25,撤回は致しません
なんです? 何が起こっていたんです?
耳のすぐそこに心臓が迫り上がってきたみたい。耳の奥にある鼓膜がバクバク大きな音で揺れてる。これ心臓出てこないかな、大丈夫かな。出てきたら明日の新聞記事に載っちゃうよ。
「降りるか」
シルクハットを被った団長は、何事も無かったかのように開かれたドアから降りた。
いやいや、今なんか凄い空気になっていましたよね?
なんでそんな飄々としていられるんですか⁉
「(心の奥に触れたい? お前の心臓抉り出すぞ的な?)」
死刑宣告⁉ 怖ッ‼ そんな物騒な空気だっただろうか⁉
それにしては、なんかこう……殺気は無かったし、まるで告白みたいな……。
まっさかー。団長が私に? 勘違いも甚だしいね。違う意味で恥ずかしくなってきたわ!
着いていけず、ボンヤリと団長の背中を眺めていると、クルッとこちらに振り返った。
「ほら」
「……? ワン」
「っ……君はお手をしなくていいんだ」
違うのか。
差し出された手に、反射的に置いた右手。犬の肉球を模して握ってみたが、どうやら間違っていたようだ。
団長の手によって開かれた手は、まるで繊細なガラス細工を取り扱うかのように優しく引かれた。
「足元に気を付けてくれ」
あ、降りるのに手を貸してくれたのか。なんと紳士な。
さっきから響きっぱなしのこの心臓はいつ止まってくれるのかな。
……あ、止まったら死ぬわ。
「ありがとうござっギャッ!!」
「だから言っただろう」
どうやらさっきの一連の出来事で、私の腰はガクガクになっているようだ。結果、私はものの見事に団長の胸にダイブをかますこととなった。
「大丈夫か?」
「すすすすすいませんッ!」
バカタレ! 私のバカタレ!
急いで団長から離れようとするが、背中に回った腕が中々解かれない。
ああっ……‼ 周りから変な目で見られるってぇ……‼
「もう大丈夫です、離してください!」
「まだふらついているような見えるぞ」
「見間違いです!」
私がふらついているのは団長のせいだ!
世間体が許せば今すぐにでも叫んでやったのに。
なんとか距離を保とうと試みるが、やはり許されない。
すると、耳元に団長の吐息がかかった。
「さっきの話は撤回しないからな」
「は、」
くすぐったいとか、背中がゾクゾクするとか、言いたいことは山ほどある。
しかしですよ。
そんなバリトンボイスで囁かれる身にもなってくださいよ。脳内バチギレて卒倒もんです。
「さあ行こう。入場チケットはすでに手配してあるから、入るだけだ」
「え、ええ……?」
「楽しんでくれるといいんだが」
あれ、完全にさっきの空気は無かったことになっているぞ。
私をエスコートする団長の横顔は、悶々とする私とは対照に何処か晴れやかだ。
「(切り替え早……)」
しかしチケットがあるということは、何処かの劇場だろうか。生憎私は観劇というものに疎いので何が流行っているのだとか旬の舞台女優だとか、まったくわからない。
しまったな、勉強してくればよかった。
「バーミンガム団長非常に申し上げにくいのですが……」
「どうした?」
「実は私、舞台や観劇にあまり詳しくなくてですね」
「舞台? いいや、ここは……っおっと」
「っわ!」
団長が咄嗟に私の肩を抱き寄せ、またバランスを崩すこととなった。今日だけで何回団長の体に触れているのだろうか。
体幹よ、あれだけ頑張ってトレーニングしていたんだからもう少し逞しくなってくれ……。
「早く早く! もう開いてるよ!」
「チケット買わなきゃー‼」
「何やら子供が多いですね」
「休日だからな、仕方がない」
私の隣を駆け抜けていくのは元気があり触れた子供達だ。普段ならここでほっこりしていただろう。
「子供が元気なのは国が元気という証拠だ」
「(……バーミンガム団長って、顔色一つ変えないんだよなぁ)」
相変わらず団長は顔色一つ変えないまま、私の腰を抱いていた。
結婚した日からそうだ、いつも私一人で勝手に顔が赤くしては取り乱して。今みたいに顔を赤くしたり心臓が耳から出そうになっているんだ。
さっきだってすぐに切り替えて、あんな飄々としちゃってさ。
「(なんか悔しい……まあ団長が私ごときに取り乱したりするはずないけどさ!)」
あ、折角のお出かけなのに卑屈になっちゃった。アーヤダヤダ‼
私にとっても久しぶりのお出かけだ。暗い気分なんて勿体ない。
すぐにバランスを整え、団長から体を離した。
「あまり人混みは好かないだろうと思っていたが、どうしてもここに連れてきたかったんだ」
「子供が多そうですが、公園施設ですか?」
「いいや、違う。
ほら、看板がそこに見えるだろう」
団長の声が上に上がった。つられて顔を上げると、なるほど。大きな木造の看板が出ている。
目に飛び込んできた文字を、意識すること無く舌に乗せていた。
「動物園」
音となった文字がゆっくり耳に入り、やがて脳へ到達する。
理解が追いついた頃には、すっかり卑屈な気持ちなんてすっ飛んでいた。
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