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 小春の知る限り、由希斗は生贄を求めるような性格ではない。


 始まりの舞姫との物語は、解釈によっては生贄の物語と取れる内容で、事実、街の長老たちにはそのように思われているようだ。しかしながら、小春は、あれは実際の出来事そのままに近いのだろうと思っている。


 由希斗の性格が、小春と出会う前にひっくり返ってでもない限り、彼は純粋に、舞姫の舞を見て喜び、心惹かれたことだろう。そうしてきっと、無邪気に姿を現し、好意を示したのだ。


 それが、いったいいつごろの話なのか、小春は知らない。


 そもそも、小春と由希斗の仲も、そうとうに旧いものなのである。

 小春は、由希斗を祀る神社の、宮司の家系に生まれた。ただの人間であったころ、今の隣町市よりずっと小さな村ひとつから出ずに育った小春には、それがどのあたりの時代なのかはっきりしないけれど、少なくとも、将軍が長い安泰の世を築くよりももっと前のことだ。


 由希斗には、物心ついてすぐに出会った。

 というより、両親に聞かされたところでは、生まれたころから見守られていたらしい。小春が『出会った』と認識している出来事も、単に憶えているなかでもっとも古い記憶にすぎない。


 春の花びらが舞い散るころだったか、もしくは冬の軽い雪の日だったろう。あるいは、陽光が若葉を照らす初夏なのかもしれない。由希斗の背景に、何かきらきらしたものが舞っていた。そこはたぶん当時の社殿の隣の、生家の庭先だった。小春に背を向け、遠くの何かを眺めていた由希斗は、小春が彼を見ていることに気づいて振り返り、親しげに微笑みかけてくれた。


『小さな姫君は、何をしているの?』


 嬉しそうに近寄ってきた由希斗に、自分が何と答えたかは憶えていない。由希斗は小春の答えを聞いて、いっそう笑みを深めていた。


 小春は、一族に久方ぶりに生まれた女児だった。


 清らかな乙女が舞手をつとめる春祭りだが、小春が生まれるまで、一族の中には担える乙女がおらず、村の娘から舞姫役を選んでいた。由希斗がそれに不満を示したという話は聞いたことがないものの、神職の一族としては、やはり神事は身内できちんと教育を施したものに、という思いがあったのかもしれない。幼いころから、小春は両親や一族の長老たちから手厚く面倒を見てもらい、何より由希斗と親しかったから、当たり前に彼に仕える人生を思い描いていた。


 由希斗に喜んでもらえるように、舞の稽古には特に励んだ。

 舞姫は神の花嫁でもあるので、小春が表舞台に立てるのは裳着を迎えてからと決められていて、その日を何より楽しみにしていた。


 もっとも、披露する相手である由希斗は、小春の稽古によく顔を出した。それだけでなく、一族の小さな女児がよほど可愛かったのか、暇があれば、つまりほとんど一日中、小春のそばで過ごしたものだから、たとえその日を無事迎えられていたとしても、小春の舞は見慣れたものだったろう。


 誰が見ても、小春と由希斗はとりわけ仲が良かった。

 けれどそれは、由希斗が小春を妻として求めていたということではない。


『小春、小春』


 由希斗は、子どものような笑顔をうかべて、小さな小春をよく手招いた。


 その季節に一番最初に咲いた花、鳥の渡り、面白い雲のかたち。


 小春の神さまはささやかで幸せなものを見つけるのが得意で、そうして見つけたものはなんでも、真っ先に小春に教えてくれた。


『君の生きるここは、とってもすてきな場所なんだよ』


 小春が思い出せる限り、由希斗が小春を見守るまなざしはいつも混じりけのない慈愛に満ちていた。あるいは、彼の無邪気さと、幼子であった小春の素直さが、心地よく釣り合っていた。


 あのころの自分たちを、小春は間違いなく幸せだったと言える。


 事が起きたのは、小春の裳着を翌春に控えた、一年の終わりごろ。

 小春は、年を越えたら数えで十四になるはずだった。


 実のところ、小春はその日のことをあまり憶えてはおらず、今でも、実感としては薄いままでいる。衝撃の大きさと、自身も深手を負ったことで、記憶が途切れているからだろうと思う。

 小春が知るのは、ほとんどは由希斗に聞かされた顛末である。


 出来事としては単純で、ほかの土地で信仰を失った野良神が、自我を失い、小春たちの村を襲ったという、それだけだ。


 その日、由希斗はよその土地神のもとを訪れて村を留守にしていて、たまたま、野良神が加護の薄れた村のそばを通ってしまった。襲撃に抵抗しようとした小春の一族の者たちは次々に斃れ、小春の両親も殺された。

 小春も致命傷を負い、由希斗の戻りがあとわずかでも遅れていたら、今生きてはいなかっただろう。


 異変を察知して戻った彼は、あやうく怒りのまま一帯を巻き込んで野良神を滅ぼしかけ、すんでのところで小春の息があることに気づいたのだという。


『君がまだ生きているってわかって、ほかのことはぜんぶどうでもよくなった。君の命を留めることに集中していなければ、今ごろこのあたりは更地だったよ』


 そのときのことを、由希斗は深い後悔と苦しみを隠せない、切ない顔で語った。


 以来、彼がこの地を離れたことはない。


 もともと、由希斗は土地に縛られる神ではなく、それこそ始まりの舞姫と出会った場所だから、そこに留まって、舞姫のいた村を見守っていただけだった。本当は、人間の信仰にも縛られない。


 自然界の巡りから霊力を得、自由で、何かを司る神というより、世界が生んだ精霊というのが近い。


 そんな彼を、始まりの舞姫との関係が『神』にした。


 その出会いを由希斗がどう思っていて、舞姫とどのような間柄だったのか、小春が尋ねたことはない。由希斗にとってきっと幸せではない何かがあって、舞姫は彼のもとからいなくなったのだと思えば、とても訊けない。


 神話では、舞姫と神さまがその後離ればなれになったというようなことは語られていなかった。もとから、舞姫を神が見初め、それからこの地を見守るようになった、と、たったそれだけの物語なのだ。


 でもそれだけならば、きっとふたりは幸せに暮らしたのだろう、と思っていいはずだ。


 小春のことを「あの子に似ている」と懐かしげに目を細めた由希斗が、舞姫を拒んだとも思えない。


 小春では代わりになれないと思い知り、それでも面影を偲んで手放せないのだとしたら、小春がそばにいることはどれほど残酷で、かつ、かろうじての喜びであるだろうか。


 小春が生きていても、死んでも、由希斗は心を痛めてくれる。


 小春にとっては、それがかけがえのない幸せであるように思われた。

 由希斗の痛みと引き換えの、身勝手な幸せだ。だからこそ、自分の存在に少しずつ耐えられなくなっていった。





 ふと目が覚める。

 暗闇の中、瞬きをしても焦点の合わないほど目の前に、由希斗の美しい寝顔があった。


「……っ」


 驚いて跳ねた心臓を、呼吸とともに抑えて宥める。反射で鋭く吸った息も、ゆっくりと大きく吐いた。


 ゆうべは、意識の戻った由希斗の顔色が悪かったから、結局、小春は一晩中彼に付き添ったのだった。そのときは枕元にいたはずなのだが、いつの間にか小春も寝てしまったらしい。由希斗が途中で目を覚まして、小春を横に寝かせたのだろうか。


 障子窓の向こうはまだ暗い。けれど、由希斗の部屋の中はそもそも完全な神域だから、現世での時刻がわからない。


(由希斗とふたり揃って学校を無断欠席していたら、騒ぎになるかしら)


 頭の片隅ではそんなことを思いながらも、由希斗の調子が戻るまでは、ずっとそばにいるつもりだった。


 今、由希斗の表情は穏やかで、呼吸も落ち着いている。そっと頬に触れると、いつもの彼のぬくもりを感じた。


 よく熟れた甘そうな桃色の瞳が閉ざされていると、由希斗は、いつもよりも精悍に見える。


『小春が生きたいと願ったんだよ』


 切ない声で訴えた、由希斗の言葉が脳裏をよぎる。

 いくら思い返しても、小春が持つあの日の記憶に、そんな願いは存在しない。


 思い出すのは、一族の者たちの屍、彼らから流れ出た血の鮮やかな暗さ、父と母の死。

 自分が死ぬことを悟ったときの、不思議に安らいだ気分。


 そして、由希斗の泣き顔。


 由希斗が泣くのを見たのは、それが初めてだった。桃色の瞳が潤んで、きらきらしていた。


「……わたしが願ったから、叶えてくれたの?」


 ほとんど声のない、吐息に近い音でささやく。

 由希斗はよく眠っていて、目覚める気配はなかった。だからこそ小春は訊けたのだ。


 しばらく由希斗の寝顔を眺めているうちに、小春にも眠気がやってきた。姿勢を整えて寝てしまおうと身じろぐと、その動きに反応したのか、由希斗が、眠ったまま、小春の体を抱き寄せた。


 眠たげに速度を落としつつあった小春の心臓が、一気に目を覚ます。


 幼いころから仲が良くても、一緒に寝たことは数えるほどしかない。それもお昼寝の添い寝程度で、こんなふうに布団の中で抱き締められたことなんて一度もなかった。


 小春は、何度か口をひらいては閉じてを繰り返したがどうしようもなく、唇を閉じて抗議と動揺を飲み込んだ。


 叩き起こせば由希斗も目を覚ますだろうが、この状態で彼を起こして、気まずくなったらいたたまれない。意識のないほうがまだマシだった。


 小柄な小春は由希斗の胸もとにすっぽりと収まり、それがちょうどいいのか、由希斗はとても安らかにすやすや眠っている。彼の呼吸が自分の前髪の生えぎわあたりをくすぐり、そのへんをやや熱いように感じながら、小春も目を閉じ、眠ってしまおうとした。


 湧いて出たばかりの清い水のような、さらりと軽く涼しげな匂いがする。それは由希斗の体温に温められて、まろい甘さをかすかに含む。由希斗の霊力だ。

 彼の胸に頬を寄せても、心臓の鼓動は聞こえない。代わりに、彼の霊力がゆったりと体を巡る波のようなリズムが、より強く感じられた。


 人ではない体だが、体温も、匂いもある。少し不思議で、でも、そういうものだと言われたら、納得するのに抵抗はない。


 結局は由希斗も小春も、街の住人たちも、この世界が生み出して生かしている存在のひとつにすぎない。


 ただ決定的に、その命に与えられた長さだけが違う。


 小春は、抱き締められているせいで今は見えない由希斗の表情に思いを馳せた。

 小春の反応をうかがって、いつもどこか遠慮がちな桃色の瞳。それでも他人のふりがうまくできない、寂しがりやのユキ。


 小春とは数百年も一緒にいるわけだけれど、その前は、彼のそばに誰かいただろうか。

 舞姫を失ったあと、彼はひとりぼっちになってしまったのか。


「あなたがそばにいてほしいと願うなら、わたしは叶えてあげたいと思うの。でも……」


 起こしてしまわないくらいに小さく声を抑えて、そっと言う。


「ユキ。あなたはわたしを生かしたこと、ずっと後悔しているんでしょう?」


 答えは知っているのに、彼の口から聞くのが怖くて、彼が起きているときには決して口に出せないこと。


 それではいけないのだと思い知った。

 次に彼が目を覚ましたら、尋ねる勇気を持てるだろうか。


「どうしたら、あなたは苦しまずに済むのかしら。……わたしは、どうしたらいいの……?」


 たぶん、由希斗が思っているよりも、小春は由希斗を愛している。


 この想いを伝えたら、彼を安心させるより、なおのこと苦しませてしまうような気がしていた。


 由希斗は神さまらしい傲慢さを確かに持っているけれど、それよりも優しさがまさって、彼の返せない愛情を一方的に受け入れることは、きっとできない。


 小春は小さく息をついて、ぱたりと目を閉じた。


 由希斗の腕の中で眠る。


 小春が『神嫁』となった日も、彼の腕の中にいた。だからなのか、自分が今、母親の胎の中にいるかのようにも感じた。


 世界で一番安心できる場所。だが、由希斗のためを思うならば、きっと、いずれは出ていかなければならない。そのもの寂しさがつきまとう。

 生きたいと、あのときは願わなかった。本当に、死にあらがわなかったのだ。


(今、は……)


 その先を考えるのはやめて、小春は目を閉じたまま、もう少しだけ、由希斗の体へ身を寄せた。

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