5-3

 あとに残された絵里奈が、小春の正面に回る。


「ねえ、この街の神さまって、何?」

「えっ?」

「お願いは気軽にしちゃいけなくて、山に立ち入ったら恐ろしいことが起こって、昔は生贄を捧げて、それって、本当にいい神さまなの?」


 絵里奈は、縋るような顔を小春に向けていた。信じるものが揺らいで、不安になっているのがわかった。

 小春はひと呼吸置いて自分の気持ちを落ち着け、ゆったりと絵里奈に向かい合う。


「急に、何があったの?」

「健太くんが、この街の神さまは本当は邪悪で、街の人に幻想を見せて幸せだと思い込ませてるって言うんだ」

「まさか、そんなことないわよ。絵里奈ちゃんだって、今の幸せが、嘘だなんて思わないでしょう?」

「でも小春ちゃんは、その神さまの被害者なんだよね?」

「えっ?」


 何を言われたのか、全く理解できなかった。


 被害者。


 その単語を頭の中で反芻し、意味に気づいて、ぐっと胸が悪くなる。


「違うわ、被害者だなんて」

「健太くんが、小春ちゃんは何年も見た目が変わってないって。昔は健太くんの同級生だったって。小春ちゃんがずっと高校生なのは、神さまのせいなんでしょ?」

「『せい』とは言わないわ」

「でも、健太くんが」

「当人のわたしが違うと言っているのに、室井くんの言うことが、何だというの」


 自分の声が、意図したより何倍も冷たく響いたことに驚いて、小春ははっと息をのんだ。絵里奈は呆然としている。


「あっ、絵里奈ちゃん、ごめんなさい。わたし……」


 自分について言われたのだったら、平気だった。けれど由希斗のことになると、落ち着いて対応しようと思っていても、小春はすぐに冷静さをなくしてしまう。


「剣崎くんが、神さまなの?」

「え?」


 絵里奈の口調は、ガラスのように無機質だった。中途半端に唇だけ笑みにつり上げ、目じりは不安で頼りなく下がり、絵里奈からは、敵意ではなく戸惑いを感じる。


 小春はそれを、絵里奈の人の好さだと思った。


 脅威の少ないこの街で、怖いのはほとんど神さまだけだ。街の人々は、他人に対する警戒心を育てる必要がない。


「健太くんが、剣崎くんも同級生だったって言ってた。健太くんは小春ちゃんが好きだったけど、小春ちゃんに近づこうとしたら、剣崎くんが邪魔をしたって」

「邪魔……というほどのことは、何もしなかったと、思うけれど……」


 当時、由希斗は家では室井について不満そうにしていたものの、学校ではかかわってこなかった。例によって、その態度から小春を気にしているのはクラスメイトにばれていたけれど、彼自身が室井と諍いを起こしたことも、小春の知る限りはない。


 室井を妨害していたのは、由希斗の影響を受ける霊力のはたらきだ。それはいわゆる『巡り合わせ』と同等のものである。


「小春ちゃんと剣崎くんが、健太くんのクラスメイトだったって、どういうこと?」

「それは……、事情があって」

「見た目が変わらないのは? あたしには、健太くんがおかしいのか、小春ちゃんがおかしいのか、わかんないよ」


 絵里奈が泣きそうに顔を歪める。


「小春ちゃんと剣崎くんって、いったい何者なの? 小春ちゃんは、剣崎くんが好きなんでしょ? そう言ってフられたって、健太くんが言ってたよ。でも小春ちゃんは剣崎くんのこと知らないふりして、付き合ってないの?」

「……」


 混乱している様子の絵里奈に、小春もどうしたらいいか迷って立ち尽くす。

 記憶を消してみたとしても、室井が絵里奈に何かを言えば元の木阿弥になることは見えている。かといって、本当のこと――小春にも、由希斗と自分の関係がどういうものか、うまく言えない。


「絵里奈ちゃん……」


 どうすべきか決められないまま、ただ絵里奈に歩み寄ろうとしたとき、不意に、背すじがぞくりとした。絵里奈が、小春の肩越しに何かを見て、目を見開いて固まっている。


 この街に似つかわしくない、禍々しい妖力。


 振り返った小春の目に、窓の向こうでうねる巨大な龍のような胴体が映った。


「絵里奈ちゃん!」


 窓越しにそれと目が合って、小春は、恐怖で固まった絵里奈の腕を取り、ともかく走った。


 ソレは明らかに小春たちを見ていた。目的はわからないが、獰猛そうな目は濁り、とても友好的とは思えない。


「何あれ、何あれっ!? 蛇!?」

「というより、龍かしら」


 じっくり観察できないものの、ちらりと見えるのは太い牙や鋭い爪、ぎらつく大きく分厚そうな鱗。蛇よりは厄介なモノだろう。


 龍は、校舎沿いの窓を隔てて小春たちに併走してくる。突き破って突進してこないだけマシかもしれないけれど、追ってくるだけというのもまた不気味だ。


「龍!? 龍って何!?」

「蛇よりは珍しいわよね」


 絵里奈の叫びは、問いかけというより半狂乱の泣き言である。小春はあえて軽く返した。


 絵里奈は、走っていることに加え、恐怖で早々に息が上がっていた。小春が引っ張っていなければ、へたりこみそうなほど震えている。


 一方で、明らかにこちらを狙っているのに、襲い掛かってはこず、ただ追いかけてくる龍の狙いは何だろうか。


(ユキは……本館!)


 霊力を辿って由希斗の居場所を知る。だがそれがわかっても、本館にいる彼のもとへ行くには、龍の目前を横切って渡り廊下を渡らなければならない。


 と、そこで小春は、由希斗がかなりの速度で移動していることに気がついた。それも、小春たちのもとではなく、小春が進むのとは反対側、裏門のほうへと向かっている。


 いつも小春を、自分のことより心配する由希斗のことだ。きっと、小春を追う龍に直接対峙するより重要なことが、そこにあるのだろう。

 でも由希斗が、小春を優先して彼の身を蔑ろにしないかが気がかりだった。


 由希斗のもとへ駆け付けたい気持ちを抑え、絵里奈を引っ張って走り続ける。渡り廊下の曲がり角へさしかかって、それを渡るか、階段を降りて階下へ向かうか逡巡した小春がちらりと窓の外へ目をやると、龍は胴体をひねって由希斗が向かったと思しき方角へ頭を向けていた。


 その様子に、小春は絵里奈の体を強く引き寄せ、背を押して渡り廊下の角を曲がらせた。


「えっ、何!?」

「教室に、みんなのところへ行って!」


 龍はずっと小春を見ていた。その視線を感じていた小春は、絵里奈は巻き込まれただけだと判断した。


 渡り廊下を渡るなら、龍の気が逸れている今しかない。

 簡易の結界を張り、絵里奈に本館へ渡るよう示す。だが、状況をよく飲み込めていない絵里奈は、渡り廊下の窓から外を見、そして「健太くん!」と叫んだ。そのまま窓を開けて身を乗り出そうとするので、小春は慌てて彼女の腰に手を回す。


「ちょっ、何をしているの!?」

「あの大きな蛇、健太くんのほうへ行ってる!」

「えっ?」


 体の小さな小春は、絵里奈の体に手をかけつつ、精一杯背のびして絵里奈の背から顔を出した。小春に狙いをつけていたはずの龍が、身をくねらせて反転し、去ってゆく。その行く手に、確かに室井がいた。


 室井は、並列する本館と別館の間の中庭を抜けた先、渡り廊下からなら正面に見ることができる裏門のすぐそばに立っている。裏門と校舎の間には花壇などがあり、校舎にいる小春と室井には少し距離があるものの、それでも小春は、彼と目が合ったような気がした。


 龍が向かってきているのが室井にも見えているはずだが、彼が動揺する様子はない。


 彼は、じっと小春を見上げてくる。


「健太くん、危ない……!」


 絵里奈が悲鳴を上げる。


 小春は、由希斗と繋がる霊力の巡りへと意識を集中させた。操ろうとしているのは、普段から由希斗が小春に委ねている、彼の膨大な力だ。

 彼女には室井しか見えていないようだったが、小春は、室井に駆け寄る由希斗の姿を見つけていた。普段のおっとりした雰囲気に似合わず、由希斗はかなりの俊足である。


 正確には、龍は由希斗へと襲い掛かろうとしているのだ。


 そこまで確かめて、小春は絵里奈の背をぐっと引っ張った。室井にばかり気を取られていた絵里奈は、いとも簡単に引かれて尻もちをつく。


 次の瞬間、雲ひとつない青空を引き裂いて雷が落ちた。


「えっ、な、な、何!? 何なのぉ!?」


 床に座り込む羽目になっていた絵里奈には窓の外が見えておらず、凄まじい音だけを聞いて泣き出してしまった。


 雷の光で目が眩んでいた小春は、視界を取り戻してすぐに由希斗を見つけた。龍と室井は消えている。


 強烈な光と轟音をともなった霊力の放出は焦げ跡も残さず、風が吹けば何事もなかったかのように木々が揺れ、砂埃が舞う。

 その程度に抑えたのは、小春の咄嗟の制御だ。由希斗だけであれば、少なくとも、裏門付近が大きくえぐれていたに違いない。


 ひとまず何の被害も出なかったことにほっとしながら、小春が遠くの由希斗を見下ろしていると、由希斗も小春を見上げ、首を横に振ってみせた。


『逃げられたよ』


 さほど深刻そうでもない由希斗の声が、霊力を伝って聞こえてくる。


 危害を加えるでもなく小春を追ったあの龍が何者かはわからないけれど、由希斗が狙いを定めた攻撃から、逃げる程度の力はあるようだ。

 それでも、由希斗も全力を出したわけではない。


 相手の正体はわからないままでも、向こうもまた、こちらの力を知らないのだ。油断はできないが、由希斗の力を知る小春にとっては、焦りもまだ必要のない事態だった。

 小春は小さく息をついて、それからへたり込む絵里奈の前に膝をついた。


「大丈夫?」

「何がぁ……? って、健太くんは!?」


 飛び上がるようにして立ち上がった絵里奈が窓にはりつく。小春も視線をやったが、もう由希斗もいなくなっていた。


「何なの……何だったの……? 小春ちゃんも、剣崎くんも、健太くんも、あの蛇も……」

「教室に戻りましょう」


 半ば放心している絵里奈の手を引いて、小春は渡り廊下を渡り、自分たちの教室に向かった。


「わけわかんないよ……」


 絵里奈が手の甲で涙を拭う。小春はそれを痛ましく思いながらも、怯えることはないのだと、ことさら優しく声をかけた。


「大丈夫よ。神さまが守ってくれるわ」

「神さま……」

「そう。だから……」


 何にも心配はないわ。

 そう続けようとした小春を、絵里奈の低い声が遮った。


「……そうだ……神さまに、確かめたらいいんだ」

「確かめる?」

「……健太くんの言ったことが、本当かどうか……」


 室井健太が絵里奈に何を言ったか、小春には何となく推測できた。

 まったくのでたらめよ、と言いたいのをこらえ、まだ涙の残る目をぼんやり床に向けたまま歩く絵里奈に、警告を込めて言う。


「神さまにお願いごとなどをするには、代償がいるのよ」

「……代償が、あればいい、ってこと?」


 小春は、無意識に、絵里奈と繋いだ手に力を込めていた。手の中の柔い手のひらの感触にはっとして力を緩めたが、自分の思いにとらわれた絵里奈は気づいてもいないようだった。


「いけないことと、わかっているでしょう」


 子どもに言い聞かせるように答える。

 ぼうっとしている絵里奈に聞こえたかどうかわからなかったが、小春はそれを気にしなかった。


 龍のことも、雷のことも、ここで交わした会話も、どうせ全部、すぐに忘れてしまうのだから。






 教室に戻ると、まだほとんどの生徒たちが学校に残っていたらしく、龍や雷のことで興奮した声が騒がしく飛び交っていた。小春は絵里奈を彼女の席まで連れてゆき、それから、由希斗の席へ向かう。


 小春が近づくと、由希斗の席に集まっていた生徒たちが好奇の目で場を空けた。途中、期待するような視線を寄越す山村と目が合う。

 絵里奈のことで山村の記憶を消し損なっていたが、この騒動で、それも大した問題ではなくなった。


「ユキ」


 小春が呼ぶと、由希斗はこんなときだというのに、嬉しそうに笑って応えた。


「うん」


 由希斗が伸ばした手を小春が取れば、教室にどよめきが起こった。それを無視して、小春は静かに言う。



『今日は、何事もない、普通の日だったわ』



 小春の声はさほど大きくなかったのにもかかわらず、よく響いた。


 教室と、それから学校中が、奇妙な静けさに包まれる。生徒たちは一様に茫洋とした目で、どこともつかぬ中空を見つめていた。


 由希斗は微笑んだまま、黙って小春を見上げている。



『忘れるの。龍のことも、雷のことも。わたしと、由希斗のかかわりも』



 小春が由希斗の手を離す。由希斗は少しだけ寂しそうな顔をした。

 彼に微笑み返して、小春は自分の席に戻る。


 そしてふたたび、教室に日常のざわめきが広がった。


「あっ、小春ちゃん……あれ? 何の話をしてたっけ?」


 小春の机に頬杖をついていた杏が、ぱちぱちと目を瞬いて首を傾げる。小春はのんびり答えた。


「駅前のクレープ屋さんの、期間限定メニューよ」

「あっ、そう、そうだった! 終わっちゃう前に行かなくちゃ。絵里奈ー!」


 杏は振り返って、自分の席にいた絵里奈を大声で呼ぶ。彼女は、しょうがないなあ、というふうに笑いながら、通学鞄を持ってやって来た。


「もう、そんなふうに呼ばなくても、聞こえるってば」

「用事終わった? もう帰れる?」

「用事……? えっと、何だったっけ」


 杏に言われて、絵里奈は少し困ったように眉を寄せた。杏もきょとんとしている。


「あれ、何か用事あるって言ってなかったっけ」

「そうだったかな……ううん、思い出せないや。たぶん大丈夫と思う」

「ホントに? 先生の呼び出しとかじゃないの?」

「思い出せないくらいだから、大したことじゃないんだよ、きっと」


 不思議そうな杏に、絵里奈はさっぱりとそう返した。そこに不自然さはない。


「ふうん? じゃ、トリプルアイス乗せクレープ食べに行こ!」


 楽しそうに立ち上がった杏は、絵里奈の手を引き、小春を振り返った。


「ね、小春ちゃんも」

「ごめんなさい。わたし、今日は用事があるの」

「えーっ、残念」

「あした、おいしかったか教えてね」


 祐実や佐々良にも声をかけている杏の隣で、絵里奈が「了解」と笑う。

 小春の視界の端で、集まった生徒にのんびり「さようなら」と告げ、由希斗が教室を出てゆく。


 いつも通りの、平和でのどかな景色が、そこに広がっていた。

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