第五章 襲来

5-1

 小春と由希斗が現世に戻ったとき、そこでは丸二日が経過していた。

 一日ならまだしも、二日も由希斗と揃って学校を休んだとなると、クラスメイトの好奇の視線がいとも簡単に思い描けてしまう。


 だが、あれこれ言い訳を考えながら登校した小春と違い、由希斗は、教室では泰然とした空気を崩さず、何を訊かれても小春とは関係がないというふうに、のらりくらりとかわしていた。

 そんな彼のおかげで、小春に向けられる疑惑も、昼休みになるころにはすっかり薄れた。


 学校での由希斗は、周囲の生徒たちより大人びていて、賢そうで、落ち着きもあり、家とは別人のようだ、と、小春は思う。


「剣崎くん、ホントのホントは何があったのぉ?」


 由希斗の机のあるあたりから聞こえてきた甲高い声に、小春の机に集まっていた絵里奈たちは、揃ってそちらに顔を向けた。


「山村さん、しつこいなあ」


 祐実が苦虫を噛み潰したかのような、ひしゃげた声で言った。ほかの子たちもおおむね祐実と同じような顔をしているが、当の由希斗だけは、澄ました様子で首を横に振っていた。


 そしてすぐに山村から視線を外し、弁当箱を開けてゆるく微笑む。周囲に集まった生徒たちがいくらうるさくしても、由希斗本人の空気だけ、柔らかく花が咲いたかのようだ。


「あれでイライラしない剣崎くんって、そうとうすごい」

「相手にしてないのよ。全く眼中にないみたいね」


 驚嘆する杏に、佐々良が肩を竦める。


「……剣崎くんって、あたしたちとは、別の世界の人、って感じ」


 絵里奈がぽつりと呟いた。小春がはっとして彼女に目をやると、わかっていたかのように、絵里奈は小春を見ていた。けれど彼女は、小春と目が合ったかと思えば、気まずげに顔ごとそらしてしまう。


 由希斗との関係のほかに、絵里奈のことも、小春は気がかりだった。

 室井から何か聞かされてはいないのだろうか。

 絵里奈の反応からして、全く何も知らないわけではなさそうだが、何をどこまで知り、それをどの程度信じているのかまでは、わからない。


「でも、わたしたちと同じ教室にいるわ」


 小春はつい、そうこぼした。


 由希斗のお弁当には、彼の好きな鮎をほぐし身にして入れてある。きのう夕食の買い物をしたとき、スーパーで二尾と三尾のパックひとつずつしかなく、小春と由希斗、菫、紫苑の四人で余りが出たのだ。


 お弁当箱を開けた由希斗が笑った理由を知っているのは、きっと小春だけだろう。だが、ほかの子たちからどんなふうに見えたとしても、由希斗の心のありようは、他愛ないことで一喜一憂する皆とさして変わらない。


「同じ、教室……」

「絵里奈ちゃん?」


 小春の言葉を、暗い声で絵里奈が繰り返し、それを拾った祐実が首を傾げる。


「あ……ううん、ごめん、何でもない」


 そう言って笑う絵里奈が空元気なのは見て取れた。絵里奈は明るく笑って突っ込まれるのを避けていて、少女たちは誰も何も訊けないでいる。

 小春には心当たりがあったから、笑う絵里奈をじっと見返した。視線に気づいた絵里奈が一瞬笑みを消し、少しだけ畏れのようなものを覗かせた。


「……あ、小春ちゃん、そういえば先生が呼んでたよ。放課後、職員室に来てって」


 絵里奈がややぎこちない笑顔で言う。それに、小春は何食わぬ顔で「わかったわ、ありがとう」と返した。


 そこからは、うわべにはいつも通りの空気が戻ってきた。


「ねえさっきの小テストどうだった?」

「抜き打ちはズルいって……。小春ちゃん、休み明けで大変だったでしょ」

「小春ちゃんは問題ないでしょ……」

「佐々良ちゃんもね」

「確かに」


 杏と祐実と絵里奈が、当の小春と佐々良を抜きにうなずきあう。そして、互いのテストの点数でわあわあ言い始めた。


 高校生の少女たちらしい賑やかさ。それは、少女たちが『いつも通りでいたい』と望み、取り繕った日常だった。

 たとえうわべだけであっても、そう在りたいと願い、そのために振る舞うことこそが、最後には本物を作るのだと、小春は知っている。


 願いがあって、叶えようとする振る舞いが、その者の日々をかたちにしてゆく。取り繕ったものだと言っても、それが今この場の真実であることもまた、間違いではないのだ。


「先生、大学受験がどうとかって言うけど、気が早いって。まだ一年だよ?」


 祐実のぼやきとほとんど同じ台詞を、小春はこれまで何度も聞いてきた。つい笑って、その後、三年生になった子どもたちの嘆きを思い出しながら返す。


「早めに準備しておいたほうが、楽よ。今さぼったら、きっと二年後に後悔するわ」

「小春ちゃん、先生みたいなこと言うなあ」


 絵里奈の声は、少しだけ芝居がかっていた。小春がさりげなく彼女を見遣ると、視線に気づいた絵里奈は気まずそうで、それでもなんとか笑っていた。


「さっき、廊下で先輩たちがそう嘆いていたの」


 小春は、絵里奈の気まずさに気づかないふりをした。


「先輩たちはもうすぐ模試なんだっけ」

「そういえば健太くん……に言われたなあ。高校の三年間なんてすぐだぞって」


 絵里奈が遠慮がちに声を落としたことで、よけいに室井の影を感じる。小春は気にしないようにしながらも、ふと、由希斗を振り返った。なぜか同じタイミングで由希斗が視線を上げていて、彼は小春と目が合い、ふわりと笑う。


 いつもならかかわりを避けてすぐ目をそらすのに、小春はつい、その笑みに見とれた。


 放課後、絵里奈と向き合うのが、少しだけ心許なかったのかもしれない。もしかしたら絵里奈を傷つけてしまうかもしれず、その覚悟を決めるための何かを求めていたのだろう。


(わたしはあなたの街を守りたい。絵里奈ちゃんを、犠牲にすることになっても)


 由希斗が不思議そうに目を瞬かせ、それからそっと視線を外す。おかげで小春も我に返った。


「小春ちゃん!? ねえ剣崎くんがどうかしたの?」


 祐実の声は、ついに小春が由希斗を気にかけた! という台詞が裏に透けて見えるようだった。


「いいえ。少しぼうっとしてしまったの。最近、暑くなってきたからかしら」


 小春が慌てずにいつも通り否定すると、祐実は思い切りつまらそうに「えー!?」と不満をあらわにする。小春の由希斗に対する態度については、もう似たようなやり取りが何度もあったので、みな慣れてきていた。

 杏が、毎度律儀に撃沈する祐実を見て可笑しそうにしながら、制服のセーラー襟を引っ張った。


「そうそう、暑いよねー。梅雨になって大雨が降ると、ちょっと涼しくなる日もあるんだけどなー」


 杏は、すでに半袖ワンピースの夏服のみを着ていた。小春は夏服に指定の白いカーディガンを羽織っている。神域にいた二日のあいだに気温が急に上がり、長袖の冬服では、もう不自然になってしまっていた。


 学校指定の制服店で個別に採寸する制服本体とは違い、決まったサイズしかないカーディガンは、一番小さいサイズでも小春の体には余る。だぶつくカーディガンがいっそう小春を華奢に見せた。


「毎年、だんだん気温上がってない?」


 早くも辟易したふうに祐実が言い、小春は少し笑ってしまう。


「毎年、誰かがそう言うけれど、この街はそうでもないのよ」


 よその土地では地球温暖化がどうの、と言われているようだが、隣町市に限っては、データを見れば数十年さして変化がない。


「えー、嘘だぁ」

「本当よ」


 祐実や杏は、さらりと言う小春に疑惑と不満の目を向けた。小春はそれをゆったり微笑んで受け止める。


 彼女たちが年々暑くなっていると感じるのは、きっとメディアの影響なのだろう。外の世界では間違いのない事実であって、メディアの言うことは正しいのだけれど、この街の住人のそれは思いこみでしかない。


 由希斗にはそろそろ、外の世界との差異を埋めるよう進言すべきころあいだろうか。彼が意識すれば、気温も変わるはずだ。


「小春ちゃんが正しいわ。この街って、ほかのところよりずいぶん涼しいわよ」


 佐々良が言えば、少女たちは納得いかない名残を尖らせた唇に表しながらも黙り込んだ。外から来た佐々良の体感を、外を知らない杏や祐実は否定できない。


「ホント、恵まれた街だわ。ねえ?」


 化け猫だという佐々良はやけにしみじみと言い、同意を求めるように小春を見下ろした。


「……そうね」


 由希斗が無害と見なしているから不安はないものの、佐々良にとって、小春がどんな存在に見えているのかは気にかかる。思わせぶりな視線は、彼女なりの同族意識にも思えた。


 そんなやり取りをする佐々良と小春を、絵里奈がじっと見ている。


「……絵里奈ちゃん?」


 小春が声をかけると、絵里奈はびくりと体を揺らし、それを慌てて取り繕うように声をひっくり返した。


「あっ、何だっけ? えっと、暑いよね」

「絵里奈、暑さにやられてる?」


 杏が絵里奈の額に手を当て、「熱はないね」と言うのを、絵里奈は半笑いで受け止める。その視線が一瞬だけ、反応をうかがうように小春に向けられた。小春が微笑むと、さっと逸らされる。


 小春は絵里奈の不自然な態度など素知らぬふりで、いつも通りのゆったりした空気を崩さずにいた。


 何度も高校生に紛れて、何度かは違和感を抱かれたから、絵里奈のような視線や態度にも慣れている。だが、自分に向けられるそれらには慣れても、少女たちの平穏を壊してしまうかもしれない心苦しさには、いつまでも慣れない。


 苦い気持ちは、心の中で押し殺した。



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