第六章 神と人

6-1

 訊きたいことがある、と呼び出した市長は、その態度から、自分がなぜ呼び出されたか、よくわかっている様子だった。小春と市長が応接室のソファセットで向かい合い、由希斗は小春の座るソファの後ろで、小春のそばの背もたれに両肘をついて寄りかかっている。


 主従で言えば逆なのだが、由希斗の姿勢は、小春を守る賢い番犬のような威圧感を市長に与えていた。小春といるときに由希斗がいつも浮かべている柔和な笑みも、今はない。


「最近、若者のあいだで、ではなく、室井健太が持ち帰ってきた主張で、と、言うべきだったわよね?」


 小春が軽く睨んでみせると、市長は痩せ気味の体をますます縮こまらせ、ひたすら恐縮する。


 つまるところ、最初に情報を持ってきた市長が微妙な嘘をついていたのだ。


 ファントムペインは、街の若者たちのあいだに広まるものではなかった。室井健太が、そう名乗る誰かの影響を受けて、彼の家族や身近にいる絵里奈によからぬことを吹き込んでいたのである。


「わたしたちが自分で室井健太にたどり着いたら、あなたが情報を漏らしたことにはならない。でも、室井くんよりも、わたしたちを怒らせたらどうなるかは、考えなかったの?」


 憤る小春に、市長はちらりと視線を上げ、小春の背後にいる由希斗を見ていっそう顔を青くした。小春からは由希斗の顔は見えないものの、どんな顔をしているか、何となくの想像はつく。


 美人の真顔はとても怖い。由希斗の桃色の瞳は、普段は可愛らしいと言えるけれど、表情から温かみが消えると、人ならざるものらしい異質さが目立つ。


 とはいえ、市長は震え上がらんばかりだが、実のところ、由希斗がそこまで気分を害してはいないのを、小春は霊力の穏やかさから感じ取っていた。彼は、敵を室井健太と『ファントムペイン』に定めていて、市長はあまり眼中にないのだ。


 由希斗を本当に怒らせたら、この街は消えてなくなるわよ、と思いつつ、小春は大きなため息をついた。


「どうしてそんな嘘をついたかは、想像に難くないけれど……」


 それにしても情報は正確でなければ困る、と続けようとして、小春は、神域の結界に何者かが触れたのを感じた。


 敵意はない。


「……」


 遠見の術を使ってみれば、姿を隠しもしていない侵入者があっさり見える。

 禁を破って山に踏み込んできた者の正体を知り、小春は思わず市長へと目をやった。


「な、何か……」


 小春の視線を受けてびくつく市長に、またため息がこぼれる。


「神さまに、お願いごとのある子が来たみたいなの」

「どうする、小春。森で迷って、出て行ってもらおうか?」


 由希斗は市長にやや冷めた一瞥をやり、小春には穏やかで落ち着いた目を向ける。

 小春と同じものが、由希斗にも見えたはずだ。その彼が困った様子もなく訊いてくるのに、小春は彼を見返して三秒考え、首を横に振った。


「ここに呼んでみましょう。有益なことを聞けるかもしれないわ。そこの、市長さんよりも」

「ヒッ」


 小春はただ由希斗へ市長を目線で示してみせただけなのに、小春のたった一瞬の視線で、市長は竦み上がって情けない声を上げた。それを、由希斗が冷淡に見下ろす。

 市長は昔から、小春をやたら恐れている。それは、神である由希斗への畏れとはまた違う。


 もとから人と異なる存在である由希斗と違い、もとが人間であったぶん、人間から外れた小春が不気味で恐ろしいのだ。

 市長だけでなく、神職や街の長老たちにも、小春をそうした目で見る者はいる。小春はあまり気にしていないが、由希斗はいつも、彼らに冷たい視線を向けていた。


「ユキ、怖がらせないの」

「そういうつもりはないよ」


 小春に返す由希斗の声も、名残を引きずって少し冷たい。由希斗自身も気づいて、ふっと軽く息を吐いていた。


「……ごめん、小春」

「大丈夫よ。それじゃあわたし、ちょっと迎えに行って来るわ」

「うん。行ってらっしゃい」


 由希斗がひらりと手を振る。部屋を出ようとした小春は、由希斗とふたりきりで部屋に残されようとしている市長が、あまりに顔色を悪くしているのに目を留めて、菫と紫苑を呼んだ。


「ユキと、お客さまのお世話をお願いできる?」


 どこからともなく現れた菫と紫苑に、市長がまたびくついているのを無視し、ふたりに用事を言いつける。


「はい、お任せくださいませ、姫さま」

「お気をつけて、いってらっしゃいませ」


 菫と紫苑は、びくびくする市長とふたりきりにされる由希斗のために呼び出したものだった。市長がどれだけ怯えようと小春の知ったことではない。


 今年の春に初めて市長になった人間は、悪い人ではないのだが、由希斗や小春など、人智を越えた存在への畏怖が強すぎる。本人が言うには、長く機械を扱っていて、物理法則に従う仕組みばかり相手にしていたから、法則を超越するものがどうしても理解し難く苦手なのだそうだ。


 どのみち、やはり小春の知ったことではない。


 小春は、来客用のソファの隅で小さくなっている市長に目をやり、言った。


「あなたより、あなたの娘のほうが、度胸があるみたいよ」


 小春の言わんとしたことに、すぐには気づかなかった市長ははじめぽかんとしたが、その指すところに気づいたとたん、まぶたが皺と化すほど目を剥いた。慌てて立ち上がろうとする市長を、菫と紫苑が腕を引いて座らせる。


「大人しくそこで待っていなさい。悪いようにはしないけれど、あなたの嘘がこの事態を招いたということは、肝に銘じておくことね」






 由希斗が山を神域としていることに、特に意味はない。

 山裾の野原で始まりの舞姫と出会ったとき、由希斗は決まった居場所を持たない神だった。――否、神ですらない、この世界が気まぐれに生み出した霊力のかたまり、それがたまさか意思を持っただけの何かであった。


 舞姫を見初めて結ばれてから、彼女の故郷である山裾の村一帯を守るようになり、そのために居心地の良かったのが、人里から少し離れた山中だったようだ。


 山を禁域としていることにも、同じように、特段の理由はないのである。実際、小春がまだ普通の人間だったころには、小春の一族は山中に住まいを構え、由希斗と身近に暮らしていた。


 だが一族が滅んでのち、神と人間とのあいだを繋ぐ神職が小春ひとりになったことは、由希斗が山を禁域とし、人間との接触を減らした大きな理由である。


 村の人々は、小春を生き残ったたったひとりの巫女として尊びつつ、自分たちとは決定的に異なる存在とみなしていた。それは小春が歳を取らなくなっていたために、時が経つほど根深くなり、やがて小春もろとも山の神と考えられるようになっていった。


 由希斗が気にかけたのは、それでも小春が、人々が身近に接することのできる相手だったことである。


 小春に向けられる、小春を恐れる目も、小春を通して神の恵みを期待する顔つきも、由希斗は嫌がった。そして、小春と彼が暮らす山を神域として閉ざし、人々から距離を取ったのだ。


 だから、むやみに山に入ったり、願い事をしたりすると、神罰が下るというのは完全な作り話で、由希斗はそうそう滅多な事は起こさない。


 だがそれを公にして、自分たちが暮らす場所をうるさく荒らされても困る。

 街の人々の畏れは、由希斗や小春が生身で存在する限り、必要なものだった。


「いけないと言ったのに。悪い子たちだこと」


 禁じられ、慣れない山道を怯えつつ登ってきていた少女たちは、突如として目の前に現れた小春に、みな息をのんで目を見開いた。


「この先は、許されたものにしか道が開かないの。だからわたしが、神さまの代わりに、あなたたちを迎えに来たわ」

「迎えに……?」


 震える声で尋ねられ、「そうよ」とおっとりうなずいてみせる。


 小春は穏やかな微笑みを少女たちへ向けた。移動に使った結界術を解き、地面に降りて一歩近づくと、絵里奈と、それに彼女に頼まれて付いてきていた杏と祐実が、驚愕に固まった表情のまま小さく悲鳴を上げた。そのなかでひとりだけ、佐々良は興味深そうに小春を見ている。


「小春ちゃんが神さまというわけではなかったのね」


 暢気な佐々良に、絵里奈たちは彼女にも怯えたような目を向けた。


「そうね。わたしは……。神さまにお仕えしている巫女よ」


 神嫁を自称することは、なんとなくできなかった。

 巫女と告げたことで、小春が得体の知れない何かから、自分たちも理解できる存在とわかって、絵里奈たちは緊張を緩めた。それでも困惑し、迷子のように心細い顔で小春を凝視している。


「……あたしたち、どうなっちゃうの?」

「話を聞きたいの。絵里奈ちゃん、あなたに」

「あたし、何もわからないよ」


 何が起こるのかと怖がって首を振る絵里奈へ、小春は教室で見せるのと変わらない、おっとりした笑みを返した。


「大丈夫。そう難しいことはないわ」


 行きましょう、と小春は少女たちに自分についてくるよう言いつけて、山奥へとつま先を向ける。それからふと、肩越しに振り返った。



「ようこそ、禁じられた山へ。神さまが待っているわ」

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