6-2

 小春が絵里奈たちを連れて戻ると、市長はソファから飛び上がった。


「え、お父さん!?」


 絵里奈が気の抜けた素っ頓狂な声を上げ、直後に何か深刻な事態なのでは、と考えたらしく、自分の口を押さえて目線をさ迷わせる。

 市長は、立ち上がったまま動いていいものか迷うように、その場で腕を上げ下げしていた。


「室井健太を名指しでわたしたちに告発したことが室井くんにばれたら、彼と懇意にしている娘――絵里奈ちゃんに何かされるかもしれない。そうね。今の室井くんはもう、悪事と縁遠い街の住人ではないもの」


 小春は市長の姑息さをそう暴いてから、少女たちに空いているソファに座るよう促した。座って、と小春が言ったとたん、市長が絵里奈の腕を引き、三人掛けのソファに隣り合って座る。絵里奈の横に杏が、祐実と佐々良は、それぞれローテーブルの短辺にあるひとり掛けの椅子に腰を下ろした。


「菫、紫苑、みんなにお茶を持ってきてあげて」

「はい、姫さま」


 菫と紫苑は、部屋の隅にいて、気配を抑えていた。そのせいで、小春に答えた声でようやく彼らを認識した絵里奈たちがびくりと震えて、そっくりな神使たちを怯えたように見送る。


 彼女たちにとって、神域の禁を破ったこと、小春が現れたこと、由希斗のことと緊張が重なり、もはや些細なことでも、何もかもが恐ろしく感じるようだった。


「そう怖がらないで。山に入ったからといって、いきなり罰があたるわけではないの」


 小春は市長の正面にある三人掛けのソファには小春がひとりで座り、少女たちに微笑みかける。絵里奈たちは一様に身を縮めた。少女たちには、いつもと同じ笑みを浮かべる小春が、この状況では異常に見えるようだ。緊張を解くどころかますます怯えさせてしまった。


「学校にいても、ここでも、わたしは何も変わらないのよ」

「ねえ、小春」


 少女たちを相手にする小春をよそに、由希斗は先ほどと同じように、小春の後ろに立って身を屈め、背もたれに両肘を乗せた。

 そんな姿勢で小春のほうを見下ろして話すから、由希斗の声が小春のつむじあたりをくすぐる。


「なあに」

「もう教室でも話しかけていい?」

「そういう話ではないのよ、ユキ」


 大真面目な声音で何を言うかと思えば、と、小春の気が抜ける。


「僕にとっては、かなり大事な話なんだけど」


 由希斗は顔を正面に戻したらしく、少し声が遠くなった。小春の正面で、絵里奈がぽかんとしているのが見える。市長は、由希斗と小春のやり取りも何度か見ているので、この程度では気を抜かず、相変わらず青い顔で緊張したままだった。


「その話はあとにしましょう」


 ちょうどよく、菫と紫苑がお茶とクッキーを盆に載せて戻ってくる。彼らは少女たちの前にそれぞれ丁寧に置いて回ったが、誰も手をつけようとはしなかった。


 黄泉竈食よもつへぐいでも思い浮かべているのだろうか。そのあたりのスーパーやコンビニで手に入るありふれたお菓子であることは、パッケージからわかるのだけれど。


 小春が目配せをすると、菫と紫苑は、ろうそくの火のようにふっと姿を消した。


「小春。あとで、ちゃんと話をしようね」

「わかったから。とにかく、今はこっち」


 由希斗をあしらいつつ、小春が改めて絵里奈に目をやると、絵里奈はひきつった半笑いをうかべた。


「……仲、いいんだね、剣崎くんと……」


 とりあえず、というふうに絵里奈が言う。


「そうね。彼は、巫女のわたしが仕えるご主人さま。つまり、彼がこの街の神さまなの」


 小春は、なるべく親しみやすく、怖がられないよう言い表したつもりだ。絵里奈をはじめ、少女たちの視線がちらりと由希斗へ向かう。そしてすぐに小春へと戻ってきた。


 直視するのが、どうにも畏れ多いらしい。

 クラスメイトなのに、と考えて、そういえば教室でも、由希斗を遠巻きにする子たちは、似たように距離を取っているのを思い出す。


 小春がちらりと由希斗を見上げると、彼は絵里奈たちの態度など物ともしておらず、小春の視線に気づいてにこりと笑った。どういう顔をすればいいかわからなかった小春は、曖昧に微笑み返してまた前を向く。


 絵里奈や杏、祐実は、これから何が起こるのかまったくわからないというふうに、困惑をあらわに小春と由希斗の様子を見ていた。佐々良も少し居心地が悪そうに、太ももの上に揃えた両手の指で制服のスカートを軽く引っかいている。


「絵里奈ちゃんに、室井くんについて、教えてもらいたいことがあるの」


 小春はそう率直に切り出した。絵里奈が不安そうな目で小春を見返す。


「健太くんが、どうかしたの?」

「彼がどうかしているのを、絵里奈ちゃんは、もうわかっているんじゃないかしら」


 小春が切り返すと、絵里奈は返事をしようと口を開いたものの、何も言わないまま力無くうなだれてしまった。心当たりがあるのだろう。彼女の父親である市長は、心配そうに娘を見、小春と由希斗をうかがって、うかつなことを言えないというふうに黙って絵里奈を見守っている。


「この街の、神さまの伝説は本当のことなの。ここにいる彼が、始まりの舞姫と出会って彼女を気に入り、この土地を見守ってくれるようになったから、街は豊かで、幸運にも恵まれているのよ」

「彼女……? 小春ちゃんが、始まりの舞姫じゃないの?」

「わたしは違う。そのひとのことは、あなたたちもよく知る神話と、ユキ……彼に聞いた話でしか知らないわ」


 絵里奈は、不思議そうな顔で由希斗と小春へ交互に視線を行き来させた。絵里奈が落ち着くのを待ちながら、彼女が不思議そうにするのを、小春こそ少し不思議に思った。


 始まりの舞姫は、由希斗にとって一番特別な存在だ。


 昔、小春が彼女について尋ねたとき、春の野で舞う姿に惹かれて出会い、仲を深めて、楽しい時間をともに過ごしたと、由希斗は幸せそうに語った。それを訊いたころの小春は、その舞姫がすでに由希斗のそばにいないことを、気遣えないくらいに子どもだった。


『ねえ、その舞姫さまは、どうして神さまと一緒にいないの?』


 思い返すだけで血の気が引きそうになる問いかけである。けれど由希斗かみさまは、ふんわり笑って幼い小春に額を近づけ、指先でくすぐるように小春の頬を撫でた。


『彼女は人間だったからね』


 その答えに納得できたのは、小春が『神嫁』になる前だったからだ。由希斗の力があれば、人間ひとりくらいそばに留め置くことができるとは、まだ知らなかった。


 わたしは彼女の代わり。


 由希斗がいる場所で言葉にはできないけれど、その思いを頭から消せないまま、小春は絵里奈を見返した。


「……じゃあ、小春ちゃんが健太くんの同級生だったのは、なに?」

「わたしは……」

「小春は人間だけど、僕のそばにいてくれているんだ。だから歳を取らない。学校に通うのは、街に何か問題が起こって、調べたいことがあるとき」


 由希斗が急に口を開いたので、絵里奈たちは面食らったようだった。絵里奈は由希斗を見て豆鉄砲を食らった鳩のような顔つきになり、由希斗に見られてはっと視線をそらす。


「街の人々のことは、彼らに交わらないとわからない。小春はそう言うんだよ」


 由希斗の声音は、いつも小春と話すときよりも硬質で、よそよそしかった。一方、小春を見下ろす眼差しはいつも通り柔らかい。


 由希斗は小春とそれ以外とを明確に区別し、雰囲気を変える。だから小春は、自分も特別な何かなのだと期待してしまう。


 特別、ではあるのだ。


 小春が望む想いとは、違うものだというだけで。


「小春ちゃんが歳を取らないことを、健太くんは、……その、剣崎くんに囚われているって、言ったのかな」


 おずおずと絵里奈が尋ねる。小春はちらりと由希斗を見上げた。彼は絵里奈ではなく小春を見ていて、その視線は、小春に答えてほしそうに見えた。


「わたしを生かしているのは確かにユキの力だけれど、『囚われている』と表すのは正しくないわ。それは室井くんがそう思いたいだけね」


 由希斗がほっとしたように眼差しを和らげる。


「ねえ、絵里奈ちゃん。室井くんは、わたしがユキに囚われているとか、神さまが幻想で、悪いものだとか、そういうことを言ったのね?」


 絵里奈の体に、ぎゅっと力が入るのがわかった。小春が視線をそらさずにいると、しばらくして、彼女は脱力とともにこくんとうなずく。


「……うん。みんな悪いものにだまされているって。幻想だから、この街を神さまの支配から救わないといけないって。神さまは、神なんかじゃない、って」

「幻想はどちらかしら。室井くんこそ、この街の神さまが悪いものだという『幻想』にとらわれているような気がするわ」


 小春が言うのに、絵里奈がか細く答えた。


「あたしには、どっちが正しいのか、わからなくて……」

「でも、神さまを信じたいと思ったから、わたしの質問に、正直に答えてくれたのでしょう。室井くんを信じていたら、嘘をついたと思うわ」

「……そうかも」


 絵里奈は力なく笑った。そうして、彼女は由希斗ではなく、小春を見て、問いかけた。


「神さまは、ちょっと怖いって思ってきたけど、悪いものって思いたくない。あたし、間違ってない?」

「正しいわ。少なくとも、わたしにとっては。この街の神さま……ユキは、悪いものなんかじゃない。幻想でもない。この街は――わたしたちやあなたたちは、確かに幸せだわ」


 小春にとって、それは、誰が何と言おうと揺るぎない真実だった。

 絵里奈は少しだけ迷う様子を見せてから、こくりとうなずく。


「健太くん、トウキョウから帰ってきて、少しおかしくて……」

「街を出たら、ユキの加護を失ってしまうの。この街の人は、誰かを憎まないし、悪い感情も強くは持たない。でも、外の世界はそうじゃない」


 小春と由希斗が室井健太と同級生だったのは、三年前のことである。高校三年間をともに過ごしたわけではなく、当時、高校生たちに流行していた『おまじない』のせいで招いてしまった悪しきものを追い払うため、三年生の学級に潜り込んだ。高校三年生が、受験の合格祈願でおまじないをする頻度が最も高かったのだ。


 そして無事悪しきものを退治したあと、卒業と同時に、生徒や教師、学校の関係者全員に対して、小春と由希斗の存在をなかったことにする術をかけた。


「……室井くんは、外の世界で、悪い人と出会ってしまったのね」

「悪い人?」

「この街を壊そうとする誰かよ」


 室井健太は、小春を忘れたはずだった。それを思い出したということは、外の世界で彼とかかわった誰かが、由希斗の術を打ち消したからに違いない。そして彼の小春への想いを利用して、この街を奪おうとしている。


 室井は被害者と言えるけれど、小春は、彼へ同情する気は起きなかった。


「そんな人と出会って……健太くんは、どうなるの?」

「この街の幸せを壊そうとするなら許さない。わたしはこの街が大事で、守りたいの」

「健太くんは小春ちゃんを助けたいって言ってた。ねえ、健太くんは、悪い人じゃないんだよ」


 絵里奈の口調は懇願を帯びていた。初恋の相手で、そうでなくとも幼なじみとして親しい室井を庇いたい絵里奈の気持ちは理解できても、小春は冷たく言った。


「わたしには室井くんより、ユキのほうが大事なの」


 絵里奈にとってどれだけ惨いことであろうと、小春には、自分の気持ちを変えられない。


 小春の頭の斜め後ろで、由希斗が小さく息をついたのを感じた。

 由希斗を傷つけるものは排除する。小春の意思決定において、最優先で考慮されるのは、いつだって由希斗のことだ。


 小春は絵里奈から、杏、祐実、佐々良へと順番に視線を移した。


「みんなも室井くんに、この街の神さまは悪いものだと、聞かされたのかしら」


 少女たちは三人で顔を見合わせてから、おずおずとうなずいた。


「駅前に寄り道していたら、その人が声をかけてきて……」

「それで、神さまを疑った?」

「違うよ! ……ただ、本当のことを、知りたくて……」


 杏はほんの一瞬だけ由希斗を見、すぐに目を伏せて、膝の上で緊張に固く握ったこぶしを見つめた。


 学校に龍が出た事件について、小春はあのとき学校にいた人々の記憶を操作し、何事もなかったことにしたはずだった。それには小春が山村や絵里奈と交わした会話も含まれる。

 それなのに絵里奈が神さまへの疑いを強めて禁を破り、山へやってきた時点で、あのあとに室井と会ったのだと予想できていた。


「あなたたちの知りたい『本当のこと』って、つまり、何なのかしら」


 絵里奈と祐実、杏が顔を見合わせる。佐々良が彼女たちの輪に入らないのは、絵里奈たちにとって、佐々良はまだ余所者という意識があるからだろう。


「この街の幸せが、幻想、って……。アタシたちが、そう思わされているだけ、っていうのは、本当なの?」


 祐実が、肩に力が入り、上目遣いになって問う。


「ユキが、何か術をかけて、人に幸せと思い込ませているわけではないわ」


 小春ははっきりと答えた。


「あなたたちが幸せと感じるなら、それは確かに、あなたたちの本当の感情よ」

「健太くんは、この街が恵まれているのは異常だって、言ってた、けど……」


 おずおずと絵里奈が口を挟む。小春は彼女に目を向け、答える前に、ちらと市長を見やった。


 豊かさを享受する住人たち。市長の役割はよその都市と少し違って、由希斗に対する人間側の代表であり、神と人とを繋ぐ窓口でもある。市長や市議会が何かをせずとも、この街は自然とうまく回るのだ。


「そうね。異常と言えばそうなのかもしれないわ。でも、ユキ……神さまは、ただ力を巡らせているだけなの。街の色んなことが、その力を借りてうまく回ってゆく。言ってしまえば、ものすごく運がいいだけなのよ」

「神さまが、わざと何かしてるわけじゃない、ってこと?」

「そう。ユキは何かを贔屓したり、邪険にしたりはしない。彼は見守っているだけよ」

「外の街には、そういう神さまは、いないの?」

「わたしは知らないわ。この街から出たことがないから。ユキ、どう?」


 小春が話を振ると、由希斗は少しだけ眉を寄せた。珍しいその表情に小春は何かが引っかかったが、絵里奈たちもいる場で話の腰を折るわけにもいかず、黙っていた。


「神、つまり、僕のような存在は、ほかにもいると思う。でも彼らがどこで、どんなふうにしているかは、僕には知り得ない」


 由希斗は柔らかな気配を潜め、神さまらしい、少し厳かな雰囲気を滲ませた。


「力があっても、それを欲のまま行使すれば、ことによっては代償を払わなければならない。何もかもを望みのままにできるわけじゃないんだよ」


 小春は息を潜めて由希斗を見上げた。彼は、美しい面差しをかすかに強ばらせ、少し苦しげに見えた。


 それは、始まりの舞姫のことなのだろうか。


「この街が幸運に恵まれているのは、確かに僕の力の影響だよ。だけどそれは僕が望んでいるからだけじゃなく、君たち人間が、そうしようと努力しているからというのも、間違いないことなんだ」


 由希斗は、小春を見つめていた。

 彼が本当は何について言っているのか、それでわかる。


『小春が、生きたいと願ったんだよ』


 ついこのあいだ聞いた由希斗の切ない声が、耳の奥でまた聞こえる。

 小春はその声をそっと胸の奥まで仕舞い込み、絵里奈たちに向き直った。


「ここは、幸せな街。それはユキと、あなたたち街の住人、どちらもの願いで成り立っているの。幻想でも、悪いものでもないわ」


 小春は腹に力を込めながら言い切って、ゆっくりと息を吐き出した。


「この街やユキを悪いものだと室井くんが言うのは、彼がそう考えるからよ。誰かに何かを言われたのだとしても、彼がみずから、神さまを悪しきものだと定めたの」


 室井を惑わせた何者かのことは、もちろん、許し難く思っている。けれど同じくらい、惑わされた室井にも、小春は腹を立てていた。

 由希斗を悪いものだと思いたい気持ちが室井になかったなら、きっと、街を出ても、故郷の神さまを否定するような考えにはならなかったはずだ。


 小春は少女たちひとりひとりの顔を順に見、最後に絵里奈を見据える。


「この街をどう思うかは、あなた次第。あなたの感じている幸せや苦しみ、それを幻想と呼ぶか、本物とするかも、あなた次第なの。だけど……」


 緊張に固まる絵里奈へ、小春は優しく微笑みかけた。


「前に言ったことがあるわよね。苦しかった気持ちも、あとから振り返って感じたことも、どちらも大事なものだって」

「うん……」

「自分に向き合えば、幻想じゃないって、わかるはずだわ。あなたの気持ちだもの」


 前に絵里奈へ同じことを言ったときは、彼女には理解できないものと思った。それが今なら、通じる気がする。

 絵里奈は真剣な顔で小春を見返し、しばらくしてから、ぽつりと言った。


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