後編

 ヤツは私を傷つけ続けた。こちらも身構えて生活しているのだが、如何せんヤツは異形の妖精だ。人間の探知能力など優に超えてしまう。


 私は次の日もヤツに掴まって十メートルほど投擲され瀕死になり、その次の日は霊柩火車にぶつけられて大火傷だ。


 正直に申し上げれば、ヤツと関わっていると体より先にメンタルがやられる。こちとら普通の人間なもんで、瀕死を繰り返しても元気でいられるほど鋼のメンタルはしてねぇわけよ。


「先生、あの妖精の対策とか……」


「かの妖精は希少だからね、粗相のないように」


 学校の先生は頼れなかった。


「この前も死にかけた」


「でも元気にしてもらえるんだよね?」「気に入られてるなら大丈夫だって!」「なら気にせず仲良くしてた方が得だよ、絶対」


 クラスメイトも駄目だった。


 両親は妖精調査隊として全国を飛び回っているので、娘がどんな状況に陥っているかも知らないのだ。手紙を送ったって電話をしたって音信不通なのだから。育児放棄も大概にせよ。


 元気になるから怪我をしても大丈夫? 希少な存在に気に入られているのだから仲良くした方がいい? 粗相をするな?


「……ふざけんなよ」


 怪我をするのが大丈夫な訳ないだろ。希少な存在なんて知ったことか。どうして私がヤツに気を遣わなければいけないんだ。


 みんな当事者ではないから勝手を言う。くらいの高い方を先に見て、値踏みして、位が下の私に「耐える」の選択肢を持ち出すのだ。


 だって所詮は他人事。それは良いことだと大多数が勝手に祝福して、当人が喜んでいるかどうかなんて二の次にする。


 みんなが好かれたがっている相手に好かれるなんて幸せだね。とても大きな後ろ盾ではないか。こんなことは珍しい。珍しいから、喜ばしい?


 喜べない私が我儘なのか。普通に、痛くない生活がいいと駄々をこねる私は間違っているのか。


 口にした血の味を覚えてしまった。肉を噛み締める感触を覚えてしまった。


 私が怪我をする度に欠けていく異形の妖精。四本あった右腕は三本になり、鱗も減って、血を流す為の切り傷だって絶えないのに。


 自分の怪我を塞いでいるのがヤツの血肉だと思うと吐き気がした。自分の体を構成する物質にヤツが混ざり込んでいると思うだけで怖気おぞけがした。


 自宅のベッドに倒れ込み、最近の私は無断欠席を決め込んでいる。流石に外に出なければ危害を加えられることはないだろうと踏んでおり、それは正解だった。家にこもってさえいれば、私は怪我をすることがなかった。


 これはヤツと私の根競べになるだろうか。ヤツは私に飽きてくれるだろうか。


 などと思っていたら、窓をノックされた。


 手紙はポストに届くようにしているのに、間違って窓からの直接配達をされたのだろうか。ピクシー宅配だとそそっかしいことがあるし。


 と、安易にカーテンを開けると、屋根にぶら下がったヤツがいた。ここ二階なんですけど。


 ヤツが拳を作って振りをつける。先が予想できた私は即座に身をひるがえし、背後で窓が割れた音に奥歯を噛み締めた。幸い怪我はしなかったので、そのまま靴を履いて家を飛び出してやる。


「あ 待 って」


「家まで来ないで!!」


 軽い動作で着地したヤツに叫べば、周りは私ばかり見た。


「あの妖精に気に入られた子だ」「どうして逃げているの?」「あんな恩恵は滅多にないのに」「羨ましいなぁ」「逃げるなんて罰当たりだよ」


 うるさいうるさいあぁうるさい!! どいつもこいつも勝手ばかり言いやがって!


 耳を塞いで私は走る。息が切れるまで走る。自分の呼吸だけが頭に響いて、余計に鼓動が早まって、それでも遠くに行きたかった。


 何も知らない癖に。勝手な幸せを押し付けて、勝手な恩恵を押し付けて、それを拒む私は悪者か!! 誰もこんなこと望んでないのに、周りの当たり前が私を奇異なものに映しやがる。


 嫌だ、嫌だ、私は普通がいい。あんな妖精に構われたくない。これ以上好き勝手されたくない。


 ヤツを食べたくない。アイツの肉も、血も、鱗もいらない!!


 あんな異形、出会わなければ良かったんだ。


 過去を嘆きながら街を駆け抜け、気づけば博物館にまで来てしまった。今日は休館日のため閉まっている。走り疲れた足は止まり、腕は下がり、肩で呼吸を繰り返した。頼むから、少しでも長く、遠く、ヤツから離れていたいから。まだ、走らないと。


 私が呼吸を整えようと目を閉じた時、閉まっている博物館内から音がした。


 これは何だっけ。歴史の授業で、流れた動画で聞いた気がする。


 私の足が怯み、周りの妖精や人々も不思議そうに止まった瞬間。


 博物館の扉が、飛び出した車によって弾け飛んだ。


「はっはぁ動いた!!」


「おら進め!!」


 展示されていた筈の車が動いている。乗っているのは男二人組。人間だ。車ってあんな風に動くのか。確かエンジンとか何とかがどうにかなって、タイヤが回転するとか習ったんだけど。


 歴史的道具が動く様に呆気に取られ、逃げる動作が遅れる。


 車は博物館の柵を壊し、私に向かって迫りくる。


 歴史の授業でしたんだよな。かつての、なんだっけ、交通事故死者数みたいなの。あれ、結構な数ではなかったっけ。車って結局は鉄の塊で、殺傷能力が凄い代物ではなかったっけ。


 固まった足が地面と一体化してしまい、迫りくる歴史物に目を見張る。


 私がここで血塗れになって、ぐしゃぐしゃになって、死んでしまったら。私を知っている奴らは真っ先に「かの妖精に見放されたんだ」と哀れむだろうか。


 そんな走馬灯にもならない妄想が生まれて、何回危機的状況を経験したって慣れる訳ではないのだと叫びたくなって。


 私が両手を顔の前で交差させると、不意に肩を抱き寄せられた。


「だ め」


 白い袈裟が視界に広がる。


 車が私ではない存在に激突する。


 車が衝突物に


 前面を潰し、壊れた部品やタイヤを宙に飛ばし、壊れぬ妖精に大破させられる。


 私を包むのは三本の黄色い腕。竜の尾は私の体を引き寄せて、鳥の足が衝撃で地面に埋まっている。


 瓦礫と鉄くずが舞う中で、不動の強さを見せたヤツ。


 黒い髪は勢いよくなびき、ヤツの体を守っていた右の腕たちが鋭く空を裂いた。


 車内で血だらけになっていた男たちの頭を持ち、容赦なく街路樹に向かって投げつける。中身の詰まった袋が破けたような音と共に街路樹は倒れ、周囲には悲鳴が木霊した。悲痛を嫌う妖精たちの金切り声も反響した。


 腰が抜けた私を抱いたまま、ヤツはその場にしゃがみ込む。


 車と直接ぶつかった右腕は三本とも血だらけで、顔だって破片で切れて、右半身の袈裟は赤銅色が滲んでいる。


「だ め だ めだよ」


 血だらけが私の頬を撫でた。ヤツの生ぬるい血が顔につき、慣れてしまった匂いが鼻をつく。


「なにが、だめなの……なに、してんの」


 いつもなら、いつものコイツなら、私が事故に遭った後にやって来るのに。どうして追いかけてきたの、どうして庇ったの。色々などうしてが私の頭を駆け巡り、言葉に出せないまま「どうして」だけが零れ続けた。


 ヤツは首を傾けて、黒い長髪が私を覆う。今日の傷だらけはヤツの方で、私は無傷なままでいる。


 あぁ、結局はだ。


 傷だらけになった筈の私は、結果的には無傷になって。


 無傷であった筈のヤツが、欠けた体で笑うのだから。


 私は鳩尾の辺りから頭にかけて沸騰する感覚を持ち、気づけば腕を振り被っていた。


 傷のない拳が妖精を殴る。庇ってくれた異形を傷つける。


 ヤツからは玉の血飛沫が舞い、私はすぐさま袈裟を掴むのだ。


「私に構うなって、何度言ったら分かるんだよ馬鹿野郎!!」


 こんな場面を見られたら怒られるのは私だ。かの希少な妖精を殴るだなんて何を考えているのか。どうしてこの異形を大切にできないのかって。


 でも、大切にできる筈がないだろ。こんなヤツを、慈しめるわけがないだろう。


 私の肺は怒気を生み、言葉は棘となって吐き出された。


「君は、君の体だけは治せないだろ!!」


 出会った頃は五本あった右腕。それも今では三本になった。鱗ももっと生え揃っていたし、左腕だって健全だったのに。


 それを食べたのは誰でもない。ヤツによって怪我をした、私なのだ。


「君の血を舐める度に吐き気がする、君の肉を噛む度に寒気がする! 君の鱗を飲む度に、私は苦しくて、どうしてこんな形で生かされるのかってッ、君の気紛れも習性も大概にしろって暴れ出したくなってるんだよ!!」


 誰が痛めつけられて感謝できるか。相手を大事にしようだなんて思えるのか。


 私は私を大事にしてくれる相手しか大事にしたくない。


 私を大事にしてくれない相手なんて視界にも入れたくないのに。


「君が治せるのは体だけだろ!! 私のメンタルなんて気にせずに、君の勝手で馬鹿みたいに怪我させられてッ……」


 滲んだ視界で訴えたって、ヤツは笑っているままだ。


 人を治す体を持った妖精よ。凄いと崇められる異形様よ。


 どうせお前に、私の気持ちなんて届いてない。


「その、勝手な怪我で、君の体が欠けていくんだ! 私はいらないって言ってるのに、食べたくないって言ってるのに!! どうして分かってくれないのさ!! 私は怪我をするのも、その怪我のせいで君が欠けていくのも、もう沢山だって言ってんのにさぁッ!!」


 落ちた涙がヤツの肩で弾けた。


 粗相がないようにって注意した先生よ。気に入られていいねって笑ったクラスメイトよ。娘に返事もしない両親よ。かの妖精を希少だと遠巻きにする周りの奴らよ!!


 分からないだろ、私の気持ちなんて。お前らが見ているのは凄い体を持ったコイツであって、怪我を治される権利を得た私であって――傷ついたヤツのことは、眼中にないんだから。


「鱗が減った君を見て、指や腕が減っていく君を見て、私が嬉しいとでも思うか!? 感謝するとでも思ってるのか!? だったら思い直せよ稀有けうな妖精!! 私はそんなこと一回も望んだことないんだから!!」


 今だって、私に構うから血だらけになった。君自身の重傷を君は治せないのに。周りは流れ出る君の血を「勿体ない」と言っているのに。


「なんで庇ったの、なんで今日に限って、盾になったの。分かんない。もう、君が何をしたいのか……私には、わかんないよぉ……」


 両の視界が決壊する。いっそ轢き殺されてしまった方が楽だったかもしれない。きちんと病院に運ばれていた方が普通に戻れてよかったかもしれない。


 それでも私は、この妖精に守られた人間となってしまった。それが事実だ。コイツはいつも私に危害を加えるくせに、今日だけは何故か守りやがったのだから。


 うだる涙を受け止めたのは黄色い掌。そこにはヤツの血が溜まっており、私の涙と混ざっていった。


 先の割れたヤツの舌が口から出てくる。かと思えば左の顎から目元まで舐められて、放心しているうちに右の顎から目元も舐められた。


 流石に涙も止まってしまい、体勢を戻したヤツの黒い長髪に覆われる。周りの喧騒が、数多の音が、希少なヤツによって阻まれた。


「君 を 傷つ けて いいのは 私だけ 君 を 治すの も 私だけ」


 凶悪な歯を見せながら妖精が笑う。裂けてしまいそうな口角からは血の混じったよだれが流れ、私の頬が引っかかれた。


 私の血とヤツの血が頬で混ざっている気がする。今のヤツから目を逸らしたくないので確認しないのだけれど。


「君 の傷は 私のも の 君 が 傷つ く理由は 私だけ」


 先の割れた舌が私の頬をまた舐める。そうすれば風に触れて痛かった頬の傷が無くなったと分かり、体全体に鳥肌が立った。


 ヤツの額の目が開眼する。


 暗く、赤い、血だまりのような瞳に射抜かれる。


「私の 血 をあげる 肉 をあげ る 鱗を 髪 を 目だっ て あげよう」


 下瞼に弧を描き、ヤツの頬がオレンジ色に染まった。


「君 の一部 に なりた い 君の 傷 すべ て 私のもの 私だけ の もの 私だ けの君」


 カーテンとなった黒い髪は周りの騒ぎなんて塞いでしまう。あの街路樹に投げ捨てられた人間たちがどうなったかなんて、目の前のヤツは考えてもいないのだろう。


「だか ら 他の 何 かが君 を 傷つ けるなん て 許さない」


 黄色い指先が私の鎖骨の間に触れた。血だらけの指が私の服を汚した。


「君 の傷は 全 て私が いい」


 ヤツの手が私の首を握る。弱く弱く力を込めて、簡単に折れると主張するように。


「その 涙も 私 のせい」


 確認するような言葉に喉が引きつる。とっくに止まった涙を求めるように、ヤツが目の縁を舐めている。


「見 えない 傷 は治せ ないけ ど」


 笑う、笑う、黄色が笑う。妖精なんて可愛いものではない。異形が凶悪に、笑いやがる。


「その涙 も 私 が理由 なら 嬉し いね」


 あぁ……もう、駄目なんだ。


 恍惚と笑う異形に視界が眩む。やる気が抜けて、怒気も失せて、現実逃避する。


 遠くなる意識の中で、私の背中を支えたのは黄色い腕だし、私の頭を撫でたのもヤツの尾だった。


 ***


 博物館から車を盗んだ奴らは全治半年の大怪我だったそうだ。全身の骨が折れていたし、内臓も損傷していたのだとか。


 結構なニュースにもなったし、「罰当たりだ」と夜な夜な妖精に悪戯をされて怪我の治りは悪くなっているらしい。まぁ犯罪者ではよくある話だ。


「や めて」


「やだ」


 それよりも、私は私の身が大事。なので最近はナイフを携帯し、ヤツが来そうだと感じた時には首に突き付けるようにしている。自分の首に。


 そうすればヤツは危害を加える前に出てきて、残った腕を彷徨さまよわせるのだ。


「痛い いや」


「自殺されたくなかったら痛いことしないで」


「え ぇ 」


「しないで」


「え ぇぇ」


 ヤツは、私がヤツの行動以外で傷つけられるのが嫌らしい。勿論それは私であっても駄目なのだ。


 だから私は自分の身を盾に、自分を守ろう。


 私に傷を与えるばかりして、欠けていくヤツに対抗して。


「私の傷は私のものだよ。だから君にはもうあげない」


「や だ」


「君の欠片も欲しくない」


「や だ」


「やだはこっちの台詞!」


「や だ ほ しい 怪我 して 治す 治 すよ」


「ぜったい嫌!」


「私 も嫌」


「知るか!!」


 今日も私は恩恵を無下にする人間として噂されているのだろう。なんて罰当たりだろうと囁かれ、どうして受け入れないのかとやっかまれて。


 別にいいよ、それでいい。私はもう変人で結構だ。


 コイツの腕がゼロになってしまう前に、コイツの鱗が無くなってしまう前に、コイツが眼球を抉り出す前に。


 私が止めないといけない。コイツが私に体を与えた分、私は抗ってやろうと決めたのだから。


 コイツの勝手にはさせない。欠ける自分を見ていないコイツの言うことなんて聞いてやらない。


 どれだけ傷を求めてられても、コイツが欲しい傷なんてやるもんか。


 私は、私の傷を欲しがるヤツの相手をしながら、捧げられた傷を背負って生きるのだ。


「怪我 する よ」


「君がその手の石を離したら私もナイフを離してあげるよ」


「 や だ」


「なら私もやだ」


「な んで」


「私は、君の傷なんて欲しくない」


「私 は欲し い」


「あげない」


 君の傷なんていらない。君の気持ちなんていらない。


 それでもこれは乗りかかった船だから、あの日、無知な私が断ってしまった結果だから。


「もら って 私 私を」


「いやだ」


「食べ て」


「やだよ馬鹿」


 ナイフを握り締めた私は、きちんとヤツの気持ちを踏みにじった。


――――――――――――――――――――


君の傷が欲しいと強請る妖精と、欠ける君が許せない少女。

二人は今日も明日もその次も、互いの傷を舐め合って、塞ぎ合っているのかもしれません。


彼女たちを見つけて下さってありがとうございました。


藍ねず。

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君の傷を捧げてくれ 藍ねず @oreta-sin

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