45,輝くミルクティー色
終わった、泣かれる。
そう覚悟したのだが。
「あらら、元気だね!」
「ワン!」
「うん、こんにちは! お腹が空いたの?」
「クウン……」
「へへっ……お鼻がいいんだねぇ。これあげる!」
なんという光景だ。普通の令嬢なら躾のなっていない犬に飛びかかられた時点で号泣だぞ。
しかしその少女は笑顔で犬を抱き上げ、あろうことか飾りとして誂えられているポケットからクッキーを取り出して与えたのだ。
あの裏に下げられる運命にあるはずのクッキーが、なぜここに。
「迷子になったの?」
「キャンッ!」
「昨日から? それはお腹空いてたよね、いいよ、全部あげる!」
自らの手を皿にして、細かく砕いたクッキーを犬の前に差し出す。
俺は自分の目の前で起こっていることが信じられなかった。
ドレスを来た貴族の令嬢が、野良犬に餌を与えるなんて。
「あれ?」
「っ!」
バレた。クッキーを食べ終えた犬を抱き上げた少女が、顔を上げのだ。
暖かなミルクティー色の髪が太陽の光を受け、甘く輝いている。
自分の知っている貴族達には無い、自然に近しい暖かさに思わず手を伸ばしてみたくなったのを今でも覚えている。
「君も迷子?」
「い、や……俺は……その犬を追ってここまできたんだ」
「あ! もしかして君が飼ってる子? あれ……でも昨日から迷子になったって言っていたけどなあ」
「犬の言っている事がわかるのか?」
「なんとーなく、ね」
腹が満たされた犬が少女の膝の上で船を漕ぎ始めた。
泥で汚れているにも関わらず、少女は犬を優しく撫でて夢の世界へ誘う。
「その犬、どうするんだ?」
「うーん……うちは貧乏だから飼えないし……。
そうだ、近所で飼いたがってる優しいおじいさんがいるの。子犬がいたら譲って欲しいって言ってたからそこに連れて行く!」
「貧乏?」
「あ」
言ってはいけないことだった、と少女の顔にデカデカと書かれている。
バツの悪そうな顔をして、少女は犬を隠すように体を丸めた。
「う、うそ! 私が飼う!」
「ふうん……」
「その顔! 絶対信じてないでしょ!」
同年代の、それも異性の子供とこんな気軽に喋ったのは初めてだった。
いつも公爵家というフィルターを通さないと、誰も話してくれない。家族以外で、ただのアドウェルとして話したのはこれが初めてだった。
「ちゃんとアテはあるんだろう?」
「あ、あるよ」
「じゃあいい。生き物を飼うのは大変なことなんだ。命は最後まで面倒見ないといけないからな」
こんなに汚れているのにまるで宝のように子犬に触れる少女だ、託しても問題ないだろう。
一緒になって地面に座り込んでみたが、こうやって人目をはばからずに行儀悪くいるのもいつぶりだったか。
「ふふっ……」
「なんだ?」
「あなたの髪とこの子の毛並み、おそろいね」
まさか自分が犬と同列に見られる日が来るとは。執事が聞いたら卒倒するだろう。
しかし目の前の彼女に他意はなく、純粋な感想なのだ。
しかしこんな破天荒な令嬢がいようものなら噂になるだろうに。こんな少女、貴族界隈にいただろうか?
「君は何処の子なんだ?」
「あ、私は……」
俺の疑問に、少女は初めて戸惑った様子だった。
先ほどまであんな笑顔を見せていたのに、こんな疑問でその笑顔を曇らせてしまったことになんとなく申し訳ない気持ちになった。
「私は、アイリス。
ごめんなさい、お兄ちゃんから家名を言わないようにキツく言われているの」
「どうして?」
「その……あまり身分の高くない家だから、ここでは言っちゃダメなんだって」
これは後から聞いた話だが、あまりにも可愛らしいアイリスに変な虫が付かないようにそれらしい理由をつけて防衛させていたらしい。あいつのやりそうなことだ。
「あなたは?」
「俺?」
「うん、凄く綺麗なお洋服を着ているけど、この屋敷の子?」
当時とても驚いたのを覚えている。アイリスくらいの年齢の子どもは、将来のためにと公爵家から歳の近い子供たちの顔を覚えさせられる。
見つかった時点で自分の正体がバレていたと思っていたが、どうもそうではないらしい。
この少女はよほど低い階級だったのだろうか。 そこまで推測して安心した。
やはり目の前の彼女は、自分の物差しで自分と話しているのだ。
「俺は、アドウェル。俺もそんなに階級は高くないから、家名は名乗らないでおこう」
「アドウェル! じゃあ仲間だね!」
「ワン!」
「あ、起きちゃった」
こんな姦しい場に連れてこられたアイリスも、よほど緊張していたのだろう。
俺が仲間だと思い込み高揚に満ちた声は、子犬を起こすのに充分な大きさだった。
「ワンワン‼」
「遊びたいの?」
「ワン‼」
「おいかけっこしたいんだって!」
「ならリクエストに応えてやらないとな……え、何をしているんだ?」
「おいかけっこするなら、こんな靴は邪魔でしょ?」
その上ドレスを捲り上げた。それは流石に止めた方がよかようと思ったが、走り出した少女は子犬と一緒に噴水の向こうへ行ってしまった。
「はーやーくー!」
「ワンッ!」
本当にこの少女は、どこの令嬢なのだろう。
自分の中にあった令嬢像をいともたやすく乗り越え、日傘も差さずに青空の下で快活に笑う。
あれから何年経っても、俺の瞼の裏にはあのミルクティー色が焼き付いて離れることはなかった。
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