第七章 願い

7-1

 室井健太が、絵里奈を連れ去った。


 市長が真っ青な顔で小春たちの家に駆け込んできたのは、彼女たちを神域に招いてから、数日も経たない日のことだった。


「学校から帰って、室井健太を説得すると出かけてから、絵里奈が帰らないのです」


 市長は玄関先で靴も脱がずにそう訴えた。


「でも、まだ日暮れ前よ。帰って来ないといって、高校生なら、慌てる時間ではないと思うけれど……」

「それが……」


 玄関ドアの磨り硝子からうかがえる外の明るさへ目をやって返した小春に、市長は一枚の紙を差し出した。便箋らしきそれは、彼が握りしめていたせいでつぶれてしわしわになっている。紙を広げる小春の頭越しに、由希斗も覗き込んだ。



『絵里奈は預かった。明日十七時、隣町高校で待つ』



 内容を見て、小春は思わずため息をついた。いかにも陳腐ななりゆきだが、効果のほどは確かである。


 明日は土曜日で学校は休みだ。部活で登校する生徒がいても、隣町高校の土曜日の完全下校時刻は十六時なので、十七時ならほとんど人はいないだろう。


「絵里奈ちゃん……」


 小春は絵里奈が見せた室井への恋慕を思い返し、やるせない気持ちになった。彼女の思いが、小春にもわかる。小春だって、由希斗が室井と同じような状況にあったら、何かをせずにはいられないだろう。


 今にしても、立場が違うだけで、小春と絵里奈は似たようなものだ。小春は由希斗の思いに寄り添い、室井と彼を唆した何者かを敵とみなしている。絵里奈は、由希斗を敵とみなした室井を守ろうとした。


「軽率なことをしでかした娘ですが、どうか、助けていただけませんか」


 市長が彼の膝につきそうなほど深く腰を折って頭を下げる。小春は由希斗を振り仰いだ。


「絵里奈ちゃんが、室井くんにこんなふうに利用されると思わなかったことを責められないわ。だって、絵里奈ちゃんはこの街の子だもの」


 由希斗は小春を見下ろして、まなじりを緩める。


「小春は、街の子どもたちを信じているんだね」

「ユキの守る街よ。こんなふうになることを、疑う必要なんてないはずなのよ」


 由希斗は、街の人々が平和で幸福に暮らすことを望む神さまだ。この街の人々は、そうとは知らないうちに、彼の意思のもとにある。

 小春は唇を噛み、それをほどいてため息をついた。


「ユキのことが気に入らないなら、この街に戻ってこなくていいのに……」

「彼には、ほしいものがあるんだよ」


 小春をじっと見つめて、由希斗が言った。


「でも僕、小春は絶対に渡さない」

「……かけた術を破って、わたしのことを思い出さなければよかったのよ。そう思えば、室井くんも、あの龍の被害者なのよね」


 小春は少しだけ返答をずらす。由希斗の言葉に何を返せばいいのかわからなかったのだ。


「……小春、自分が彼のもとに行けばすべて解決するなんて、考えていないでしょう?」

「わたしは由希斗から離れては、生きていけないわ」


 由希斗の霊力で存在を保っているのだから、言うまでもないはずだ。それなのに、由希斗の小春を見下ろす視線は、小春の答えで明るく晴れた。


「ユキ、あなたわかっているでしょう」

「うん。でも、小春にそのつもりはないと言ってほしかったの」


 小春は笑いたいような、泣きたいような、どちらともつかない不思議な気持ちを抱いた。


 由希斗がどんな思いで小春の言葉を聞きたがったのか、想像して勝手に喜んでは、由希斗が抱くのは小春が思い描くような感情ではないと、冷静ぶって打ち消す自分がいる。


「どこにも行かないで、小春」


 由希斗は小春の主人で、ひとこと命じれば小春の動きを決められるのに、懇願のふりをするのが狡い。


「行かないわよ」


 あなたが望まないかぎり。


 小春は、言葉の後ろ半分を声にしないまま、胸のなかだけで呟いた。


 小春が口にしたのは、由希斗の望む答えだったはずなのに、由希斗は少し悲しげに見える顔をしていた。彼がそんなふうにするから、小春は、由希斗の望みが本当は何なのか、わからなくなってしまう。


 どこにも行かないでと言うなら、小春の答えを聞いて喜べばいい。なのに彼は、喜びとは正反対の感情を滲ませる。


 小春では、由希斗の望む舞姫にはなれない。彼の恋しいひとは、二度と現れない。


(わたしもユキも、そう思い知って悲しいばかりね……)


 そんなことを考えてしまう自分の心から目をそむけて、小春は目の前の事態に意識を戻した。


「絵里奈ちゃん、心細いでしょうね。室井くんが、絵里奈ちゃんを傷つけるとも思えないけれど……」

「室井健太を信用はできないよ」

「ユキ……」


 かつては、愛する街の子どもだった人間を、由希斗は冷淡に評する。彼だって心を痛めているだろうと、小春は憂いて彼を見遣った。


「街の平穏を乱す人間を、僕たちは信じるべきではないでしょう」


 普段の穏やかな由希斗にも腰の引けている市長は、冷ややかな彼を前に、立っているのもやっとの様子だった。


 神として、由希斗はすべての街の住人を等しく慈しむ。彼の恩寵は街じゅうに巡り、住人たちに幸福をもたらす。

 その彼が常になく手を下すことになったとき、人の目には『災厄』として観測され、そのほとんどが『祟り』と記録されるのだ。


 街の日常が平和で穏やかなものだからこそ、非日常の『祟り』は、街の住人たちの印象に残りやすい。


 でも、市長は少なからず由希斗の性格を知っているはずだ。それを、そんなに怯えるなんて、と小春がいくらか腹立たしく思ってしまうのは、身内びいきというのだろうか。


「絵里奈ちゃんはきっと無事よ。今、彼女を傷つける理由はないもの」


 小春は市長に向けて言った。

 ただし小春には、絵里奈の安全を保障することはできない。もしも室井が絵里奈を盾に由希斗を害そうとするなら、小春が選ぶのは由希斗だからだ。そんなことまで言って市長を脅す必要はないので黙っていたが、小春は、そう考えた自分に対して、かすかな笑みをうかべた。


 まだ普通に生きていたころ、小春は巫女で、神である由希斗と交流し、彼を村の人々と繋ぐのが役割だった。


 けれども今や、その役割を捨てたようなことを考えている。

 数百年を経て、それくらい、由希斗が小春のすべてになった。


「小春?」

「明日のことを、考えていたの」


 心配そうに呼ぶ由希斗に答える。


「不安なの、小春? 大丈夫だよ。僕はあの龍より強いよ」


 まるで力比べをする子どものような言いかたに、小春はつい笑みをこぼした。


「あなたが負けることを心配したわけではないわ」

「じゃあ、なあに? 彼のこと?」

「室井くんでもないわ」


 少し拗ねてみせる由希斗をいなして、市長へ顔を向ける。あまり由希斗に問いつめられると、良くない自嘲を白状させられそうだった。


「絵里奈ちゃんのことは、ファントムペインのこととあわせて、こちらで預かります」


 市長の視線に恨みが見えるのは、小春の思い過ごしだろうか。絵里奈が小春とかかわらなければ、そうでなくとも室井が小春に横恋慕しなければ、絵里奈はこんな事態に巻き込まれずに済んだ。


(ユキも、わたしがいなければ……)


 妙に後ろ向きになってしまう思考を、ため息で逃がす。


 因果関係は、巧妙な絡繰りのようだ。誰かが造って組み立てているかのようなのに、そこに手を加える力は、小春にも、神と呼ばれる由希斗にさえも無い。


 だから後悔を噛みしめて生きる。もしもあのとき、と考えてしまう。


 生きてきた年数分、積み重なった後悔が重くなって、いつか自分の存在の重さに耐えられなくなるときが来るのかもしれない。


 市長から目をそらし、ちらりと由希斗を見上げると、彼はそっと小春と手を繋いできた。驚いて、心臓が跳ねる。


 由希斗は無表情に近い静かなまなざしで小春を見下ろしていた。彼が何を考えているかまでは読み取れなくても、何の意図もなく触れてきたわけでないのはわかる。


「ユキ、どうしたの?」

「うん……」


 小春が尋ねると、由希斗は何かを言いたげにはするものの、どうにも言葉にできないらしかった。彼に見つめられて、切ない気持ちが伝わり、小春にも移って、胸が締め付けられるようだ。


「……小春が、暗い顔をしているから……」


 自分の言ったことが正解かどうか迷うような、声の小さな頼りない口調だった。小春はつい自分の頬を触る。


「そうかしら」

「うん。だから……何を、考えているのかな、って」

「……絵里奈ちゃんや明日のことが、自分で思っているよりも心配なのかしら」


 いかにもそれらしい言い訳だ。由希斗は小春の誤魔化しに気づいたかもしれず、繋いだ手に、もどかしげに力がこもる。


「僕が、ちゃんとやるよ。だから心配しないで」

「信じているわ」


 小春の口から出たそれは、空虚だった。


 誰より信じているはずの由希斗に誤魔化しを言い、彼のその場しのぎに「信じている」などと口にする。自分たちがどうしてこんなやり取りをしてしまうのかと、心の奥底に押し込めた想いをすべて吐き出して、何もかもを壊してしまいたくなった。



 わたしがいなければ、何もかもうまくいっていたんじゃないの?



 頭の奥で、自分の声がそうささやいた。


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