4-3

 由希斗の部屋を出ると、襖のすぐ横で、菫と紫苑が膝を抱えて座っていた。彼らは小春に気づくなりさっと立ち上がって、心配そうに見上げてくる。


「あるじさまは、落ち着かれましたか」

「ええ。そのうち目を覚ますわ」


 小春が安心させるために微笑みかけても、菫と紫苑の表情は晴れない。そのまま首をかしげてみせると、菫と紫苑は互いに目を見交わし、またそっくりの不安げな顔を並べて小春を見る。


「姫さまは、その……」

「わたし?」


 菫は口ごもり、代わりに紫苑がおずおずと言った。


「あの、室井健太に、殺してほしいとおっしゃったのは……」


 ああ、と小春は内心で嘆息した。


 菫と紫苑は、由希斗の耳目や思考を共有することができる。小春が室井と会っていたとき、由希斗は不穏なものを感じたか、菫と紫苑を待機させていたらしい。


 神嫁である小春も由希斗の眷属だが、菫や紫苑とはもとが違うからか、何の術も使わず彼と共有できるのは、霊力を辿ってわかる互いの居場所くらいだ。由希斗が、小春が室井と会っていることを知ったのは、小春が大学のキャンパスにいることを怪訝に思って、遠見の術で様子を見たからなのだろう。


「あまり心配しないで大丈夫よ。あれは、室井くんの出方を見ようと思って」

「ほんとうに、そうなのですか?」


 菫は、疑いよりも、不安の濃い口調でおそるおそる尋ねる。小春の言うとおりであってほしいけれど、そうは思えないという顔だ。その横で、紫苑がためらいを感じさせつつも打ち明けた。


「あるじさまは……あれは、姫さまの本当のお気持ちなのだろうと、思っていらっしゃいます」

「姫さま、どうしてですか……」


 菫は声を震わせ、紫苑とともに泣きかけている。


 小春は、彼らを安心させてやれるだけの答えを思いつかなかった。衝動ではあったが、本当の気持ちでもあったからだ。


「……わたしにも、ユキの気持ちがもっとわかればよかったのに」


 菫と紫苑の頭を順番に撫でてやりながら呟く。子どもらしい細くさらさらした髪は、無性に罪悪感を刺激する。


「それは、ぼくたちがあるじさまのただの眷属にすぎないからです」

「ぼくたちは、あるじさまの分け身のひとつ。だからなんとなく感情を共有します」

「でも、姫さまは違います。あるじさまは、姫さまのことをきちんと別の存在として、おそばにいてほしいと思っているのです」

「別の存在だから、姫さまとあるじさまは、感情を共有しません」


 菫と紫苑が代わる代わる言う。彼らの言うことは、きっと由希斗の本心なのだろう。そう思うことはできるのに、小春の心は晴れない。


 そばにいてほしい。


 由希斗にそう願われても、そうすることで苦しむ由希斗を目の当たりにし続けるのは、小春には荷が重すぎる。


 それに、どうしたって小春は、由希斗が求める始まりの舞姫にはなれない。


「……お夕飯の準備をしましょう。ユキも目を覚ましたら、お腹を空かせているでしょうから」


 どうにもできないことを横に除けて、気を取り直すように菫と紫苑に声をかけた。


「姫さま、どうか、あるじさまを見捨てないでください」

「ユキを見捨てたりなんかしないわ」

「でも……」


 小春の答えを聞いても、なお、菫と紫苑は顔を歪める。

 死を選ぶことは、由希斗を見捨てることになるのだろうか。


 ――いつかは。


 いつごろからそう思い始めたかは忘れてしまったが、もう長くそう考えながら、小春は今日まで生きてきた。由希斗も気づいていただろうに、何も言わない。


 それは、彼も心のどこかではそうしてほしいと思っているからなのか。それとも……。


「ユキが悲しむことは、したくないもの」

「……姫さまが悲しいお顔をするのも、あるじさまは望みません……」


 小春の顔を見て、紫苑がうなだれてしまった。菫が彼にぴったりと寄り添い、紫苑と気持ちを分け合っている。


「姫さまは……」

「死んでしまいたいって、思っているわけじゃないの。そうじゃないのよ。でもわたしがいると、ユキも悲しい顔をするでしょう。だからわたし、どうしたらいいのかわからなくて」


 由希斗の感情を共有する菫と紫苑には、誤魔化しても意味がない。小春の言うことは事実ではあるので、ふたりは黙ってしまった。

 小春はひとつ息をついて、唇を緩めた。


「……だからね、今度、ユキに訊いてみるわ。じゃないと、何をしてあげられるのかも、わからないもの」


「!」


 菫と紫苑がぱっと顔を上げる。ふたりに微笑みかけ、そして気持ちを切り替えて、小春は彼らの背を押した。


「たまごのお雑炊がいいかしらね。それとも、予定通り、ハンバーグを食べたがるかしら」

「姫さまが作ってくださるなら、あるじさまはどちらでも喜ばれます」


 小春に背を押されながら、菫がちらりと横目に小春を見上げる。あからさまな視線に小さく笑みをこぼしつつ、小春は「両方用意しておきましょうか」と返してふたりを和ませようとした。


 このあと、キッチンで卵不足が発覚し、小春が何かを言う前からおつかいに飛び出そうとした菫と紫苑を捕まえ、雑炊の代わりに牛乳とチーズを使ってリゾットを作ったりなどしていたら、深刻な空気はすっかり消え去ってしまった。


 菫と紫苑は、たとえ実年齢が百をゆうに越えていても、見た目は就学前の子どもなのである。夏至が近くずいぶん明るいといえど、日没近い時間に、ふたりだけで外には行かせられない。まして、卵を売っているスーパーマーケットは、この家から山を歩いて下り、さらに電車でひと駅は先にしかないのだ。


 山の神域に家をかまえ、静かな暮らしは小春も気に入っているものの、たまに、人里離れた立地の不便さを感じさせられる。それでも冷蔵庫があるだけで随分マシ、と考える小春は、学校では絶対にこんなことは言えない、と思う。


 家庭に冷蔵庫がなかった時代は百年以上も前の話で、今の子どもたちは、冷蔵庫がないことを、そもそも想定しないに違いない。


 小春は自分の年齢を数えていないけれど、こういうとき、生きた時間の長さに思いを馳せる。ともに居るのが由希斗でなければ、もう十分、と思っただろう。

 由希斗がいるから、小春は生きていられる。彼が望んでくれるからこそ、小春には生きている意味がある。


 それは、命の存在そのものにも、小春の心にも、双方に言えることだった。



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