第16話 絶望

 ───迷宮の悪意。


 全員の脳裏にそんな謳い文句が過ぎった。目の前には到底太刀打ちできるはずのない巨大鼠。生き残るには今すぐ逃げるべきだ。


「ッ………!」


「あっ……あぁ……」


 しかし、誰一人として動き出すことが出来ない。それは目の前の強者の威圧感がそうさせるのか、はたまた遭遇した瞬間に身体は勝手に死を受けいれたからなのか。理由は定かでは無い。


「すフゥ───すフゥ────」


 怖いくらい静かな迷宮内に響き渡るのは恐怖に染った息遣いと荒々しい獣の鼻息。錯乱しても可笑しくは無い、寧ろ、ほとんどの人間がそうなって当然。


「うわぁぁぁあああああああぁぁぁッ!?」


 いの一番に叫んだのは誰だったか? いや、それとも全員が一斉に叫んだのか?

 言葉にならない絶叫が混じり迷宮を駆け抜けた。


「GAOOOOOOOOO!!!!」


 同時に目の前の巨大鼠も咆哮する。いつの間にか身体は自由を取り戻し、全員が巨大鼠がいる方向とは別へと走り出した。


 ────まあ、仕方ないか。


 殿を務めるのはハヤテだ。

 いの一番に走り出したマリネシア達を視界に収めて、彼は内心ボヤく。


 本音を言えば、ハヤテは目の前の巨大鼠にすぐにでも挑みたかった。しかし、僅かに残った彼の理性は主の命を優先する。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ………!!」


 一心不乱に暗闇を駆け抜ける。先に住めば進むほど道は理解不能になり、帰り道なんてもう完全に分からなくなってしまう。それでも走る。そうしなければ死んでしまうから。


「すフゥッ───!!」


 鼠はその巨体に見合わず足取りが軽い。しかし、通路の幅に体がぶつかって窮屈そうだ。そのお陰か、何とかまだ4人は追いつかれずに生きていた。


「そんな……!!」


「い、行き止まり……」


 だがそんな綱渡りな延命も強制的に終わりを告げる。我武者羅に走った先に待ち受けていたのはそれ以上先のない行き止まり。


 地図を確認せずとも全員が理解していた。そこは地下一階に一つしか存在しない袋小路。辿り着いてようやく現在地の把握ができたわけだ。状況は最高に最悪だが。


「────っんく」


 無意識に誰かの喉が鳴る。もう迎撃の他に彼らに残された道は無い。全員が覚悟を定めるしかなかった。


「お前はどれくらい強いんだ?」


 言葉が通じるかも分からない獣にハヤテは尋ねる。


 いつもの如く、彼が先陣を切った。凛と鈴の音が鳴ったかと思えば、彼は瞬く間に巨大鼠へと肉薄して、鈍く輝く刃を抜き放っていた。


「ッ────!!」


「GAO!!!」


 しかしハヤテの初撃は難なく鼠に受け止められる。鋭い数本の鉤爪と鍔迫り合い、逆手から繰り出された振り払い攻撃を既のところで躱す。


「……お見事」


 余裕を持って回避したはずが、ハヤテの右頬が薄らと裂けている。じんわりと痛みが広がり、血も流れるが今までの傷に比べればそれは傷にすら思えない。


 ───まだまだこれから……!


 ハヤテは構わずに突進する。今度は深く身を屈めて這いずるように下から攻める。

 異様に低い下段の斬り上げ。その鋭さは初撃よりも一段と洗練されていた。


「GAGA!!」


「……これも駄目か」


 しかし、巨大鼠は難なく防ぐ。まるで宙をゆったりと舞う蝶々と戯れるようなその手つきにハヤテは技量ステータスの差を感じずにはいられない。


 ────いいね、そんな大層なナリをしてるんだ。そうこなくちゃ……。


 それでも、ハヤテ心が折れるどころかその内は狂喜する。身の危険を顧みず、凄まじい勢いでハヤテは肉薄する。


 完全に巨大鼠の注意ヘイトはハヤテへと向かっていた。その隙を彼の仲間は見逃さない。


「───喰らえッ!!」


 暗闇から突然、フォルタが飛び出して巨大鼠の右足を短剣で突き刺す。

 それは盗賊が用いる独特な歩法と気配隠蔽の技術によって成せる芸当───奇襲ハイドアタックだ。


「GAO???」


「かっ、たっ……!」


 確かにフォルタの奇襲は成功した。しかし、無防備に攻撃を受けた鼠は全くそれを気にした様子が無い。逆にフォルタが鼠の外皮の硬さに驚き、武器を弾き落とすほどだ。


 負傷ダメージは皆無。だが、微力ながらも鼠の意識はフォルタへと向かい、隙が生まれる。


「燃え、猛ろ───〈小焔パルフラマ〉!!」


 地下迷宮の闇を塗りつぶす光と不自然な熱量の発生。それは真に力ある言葉であり、マリネシアが発生させた事象だ。頭上に現れた火球は瞬く間に鼠へと飛ぶ。


 意識外からの魔法に鼠が対処できる訳もなく。マリネシアの魔法は見事に直撃した。


「やっ────」


 炎が爆ぜて焦げ臭い煙が周囲に立ち込める。マリネシアはそれを見て喜びの声を上げようとする途中で絶望へと塗り替わる。


「GAOO!!!」


 最後の力を振り絞って行使した魔法は巨大鼠には何も意味をなさなかった。目の前のバケモノは少しその針のような毛を焦がしただけだ。


「────そ、そんな……全く効いてない……」


 今までのモンスターならば確かに絶命に至らせることが出来ただろう。だが、目の前のモンスターは悪意蔓延る地下迷宮を彷徨える強者だ。


 尽くハヤテ達の攻撃は土煙のように巻かれて、全く意味を成さない。覚悟を決めて死ぬ気で挑んだ結果がこれだ。それだけで戦意を喪失する理由は十分であった。


「こ、こんなのに勝てるわけが無い……」


「俺たち……死ぬのか?」


「ああ、神よ……どうか、どうか、そのお力で私たちを助けて────」


 現にマリネシア、フォルタ、アイネは完全に諦めたように顔を歪めて、虚ろに鼠を見上げていた。


「────くははっ」


 しかしハヤテだけは違った。三人には申し訳ないと思いながらも彼は腹の底から漏れ出る笑いを堪えることができないでいる。


 腹を括り、ハヤテに残された道は死ぬか死なないか。つまりは戦うか戦わないかだけだ。究極の二択を迫られた状況でありながら、ある意味でこの状況は彼が不本意にも待ち望んでいたものであった。


 合法的に心赴くままに強者と死合いに興じられる。


 ────そんな素晴らしいことがあるだろうか?


 ハヤテのタガは外れ、彼の狂った思考はこの絶望的な状況を楽しんでいた。


「死合いと洒落こもう───」


 仲間を置き去り、ハヤテは再び巨大鼠へと迫る。


 もう何も考える必要は無い。ただ、ハヤテは心ゆくまで刀を振るうのみだ。鼠は存外、ハヤテとの立ち会いに素直に応じる。本来ならば直ぐに殺されてもおかしくは無い。どんな気まぐれか、目の前な強者は弱者の戯れに付き合う。


「GAAAAAAAAA!!」


「───ッ!! お、らぁッ!!」


 斬ってはぶつかり、斬っては躱され、斬っては逆に斬られる。見る見るうちにハヤテの身体には無数の傷が刻まれていく。そのどれもが深く、肉を抉られ、大量の血を垂れ流していた。それでも、ハヤテの身体は闘争を求めて活動し続ける。


「は、ハヤテ────?」


「な、何が起きてんだ?」


 傍から見れば眼前で繰り広げられる死闘は異様なモノに映る。それは到底、有り得るはずの無い光景だった。


「まだまだッ!!」


 たかだか、迷宮に入り始めてから一週間も経たない新人ニュービーが、戯れであれどうして強者との殺し合いの最中で普通に生き長らえているのか。


「ありえない────」


 それなのに、思いの外ハヤテは目の前の理不尽の塊に肉薄していた。本当であればありえない事だが、ハヤテは少しばかり迷宮へのが速かった。


 ここで言う「順応」とは単純な環境への「慣れ」を意味するものではなく。真に、身体の根本的な基本構造を地下迷宮で生きていく為に作り替えていく事を指す。


 地下迷宮に一度でも足を踏み入れ、そして帰還した者はその瞬間から等しく人間では無くなっていく。ごく僅かにではあるが、その身体は「魔」に近づくのである。そのお陰か、ハヤテの無謀な特攻は何とか体裁を保てていた。


「お、俺だって…………!!」


 そんな彼の勇み足に触発されたのか、フォルタも顔を上げて飛び出した。


「うぉおおおおぉぉおおおおおッ!!」


 誰もが諦めているこの状況で唯一立ち向かうハヤテの為に、せめて少しでも彼の役に……少しでも隙を作るために。その一心でフォルタは握り直した短剣で鼠の足元を狙う。しかしながら、フォルタは良くも悪くまだ普通の新人だった。


「GAOOOOOOOOO!!!」


「────う………がッ!!?」


 ハヤテと鼠が打ち合う隙間で、フォルタはなんてことの無い鼠の足さばきに無惨に巻き込まれる。間抜けな声と共に彼の身体は逆方向にくの字折られ、そのまま絶命した。


「「…………え??」」


 一瞬の出来事にマリネシアとアイネは何が起きたのか理解が追いつかない。ハヤテも突然視界に映った仲間の死体を見て嵩瞬動揺した。それが命取りになる。


「GAAAAAAAAAA!!!」


 ハヤテの動揺を鼠は見逃さず、即座に攻撃を仕掛けてくる。ハヤテもそれを視認するが反応は間に合わない。


「ッ────ク、そ……………!!」


 回避は不可能、咄嗟に刀での防御に成功するが威力を殺しきれない。ハヤテは勢いよく身体を吹き飛ばされて壁に激突した。


「か、はッ!?」


 致命的な攻撃にはなり得ない。それでも全身を激しい衝撃が駆け巡り、暗りと意識が飛びそうになる。死にはしなかったが、状況的に死んだも同然。


「がはッ……! がはッ……!」


 身体に力が上手く入らず、すぐに立つことはできない。恐らく、胸、肩、足の骨が折れているだろう。唯一の前衛のハヤテが死ねば戦線は即座に崩壊する。


「や、やだ……死にたくない……」


 素直な気持ちがマリネシアの口から溢れ出た。確実に死んだと全員が思う。


「すフゥ───すフゥ───」


 依然として彷徨える強者は健在。奴の足元には一つの死体と、死体同然に倒れる一人の奴隷。それは次に蹂躙するべき獲物をその真赤な瞳で捉えた。


「いや……いや────」


 五体満足の後衛二人は腰が抜けて上手く立ち上がることも出来ない。必然的に地面を這うように後退り、逃げ惑う。鼠はそれを愉しそうに眺めながら、ジリジリと二人に迫った。


 何時しか後退する道も途絶える。酷く冷たい迷宮の壁が彼女たちに「終わり」を告げた。


 ────死んだ。


 今後こそ、本当に確信する。汚らしく涎を垂らした鼠の口元をただ見つめることしか出来ない。その鋭利な歯で身体が噛みちぎられると考えた瞬間に、自然と目を強く瞑る。


「GAAA────」


 荒く、鼻を劈く程の悪臭。目を瞑っていてもすぐそこまで死が迫っていることは理解出来た。マリネシアとアイネのどちらかの身体がその汚らわしい歯牙に犯されようとしたその瞬間────


「迸れ、疾く速く───〈雷光トニトルクス〉」


 ───しかし彼らの間に不意に光が走る。

 突如として生じる衝撃、目を見開き確認するればそれは雷だ。


「ッ!?」


「GAAAAAAAA!!?」


 嘶く雷は粘り着くように鼠へと直撃して、その巨体を焦がす。


 それまでどれほど斬撃や魔法を加えても微塵も効果を見せなかった鼠はいとも簡単に絶叫し、その表情を苦痛に歪めた。


「GA……GAAAAAAA……!!」


 雷は弱点だったのか、たった一度の直撃で鼠は怖気付く。奴は傍らに転がったフォルタの死体を咥えて、颯爽とハヤテ達の前から姿を消した。


「たす……かった───?」


 暗闇に消えた鼠に、呆然とするしかないマリネシアとアイネ。運良く助かったことを喜ぶよりも先に彼女達が思ったことは、「どうして助かったのか?」とそれだけ。


 そしてその答えはすぐに現れた。


「───また、アンタか……」


 ネズミと入れ替わるようにして暗闇の先から現れたのは何時ぞやの酒場で出会った、死臭纏う回収屋ジルバであった。

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