない。どちらも小春のなかにあり、だからこそ小春は自分の存在を持て余した。



 由希斗に幸福でいてほしい。後悔に苛まれないでほしい。

 由希斗のそばにいたい。彼を幸せにしたい。

 悲しい顔をしないで、笑って……。



 小春はふっと由希斗から視線を外し、その目を室井へと向けた。


「わたしは、ユキから解放されることを望んでいるわけじゃない。ユキに悲しい思いをしてほしくないだけ。それがわたしの意思。そう言えば、室井くんは手を引いてくれるの?」

「納得できるかよ」

「ユキとわたしのことよ。あなたに納得してもらう必要がないわ」

「お前はそう思わされているだけなんだって! なんでわからないんだ、それじゃお前は幸せになれないんだよ!」

「なら、望み通り殺してやればどうだ?」


 由希斗が弾かれたように顔を上げ、室井の後ろにいる男を睨んだ。半歩前に出て、小春を背に庇う。


 背格好は普通の人間と変わらなく見える男は、しかしその両目を妖しくぎらつかせ、由希斗を小馬鹿にするように笑う。


「健太やその娘の考えは、おれにはどうだっていい。何であれ、その娘を呪縛から解き放つことがお前との契約の対価だ」

「契約……」


 由希斗が低く呟き、男と室井の繋がりを確かめるように目を眇めて彼らを見比べた。小春にも、由希斗の感じる彼らの霊力が見える。小春と由希斗ほど強くないものだが、確かに、彼らは霊力で繋がっていた。


「おれは、お前の願いを聞き届ける。おれは娘を殺し、お前はおれをこの街の『神』にする」

「なっ、待て!」


 室井が慌てて叫んでも、男は聞く耳を持たない様子だった。小春を殺すことが室井への対価とは、どう考えても曲解だが、室井の願いが『小春を由希斗から解放すること』ならば、曲がっていてもそう解くことはできる。


「わたしとユキの前に、室井くんのほうが嵌められているじゃない」


 小春は呆れて言った。


 神への『お願い』――神との契約を軽々しくおこなってはならないのは、そのためだ。


 言葉も想いも、ゆがめて捉えることはいくらでもできる。

 想いをゆがめられてもかまわないくらい、信頼できる相手としか、交わすべきでないものだと小春は思う。


「小春を殺しても、この街の神さまにはなれないよ。決して殺させないけれど。君は、僕には敵わない」


 由希斗の声音は、冴えた刃のような冷たさを含んでいた。


「娘を殺せば、お前の力を誰が抑え込む? お前が街を破壊したなら、信仰も失うだろう。そして弱ったお前をおれが討ち取り、人はおれを崇める」

「僕は信仰を必要とはしない。僕が存在しているのは、どういうわけかこの世界が僕という存在に力を巡らせているからで、何かに依らないと存在できないわけじゃない」


 小春は、由希斗の感情の乱れに合わせて荒くなってゆく霊力の巡りを、彼の背後で制御していた。それでもときおり手綱を握りそこね、強風となって吹きつける。


 由希斗は怒ると冷ややかな印象がまさるタイプだ。けれど小春には、彼の霊力によって、内に秘める激情を感じ取れる。


「君も、本当はそうでしょう? でも信仰されていた快さを忘れられなくて、ぼくに成り代ろうとしている、醜い神の成れの果て」

「醜いなどと、人間どもを都合よく利用して神と崇められている貴様に言えた口か」


 由希斗の侮蔑の視線を受けて、野良神と化した男は屈辱に歯を剥いた。


「『神』なんて、人の生み出した幻想だよ。君の言うことはある意味で正しい。僕も、君も、幻想に過ぎない」


 由希斗は淡々と言い、ふと笑った。それは明らかに、由希斗を『幻想』と呼びながらこの街で信仰を欲する男への挑発だった。


 そしてそれは、室井にも向けられていた。


「小春の幸せも、ぜんぶ『幻想』なのかもしれない。でも、それが何?」


 由希斗は冷めた目で室井を一瞥する。


「君が何を言ったって、小春は君を選ばないのに。君なんか、小春は愛さない」

「え……」


 普段の由希斗のもの言いではない。彼はわざと室井の憎悪をかきたてる言い方を選んだ。そのことに、小春はとても驚いた。


 小春から見える由希斗の横顔には、悪意と憎しみが滲んでいる。彼にも心があるのだから、それは当然持ちうる感情ではあるし、彼の霊力を御する小春には、その感情の強さも感じ取れる。

 けれど、それを彼が剥き出しにして、自制もしないのは初めて見た。


「ユキ……?」


 後ろから手を伸ばし、彼の手に触れようとして、ためらい、その袖を掴む。由希斗がそこに目を落として、次いで小春を見た。

 いつも綺麗な桃色の目が、今は澱んで見えた。


「……っ」


 彼の目を見つめたまま、身体が竦む。


「なんでお前が菅原のことを決めつけるんだよ! おかしいだろ!」

「馬鹿だなあ、健太」


 嘲るように言ったのは野良神だった。一瞬で、その身体が龍体に変化する。


「正しかろうと、欲しいものは手に入らない。こういうのは奪うしかないんだよ!」

「……!」


 野良神が狙ったのは、由希斗ではなく、その背後にいた小春だった。はっとして顔を上げても、由希斗に気を取られて硬直していた小春は、反応が間に合わない。


 見開いた視界いっぱいに、霊力を纏わせた鋭い爪が迫る。


「小春!」


 貫かれる、と思って、思わずきつく目を瞑った。


 ところが、体を突き抜けるような痛みや衝撃は、膜一枚を隔てたような鈍さでしか訪れなかった。その意味は瞬時にわかる。


「ユキ……!」


 龍の爪を、由希斗がその身で受け止めていた。由希斗の霊力が荒れ狂い、力任せに龍の体を弾き飛ばす。龍が離れて崩れ落ちる体を、由希斗は膝をついて堪えた。

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