44,黒い子犬
大きく目を瞬かせたアイリスが、何の疑いも無く自分の目を見上げている。
口元にまだ残っているアプリコットジャムを拭ってやると、慌てて自分のナプキンで口元を拭いた。どことなく小動物を連想させ、庇護欲が掻き立てられる。
木漏れ日から漏れた日の光が優しくミルクティー色の髪を照らし、まるで平和の象徴のようなこの時間をより一層際立たせてくれる。
そう、あの日もそうだった。
「俺達が初めて出会ったのは、まだ幼い頃だった」
君は憶えていないだろう。
しかし、俺の中にはしっかりと刻まれているんだ。
あれはまだ十にも満たない子供だった。
バーミンガム家は公爵という爵位を承っているということもあり、パーティーやらお茶会なんかの誘いが絶えないような立ち位置だった。
動き盛りの子供がそんなパーティーに興味を示すことはまずない。
そんなつまらない煌びやかな世界にいるくらいなら、馬に跨がって野を駆けた方が楽しいに決まっている。
「(なんで大人はこんな生産性のないことばかりしているんだろう)」
こんな時間があるのなら体を鍛えればいいのに。こんなところにお金を使うぐらいなら、もっと貧しい人達にパンを配ればいいのに。
大人からしてみれば、そういった社交場は情報交換の場であり、横の繋がりを強めるための大切なコミュニティ。
今でこそ大人になり役割を理解したが、受け入れるとはまた別の話だ。
だからよくパーティー会場を抜けだし、何処かに隠れてはやり過ごす。何度両親に怒られても嫌な物は嫌だ。
我ながら頑固な性格だったと思う。
ある日、いつもの如くパーティー会場に両親に引き摺られてやって来た。場所はバーミンガム家と同じ公爵の地位を所有する、ホーリングスワーグ家だ。
なんでも何処かの子供が養子に来たため、お披露目だとかなんだとか。
後からわかったのだが、その子供がアイリスの兄であるアランだったのだ。
「(暇だな……)」
そんなパーティーでも、子供にとってはただの時間の無駄遣いにしか思えなかった。
例に漏れず、抜け出しの常習犯だった俺は隙を見て両親の側から脱走した。
「確か……そうだ、こっちだった」
ホーリングスワーグ家にはもっと幼い頃から何度も連れてこられていたので、大体何処になにがあるか把握していた。
約半年ぶりにやってきた屋敷でも、足は覚えていてくれたようだ。
中庭に続く扉を、ソッと音が立たないように開けた。そこがいつもの俺の逃げ場だった。
そこからパーティー会場が見えるのだが、相変わらず派手に着飾った大人や人形のようにドレスアップされた同年代の子供が談笑していた。
つまらない世間話、微笑みという仮面を被った腹の探り合い。用意された料理は消費されることなく冷めて裏へ戻される運命が待っているだろう。
「やっぱりこんなところ来るんじゃなかった」
やはり自分には無意味な世界だ。
今後どうやって両親から断って逃げようか。いっそのこと何処か全寮制の学校にでも入学すれば免除になるのだろうか?
これまた無駄に豪華な噴水を覗き込んでみる。水面に映るのは、心底つまらなさそうな自分の顔が映っていた。
一層のこと、ここに飛び込んで問題行動を起こしてやれば……なんて、血迷った考えが頭を過った時だった。
「ワンッ!」
「ッ⁉」
乗り出していた身が固まった。もしかして、ホーリングスワーグ家の飼い犬だろうか。
甲高い鳴き声に慌てて振り向くが、何も居ない。
「……? 気のせい、じゃないよな……?」
キョロキョロと首を左右に振るが、それでも見つからない。だが犬の声は確実に聞こえた。
噴水から降りて地に足を着けると、〝何か〟フワフワしたものが足に当たった。
「な、なんだ、お前」
「ワンワン‼」
弾かれたように足下を見ると、真っ黒な小さな犬が尻尾を振ってこちらを見上げていた。
静かな中庭に急に現れたその子犬は、この屋敷に飼われてるにしてはあまりにも汚い。
「もしかしてどこかから迷い込んできたのか?」
「クウン……」
犬の言葉がわかるはずもなく、何処か途方に暮れたような子犬の前にしゃがみ込んだ。
きっとこの屋敷の大人に見つかったら、屋敷の外に放り出されてしまうだろう。見た限り、まだ生まれて間も無さそうだ。生きる力が無い子犬が外の世界で生き抜くには、そうとうな強運がないとやっていけない。
どうしたものかと顎に手を当てると、犬はピンッ! と耳を立てた。
「どうかしたのか?」
「ワンッ‼」
「あ、おい!」
あの茂みの向こうに何があるというのだ。
千切れんばかりに尻尾を振った子犬が、茂みの中に走って行った。
「待て‼」
大人に見つかったらその先の未来は明るくないんだぞ⁉
犬が潜り込んだ茂みを乗り越えると、案外すぐに子犬の後ろ姿を見つけることが出来た。
しかし子犬が走り去る先を見て、ギョッとした。
なぜなら、そこに自分と同い年ぐらいか、それよりも少し下ぐらいの少女が地面に座り込んでいたからだ。
「(まずい……!)」
ここに居ると言うことは、どこか貴族の令嬢だろう。
もしあの子犬が噛みついて傷の一つでも負ったならば……‼
「(この場にいた俺にも責任が問われる!)」
責任を取って娘を嫁に、なんて詰られたなら責任逃れはできない。
公爵家である自分は、この年から多くの見合い話が舞い込んでいた。全て攻略結婚、そこにお互いの気持ちなど一切関与されない。
そんなつまらない人生ごめんだ。だから、この時は必死になって少しでも自由な未来を掴み取ろうと躍起になって走った。
だが遊び盛りの子犬の方が、足は速かった。
「っわぁ⁉」
黒い子犬はピンクのドレスを来た少女に飛びかかり、押し倒してしまった。
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