君の傷を捧げてくれ

藍ねず

前編

 食べればどんな難病も怪我もたちまち治る肉がある。


 そんな噂が随分と昔からあったのだろう。人魚の肉とかエルフの涙とかも昔話にはよく出てくる題材だ。


 私だって聞いたことはあるが、それは権利侵害に当たる表現として現在では使用禁止語句になっている。


 そりゃそうだ。昔話のせいで乱獲されたら人魚族もエルフ族もたまったものではない。


 ちなみに私の家の隣には齢八百になるエルフの女性が住んでいるが、その美貌ときたら。自然と両手を合わせるほどだ。昔々、まだ人間と妖精たちの理解が進んでいない時代は魔法だ奇跡だと騒がれたものだろう。もしくは魔女だと恐れられたか。何事も理解とは大切だ。


 今では妖精も人間も、互いを許容した時代となっている。サラマンダーが火事の現場で火を食べるのも、ドワーフの建築住宅が人気なのも、グリフォン旅行便が通常運転なのも当たり前だ。


 人間は人間でちゃんと働いているし、学校もある。どんな妖精が存在するのか知っておくに越したことはないからね。


 お互いに必要としあった現代では、かつて主流だった車や船は博物館でしか見られなくなり、壊れかけていた自然が戻ってきた。らしい。知らないけど。


 私が知っているのは、豊かな緑と人工物が調和した世界の中で、人間と妖精が暮らしている景色だけだ。


 しかし、もちろん現代にだって悪い奴はいる。悪い人間も悪い妖精も根絶される訳がない。人間の場合は性根がどうにかなっているのかもしれないが、妖精に至ってはそれが習性である場合があるのだからより厄介。


 そう、習性だから怖いのだ。


 相手にとってはそれが当たり前。私にとっては非道理でも。理解できない部分もひっくるめて共に歩むのが共存という道なのだから。


 それでも納得できないことなんて山程ある。どうしてが重なって、ふざけんなが喉元まで這い上がることなんてしょっちゅうだ。


 学校帰りの今もそう。


 レンガ敷きの道を歩いていれば、急に足元に影がさした。と理解した時には既に遅い。


 顔を上げた私に向かって――大木が投げつけられていたのだから。


 ただの人間である私が避けられる筈もなく、枝や葉が肌を傷つけ、一瞬だけ視界が暗転する。


 ぼやけた光を目が認識した時にはもう、私は巨木の下敷きになっていた。


 左頬がレンガに触れて、首から下の感覚がない。何やら生ぬるい液体が流れている気もするが、それが何なのかなど考えるのはやめた。生きている鼻が嗅ぎ取ったのは独特の鉄臭さを孕んだ匂いだ。


 指先一つ動かせず、息をするにも力が入らない。痛いとか苦しいとかいう感覚すらなく、今の自分が息を吸っているのか吐いているのか分からなかった。景色が徐々に歪み始めて、意識が遠のく。耳鳴りはやまない。視界は緑と灰色がぼやけて混ざった世界になる。


 だがその滲みに混ざって黄色が見えた時、私は忌々いまいましさで吐き気がした。


 本当に何か吐いたのだが、それが胃液だったのか血だったのかは分からない。


 体にのしかかっていた重さは前置きなく無くなり、肺の圧迫感が軽減された。途端に咳き込んだのは自然現象だろう。


 噎せて痙攣する右頬に液体が垂らされる。独特の鉄臭さが強くなったので、液体が血であることは明白だ。


 私のものではない血が私の顔を流れ、口の端に触れる。明らかに私の口元を狙った流れに寒気がした。


 あぁ、嫌だな。嫌だよ。ほんとに嫌だ。こんなの口にしたくないんだけどさ。


 私はゆっくりと口に流れ込んだ雫を舐め、吐き気を腹の底に飲み下した。


「食べ て」


 壊れかけの鼓膜を揺らした低い声。


 私の唇と歯をこじ開けたのは黄色い指。


 指を噛んだ状態の私の顎には、相手の空いた手が添えられた。細く綺麗な、妖精の指だ。


 私は舌で指を押し出そうと試みるが、そんなの抵抗にすらなっていない。


 相手の手によって、私の顎は容赦なく閉じられる。


 必然的に、私は相手の指を噛み切った。


 ***


 気づけば木目の綺麗な天井の部屋で寝ていた。別に初めてのことではない。何度目かと数えるのを諦める程には、同じ目覚めを繰り返している。


 体に傷はない。血だらけの制服だけが事故を現実だと突き付ける。吐き気も眩暈も耳鳴りもない。これも全部、いつも通りだ。


 何重にも布が折り重なって作られたベッド。清潔な空気は妖精特有のもので、私は自然と頭痛を覚えた。妖精の空気が作用しているのではない。の空気が生理的に苦手なのだ。


「起き たね 起き たね」


 変なイントネーションの言葉が聞こえたが、無視を決め込んで寝返りを打つ。


 柔らかく沈むベッドは最高と言っても過言ではないし、窓から見える景色も申し分ない。大木の枝に作られているツリーハウスだものな。宿泊施設としてなら良い値段で商売ができることだろう。


「顔 顔 見 たいな ぁ」


 ただオーナーに問題しかないので、宿泊施設業は成立しない。絶対に。


 包まっていた布団を問答無用で剥がされて、首の後ろを掴まれる。そのまま持ち上げられる姿は抵抗できない猫のごとし。人間に対する扱いが雑すぎる。


「元気 元気だ ねぇ」


 目一杯口角の上がったヤツの口は、私を丸呑みしそうなほど巨大であった。


 黄色い皮膚で覆われ、目が眩むような神々しさを纏った妖精。白い布を袈裟けさ風に着て、腕は背中から六本と少し生えている。右手三本、左手三本、手首から先がない左手が一本。足は屈強な鳥。腰辺りからは鱗の並んだ尾が見えて、それは竜のような印象を与えた。


「生 きてる 生 きてる いいこ いいこ」


 ヤツの顔が近づいて、黒く長い髪が私を隠すように流れてくる。白い包帯の巻かれた目元は伺えない。元よりコイツには三つの目があり、二つは人間と似通った位置だが、もう一つは額にあった。今は額の目も瞼を下ろしている。


 人に紛れるには異端すぎる、妖精。


 妖精というには醜悪すぎる、異形。


 機嫌よさげに竜の尾は床を撫で、顔を横断するほど大きな口が開いた。


 全て鋭く尖った歯。歯列は一列ではなく、顎上にもびっしりと生え揃っている。長い舌の先は二つに割れていた。


 情報量が多い。気味が悪い。生理的に無理。


 舌が私の顎から額までを舐め上げ、全身に鳥肌が立つ。ヤツは機嫌良さそうに私を持ったまま歩き出し、こちらは背中を丸めるしかなくなった。本当に猫になった気分だ。猫のように可愛く「にゃあ」など鳴かないが。


「帰りたいんだけど」


「ど して ど して?」


「ここにいたくないから」


「嫌 嫌 だめ」


「帰る」


「痛い?」


 ふと、ヤツの腕が伸びて窓の外に突き出される。


 私の足は力なく揺れ、下を見れば地面は遥か彼方だ。


 私を生かしているのはヤツの黄色い腕だけ。暴れ出さないように、首の後ろを掴んだ手だけ。


 髪が風になびく。ヤツの口角は上がっている。


「痛い する?」


 ヤツの黄色い頬に朱がさして、オレンジ色に染まる。恍惚と上がった口角に息を呑んだ私は、足先が無力に揺れる様を感じていた。


「しない。やだ」


「し ない?」


「戻して」


 渋々と言った様子でヤツの腕が私を室内へ戻す。しかし離してくれることはなかったので、私は猫の状態のままだ。


 ヤツは大きな座布団に胡坐あぐらをかき、膝に私を乗せる。鱗の生えた尾は腰に巻き付き、一本の手は未だに首根っこを掴んだままだ。


「食べ る?」


 黄色い指が私の下唇を潰し、微かにこじ開けようとする。私は顔中に力を入れ、ヤツの手を押し戻した。


「食べない」


 私の反応にヤツは空気を明るくする。額の閉じた瞼は震えており、私は隠すことなく溜息を吐いた。


 ――この異形に気に入られたのは一体いつだったか。


 天気が良かったので少し山に登ってみようと思ったのがその日の間違いだったと記憶している。普段は近所を散歩するくらいしかしないのに。軽装で山に入れば怪我をしに行きますと宣言しているようなものだ。


 案の定、私は木の枝でガッツリ腕を怪我した。直ぐにヒポグリフタクシーを呼ぼうとしたが圏外で、まぁ傷も深くないからちょっと休むかと大木の根元に腰かけた時。


『血 血 血 の匂い』


 ヤツは大木から下りてきた。


 白い袈裟を纏い、多腕を脱力させ、軽く竜の尾を揺らしながら。


 見上げればツリーハウスがあったので、私はそこで初めてヤツの居住区域内に入っていると知った。郊外に住む妖精は気に入ったもの以外が居住区域に入るのを嫌がるとも知っていたので、そこは流石に慌てたな。


『ごめんなさい、区域だと気づかなくて』


『怪我 痛 い 痛 い 食べ る?』


 当初からヤツは私の話を聞かない質だった。元々会話というものに慣れていない雰囲気ではあったが、初対面の状態で指を差し出されると誰が思うだろう。妖精の生態は未だに謎な部分が多いのだと人間の学者は言っていたが、それは日常生活の中でも感じることが多々あった。


『食べませんよ。大丈夫です、ありがとうございます』


 だから私は気づかなかったのだ。


 山に住む黄色い妖精が、どんな怪我も治せる体を持っているなど。


 その肉目当てにかつては乱獲か崇拝される対象だったなどと。


 ヤツがその末裔で、数少なくなった妖精の一体などと。


 無知だった私はヤツを置いて下山しようとしたが、何故かヤツが着いて来た。「食べ ない? 食べ ない?」と繰り返される度に「食べない」と答えていれば背後の気配が輝き始めるという始末。どうして。


 そのままヤツは私の家まで来てしまった。玄関先で会った隣のエルフさんが甲高い悲鳴を上げたところで、やっと私はヤツの希少性を知ったのだ。


『かの妖精が下山されるなんて』『これは吉凶、どちらかしら』『不老長寿の妖精だ』『不死の薬だ』『自分以外の生物は嫌いだと有名なのに』


 慌てたエルフさんから説明を受ける間、遠巻きに集まり始めた妖精や人間の声も聞こえた。渦中のヤツは私だけを見下ろして、耳まで裂けた口を三日月形に上げている。


 私はエルフさんに「そうなんですね」とだけ返事をして家に入った。そうすればヤツも入って来たので、外のどよめきは大きくなったっけ。


『食べ る?』


 傷の手当てをする間、ヤツは何度も聞いてきた。その度に「食べない」と私は答え続け、ヤツのの腕を観察した。


 右が四本、左が五本。バランスの悪そうな腕の生え方と、不死の薬という単語が頭の中で繋がった。


『食べられたいの? 君は』


 問えば、ヤツは首を傾けただけだった。竜の尾は静かに床を撫で、黄色い指が私の唇を押してくる。


『食べ ない?』


『食べない』


 きっと、私がこの日に繰り返した答えは間違っていた。私はヤツが当たり前だと思っていた行為を受け入れて、嫌々でもヤツの指なり鱗なりを食べなければいけなかったのだ。


 ヤツにとっては食べられ、治すことが習性だから。


 その日から、ヤツは私に危害を加え始めた。


 帰宅途中に拳大の石がこめかみにぶつかったことを皮切りに。砕けた硝子片をダーツの如く投げつけられ、前置きなく道路に突き飛ばされてハーピー保育送迎便に轢かれた。


 事あるごとに瀕死の重傷を負った私の元には、治癒者が来る前にヤツが来た。


 喜々とした表情で、自分の血を私に垂らす。虫の息である私に、自分の肉を分け与える。


 私の意思とは関係なく、血液を飲めば体の痛みは引いていった。ヤツが提供した指や腕、鱗を食べればたちまち全回復だ。


 回復と同時に眠気に襲われる私は、いつも決まってヤツのツリーハウスで目が覚めた。


 ヤツは私に怪我を負わせ、自分の体を食べさせる。そうすることで私は生死の狭間を何度も行き来する事となり、近所では「不死の玩具」や「恩恵者」という噂まで出回ってしまった。最低の低である。


「もう帰りたいってば」


「や だ」


「帰る」


 私が言うことを聞かない姿を見て、ヤツはいつも笑っている。今だって人を膝に乗せたまま楽しそうだ。私の髪をいて、怪我をしていた場所を撫でて、無傷の私に花を飛ばしている。


 口から隠せない溜息が出た時、ヤツの掌に細かい傷があるのを見つけてしまった。


「君の方が怪我してるじゃん」


「け が し てない」


「してるってば」


 コイツは自分の怪我にはうとい。石や硝子を投げつける時も、人を突き飛ばす時も、力加減が下手で自分もどこか怪我しているのだ。


 私はぐしゃぐしゃになった絆創膏をポケットから出し、ヤツの手に貼り付ける。デカい手なので人間用の絆創膏では足りないのだが、無いよりはマシだろう。これを人間のエゴと言う。


「人に怪我させる時、君まで怪我してどうするのさ」


 絆創膏の上から掌を軽く叩く。そうすればヤツは尻尾で強めに床を叩き、口角を最大限まで上に上げていた。気持ち悪い。


 だが帰るならば今だろう。


 私は緩んだヤツの腕から逃げ出した。そのまま荷物を引っ掴んで、ツリーハウスの外にある梯子を下りる。何度もやってきた動作を反芻して山に下りれば、ツリーハウスの窓からこちらを見下ろすヤツがいた。


 私は手を振ることも会釈することもなく下山し、今日やらなければいけない課題をする時間と、睡眠食事の時間を逆算した。ヤツに構われると時間を食われるので本当に嫌になる。


 これが日常なんて、本当に最低だ。

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