7-3

 彼に寄り添って、小春も屈みこむ。


 彼の傷に手を当てた。


 由希斗の胸のほぼ真ん中に、酷い刺し傷がある。人間とは異なる由希斗の体は、血を流す代わりに、彼の体を構成する霊力を失っていった。


「わたしを庇うなんて、なんで、そんなこと」


 小春の視界が涙で滲む。この程度で存在が消滅するほど由希斗は柔ではないが、痛みも、苦しみも、傷のぶんだけ受けなければならないのだ。


 霊力の制御は苦手と言うくせに、こんなときばかり、彼は小春に痛みが共有されるのを遮断していた。


「……だって……」


 痛みのせいか、由希斗の声は掠れている。

 小春が傷を覆うように手を当てても、実のところ、何の意味もない。傷の修復は霊力の制御で行われている。それを知っていても、傷に添え続ける小春の手に、由希斗が優しく彼の手を重ねた。


「死なないでよ、小春」


 掠れた声には笑みが混ざっていた。笑っている場合かと小春がその顔を見ると、由希斗は穏やかな微笑みをうかべて見返してきた。


 桃色の瞳は、痛みのせいか、少し潤んでいる。いつもよりいっそうきらめいて、綺麗だった。


「せっかく、君を手に入れたのに」

「え……」


 痛みは遮断されても、由希斗の体から大量の霊力が流れ出る感覚は、小春にも伝わってくる。

 由希斗がここまでの怪我をするのは初めてのはずだ。なのに、命が失われてゆくその感覚を、小春は昔から知っていた気がする。


「どういうこと?」

「君が、願うから……。生きたいと、願ってくれたから」


 由希斗は、痛みに顔を歪めながらも、優しげに小春を見つめた。


「わたしが、願った……?」

「そうだよ。だから僕は、喜んでその願いを叶えた。君の身を、僕の花嫁としてもらうことを、対価として」

「なぜ、わたしの願いを喜んだの。そのせいでユキは、わたしなんかを、神嫁にしなければならなくなったのに……」

「小春」


 一瞬だけ、由希斗は本気の怒りを滲ませた。彼から初めて向けられる激情に息を呑んだ小春に対し、彼は瞬きひとつでその瞳に浮かんだ怒りを和らげ、彼こそ、願うようにささやく。


「生きていてほしかったんだよ」


 由希斗の掠れた声が、遥か遠い昔の、小春の記憶を呼び起こす。


「僕の勝手な思いでも……君に、生きてほしかったんだよ……」




(死にたくない……)




 死の間際、幼い小春が抱いた願い。

 ずっと、忘れていた。小春自身さえ意識していなかった、火花のような思いだったから。


 体を貫かれたあと、痛みも苦しみも鈍くて遠く、ただ、自分の命が流れてゆく感覚だけがあった。白い雪を朱く染めるのが自分の命だと気づき、けれど、その視界も暗く閉ざされてゆく。


(寒い……、いいえ……。なにも、わからない)


 感覚さえ消えそうな暗闇に放り出されて、自分の存在がこの世から失われようとしていると、わかってしまった。


(わたし、死ぬの……? 嫌だ……怖い……死ぬのは怖い……! 死にたくない……!)


 そう。意識が途切れる直前、確かに思った。でもそれは、小春にとって願いとも呼べないほどのものだ。




「……こんなの、ただの……、生きものの本能みたいなもの、じゃない……」


 気づけば涙はあふれ、小春の喉を詰まらせていた。由希斗に触れていないほうの手の甲で涙を拭って、彼を睨む。


「狡いわ、ユキ。あんなものを、わたしの願いとみなすなんて」

「でも、どうしても、君があそこで死んでしまうのが、嫌だったんだ」


 話をするうちに傷がほとんど塞がり、いつもの穏やかさを取り戻して、由希斗の指先が小春の涙をすくう。


「小春……」


 その優しくて切ない声音が、もうひとつ、小春の記憶を呼び覚ます。

 そうだ。あのとき由希斗が呼んでいたのは、ほかの誰でもない、小春だった。彼の舞姫の名ではなく。


 ――小春!


 彼の必死な声を、小春は思い出した。


「どうして、わたしに生きてほしかったの?」

「だって、小春は、春祭りで舞姫をするのを、とっても楽しみにしていたでしょう。十四になったら舞台に立つんだって、何度も僕に言ってた。それだけじゃない。小春はまだ十三で、これから先、楽しいことや、嬉しいことが、たくさん待っていたはずなのに……」

「わたしが、将来を楽しみにしていたから……?」

「そう。でも……」


 由希斗は、目を伏せて唇を引き結んだ。彼の長い睫毛が茜色の陽光を遮って、彼の瞳を翳らせる。それでも、わずかな光だけでほのかに光るような桃色の瞳は濁りなく、奥まで透き通るように綺麗だった。


「君のためのつもりで、本当はただの、僕のわがままだったんだ。僕を見つけて笑ってくれた君に……いつも一緒にいてくれた君に、まだ、そばにいてほしくて」


 由希斗に見入ってしまった小春は、彼がはっと視線を上げたことで我に返った。


 由希斗の霊力が落ち着きを取り戻したことで、龍が体勢を立て直している。二度目の攻撃は、小春が霊力を固めた防護壁で弾いた。

 感じる龍の霊力が強くなる。こちらの力量を測って、攻撃の威力を高めようとしているらしい。

 由希斗が小春の手を取りながらともに立ち上がり、胸もとに抱き寄せて片腕で庇うようにした。


「待て!」


 互いに身構えていたところ、室井の制止で龍が止まった。契約があるからには、ある程度は従わざるをえないのだろう。

 室井は憎々しげに由希斗を睨んだ。


「やっぱりお前が菅原を縛り付けているんじゃないか。お前に菅原を幸せにできるはずがない! 偽物の幸福で誤魔化すしかないお前には!」


 室井が声を張り上げて叫ぶ。さっき、同じように言われて由希斗が心を澱ませたから、小春が不安になって彼に身を寄せると、気づいた彼はちらと小春を見下ろして微笑した。

 そして、清らかな霊力を宿し、美しくきらめく目で室井を見据える。


「何が幸福で、何が偽物か、決めるのは僕でも、まして君なんかでもない」


 由希斗が、室井から小春へと視線を移す。

 桃色の瞳が、まっすぐ、ひたむきに、小春を見つめた。


「小春が選ぶんだ」


 はっと息を呑んで、小春は由希斗を見つめ返した。選んで、と、その目が訴えている。


「偽物とか本物とか、正しいものが正しい世界を作るんじゃない。人が選ぶものが、この世界になっていくんだ。だから、僕にどれほどの力があったって、世界を思い通りにはできない」

「ユキ……」


 由希斗は、小春の意思を待つかのように口を閉じ、じっと見下ろしてくる。


「お前が望めば、そうなるんだろ、この街は。何が、人が選ぶだよ」

「君が思っているより、人の心は強いんだ」


 小春から目を逸らさないまま、ひとつ瞬きをし、ひらいた目を眩しそうに細めて、由希斗は微笑んだ。


「僕がいくら望んでも、どれほど願っても、どこかで思うようにならないことが起こる。今回のこととか――小春に、ただそばで笑っていてほしいって願いとか」

「……!」


 小春は目をみはり、由希斗を凝視する。彼は少し首を傾げて、眉を下げた。


「ごめんね。君を、笑わせてあげられなくて」


 小春が答えようとするのを、由希斗は緩く首を振って制した。その表情は、確かに悲しそうであって、なのに同じくらい、安らかに笑っていた。


「僕にはそれが悲しいけれど……でもね、それは僕にとってのさいわいなんだよ」

「ユキ……?」

「小春が僕を大切に思ってくれる気持ち。それは小春のもので、僕がそう思わせているんじゃないって思えるもの。そうでしょう、小春」


 小春は唇を震わせ、そのせいで、すぐには返事ができなかった。

 止まっていた涙がまた瞳を濡らし、視界を滲ませる。そんななか、由希斗の桃色の目はいっそうきらきらしていて、愛らしく、綺麗だった。


「……そうよ」


 涙で前がよく見えなかったが、小春は瞬きをせず、一心に由希斗を見返した。


「わたしも、ユキに笑っていてほしいの。ユキが笑っているとうれしくて、そんなあなたを隣で眺めていられることが、わたしにとっての本当の幸せだわ」


 答えを口にしながら、小春は自然と微笑みをうかべていた。由希斗の双眸がやわらかにほころぶ。


「ねえ、ユキ。あとで、もっとあなたと話をしたい」


 小春は姿勢を正し、由希斗の腕から抜け出して、一歩前に出る。肩越しに振り返って見上げた小春の神さまは、夕陽を受けて燃えるような輝きに包まれ、苛烈なほど美しい。でも、その心は、綿毛のように優しいのだと知っている。


 由希斗はゆっくりと目を閉じ、ふたたび開いて、少し切なく微笑んだ。


「うん……。ずっと、言えなかったことがあるよ」

「知っていたわ。でも、それが何かは知らない……知らないことに気づいたわ」


 小春は前に向き直り、視線の先に野良神を見据えた。逆光で黒く蠢く影のように見える龍体に向けて、由希斗の霊力を練り上げる。


 ただの音を、人が、心を通して言葉に変えてゆくように。

 ただの力である由希斗の霊力を、小春の意思でかたちにしてゆく。


「あなたも、もう一度、人々とともに生きたかったのかもしれないけれど」


 その言葉は野良神に語りかけるようでいて、小春自身は、聞こえていなくてもかまわないと思っていた。


 これは小春の決意だ。


 相手を敵と見定めて拒絶し、打ち砕く、強い意思。


「ユキの街を奪おうとするものを、わたしは許さない」


 宣言した小春を、由希斗は、覆い被さるように後ろから抱きしめた。


「僕の力、すべて小春に任せる」


 歌うように優美な声が、小春の耳元でささやく。


「……」


 本当は、頑張れば自分でもできるくせに、とか、そういうことを言い返してもよかった。

 けれど改めて思い知った由希斗の信頼が、小さく震えるほど小春を喜ばせた。ほころんだ唇からは、文句よりも感嘆のため息がこぼれ出る。


「……任せて」


 向かってくる龍に狙いを定める。小春が制御する由希斗の霊力は、黄金に輝く無数の矢をかたどった。

 破魔の力をもつとして弓術の手ほどきを受けたのは何百年も前なのに、あのころの身が引き締まるような心地を、憶えている気がする。


 弦を引くように矢に力を溜める。これ以上ないくらいに由希斗の霊力を凝縮し、限界を感じた瞬間、一気に解き放った。


 光の矢は、龍が対抗して起こした暴風をものともせず突き抜けて、降り注ぐようにその身に刺さる。うねって逃げに転じたところを、小春の制御のもとで矢が追尾し、一矢も外さず龍の身を穿ち、力を削いでいった。


 逃げることは不可能とさとった龍が、弱った身に残る力を振り絞るようにふたたび方向を変え、小春へと凶暴な爪や牙を向けて突進してくる。防壁を作ろうとした小春の背後で、空気を裂くような、鋭く清らな音が、ほんのかすかに鳴った。


 ふっと脱力した小春と立ち位置を入れ替えて、由希斗が前に出る。


 細身の太刀を抜いた由希斗は、高い金属音を響かせて龍の爪を受け止め、返し刀の一太刀で、龍の腕や胴を切り裂いた。そうして動きの止まった龍の喉元、そのいのちの核を、ためらいなく刺し貫く。


 どこに核を持つかは、そのものごとに違う。だが、由希斗の霊力に満ちたこの地では、それを暴くにも、由希斗に圧倒的な利があった。敵である龍の異質な力の流れを見てゆけば、いとも簡単にその位置がわかるのだ。


 由希斗が刀を引く。


 核を破壊された龍は悲鳴を上げることもできず、千々に砕けて塵となり、消えていった。


「……なんだか鈍っているような気がする。僕の腕かな」


 刀を下げた由希斗が、釈然としない顔で刃先を見下ろす。たった今、見事に敵を討ち取った者とは思えないほど、気の抜けたつぶやきだった。

 小春は彼ののんびりした性格に慣れているので、落差にものともせず答える。


「部活でもしたらどう? 剣道部」


 太刀は、由希斗が霊力で練り上げた彼の得物だ。細かな霊力の操作が苦手な由希斗でも、この太刀だけは、瞬時に顕現させることができる。


「僕のは剣術だから、違うものだよ」


 由希斗は手の中でくるりと柄を回し、刃を鞘に納めた。


「体を慣らしておくことはできるんじゃないかしら」


 そこまで言い交して、小春は深く息を吐いた。

 野良神だったモノは消滅した。あっけない終わりは、この由希斗の領域で彼に喧嘩を売ったものの、当然の末路だろう。


 屋上には、愕然とする室井と、怯える絵里奈が取り残されている。小春は絵里奈へ近づいた。


「大丈夫? 怖い目にあったわね」


 手を差し出せば、絵里奈は少し震えながら小春の手を握る。その直後、彼女はわっと泣き出してしまった。


「ごめん……なさい……!」

「謝ることはないわよ。絵里奈ちゃんは、巻き込まれた側だもの」


 絵里奈を軽く抱き、背中をさする。小柄な小春よりも絵里奈は大きいのに、身を縮めて震えるから、小春でも容易に抱きしめることができてしまう。

 小春は絵里奈を腕に収めたまま、顔を上げて、視線の先に室井をとらえた。そのまなざしは、絵里奈を抱く優しさと裏腹に、ひどく険しい。


「小春、どうする?」

「あなたの思うようにしていいのよ、ユキ」


 ともに室井を見てやり取りをした小春と由希斗に、室井は睨み返してくる。野良神を失っても逃げ出さずにいられるのは、虚勢だとしても、それなりに立派だと言えるかもしれない。


「菅原……、お前は、死にたいと思うほど、そいつが嫌なんじゃなかったのか?」


 由希斗が息をのむ。小春は絵里奈を放し、姿勢を正して、視線を室井から由希斗へと移した。由希斗も小春を見つめていて、小春は、穏やかな気持ちで彼へと微笑みかける。


 胸のなかがやけに静かで、それは数百年前、死を思ったときの心地に似ていた。


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