3.

「これはお母さんには内緒にしてもらえるか?」

 お父さんが真剣な表情で言った。少年は真摯にうなづいた。

 お母さんも学者で、学会の仕事だとかでまだ来れてなくて、明後日あたりに後から合流することになっている。お父さんがお母さんに秘密にしたがることなんて初めてだったけれど、少年もなんとなく、それが必要なのだと理解していた。

 男の友情、なんていう大人っぽい単語が頭をよぎる。


「たぶん、お前くらいの歳の頃だな……僕も虫を捕ろうとしていて、ここに迷い込んだんだ。そしてやっぱり、綺麗な白い洋館の前で、白い服を着た、肌の白いお姉さんと会った」

「お父さんも?!」

「何を話したかは忘れたけど、その日は何も捕れなかったのは覚えている。やたらたくさん蝶は居たんだけどなあ」

 親子の視線は、自然と洋館のデッキ……だったものの所に向かう。

「だいぶ後になって、ここが無人の廃墟になっていたことを知った。お父さんがあの女性ひとに会った頃にはとっくに誰も住んでなかったんだって、後から知った。ほんと、何でずっと忘れていたかな、こんな大事なこと」

「ここって結局、何なの? 人が住んでないなら、なに?」

「昔の華族の別荘地……だったらしい。村にもかなりの貢献をした人だったらしい。古い様式を残した貴重な建物だっていうんで、村で保存して観光地に、なんて話も出たらしいが、結局お金とかの折り合いがつかなかったそうでね。定期的に草刈りとかする以外は、ずっとこのままさ」

 少年には華族カゾクが何か咄嗟に分からなかったけれど、何となく昔の偉い人なんだなと思って黙っていた。少しの間をおいて、お父さんはまたひとりで話し始めた。

「昔は……それこそ僕が生まれるよりも前には、結核って病気は本当にどうしようもないものだったらしい。今なら良く効く薬があるから治るけれど、その薬が出来るより前は、ただ空気の綺麗な田舎でじっとしているしかなかったそうだよ。そんな贅沢が出来たのも、お金持ちだけだったらしいけど」

「なにもしない、をしている……」

「ひどい話だが、結核は『美人の病』って異名もあってね。自然と痩せて、肌が白くなって、目は潤み……傍目には儚げな美人の出来上がりさ」

 かすかな消毒液の匂いを思い出す。どうしようもなく感じていた死の気配を思い出す。少年はストレートに尋ねた。

「じゃあ……あのお姉さんは、幽霊ってこと? その昔のカゾクの人が、ここに化けて出たの? お父さんの時と、二回?」

「かもしれないな、と僕は思っている」

 お父さんは科学者だ。普段は科学の研究の仕事をしている。

 けれど、無闇に非科学的なことを否定する人でもなかった。ひょっとしたら将来には証明されるのかもね、と笑いつつ、『まだ分からないもの』への敬意も示せる人だった。少年はそれをよく知っていた。


「――昨日はお世話になりました!」

「っ、お、お世話になりました!」

 突然、お父さんが両手を合わせると、大きな声を上げて洋館の方に頭を下げた。少年も慌ててそれに倣う。

「おかげ様で息子も帰ってこれました! 無学なもので、こういう時の作法なども存じませぬが、心から感謝申し上げますっ!」

「もうしあげますっ!」

 よく分からないままに復唱しつつ、少年はお父さんの意図を察する。

 もしあのお姉さんが幽霊だったなら、失礼なことをしたら祟られたりするかもしれない。なので、ちゃんと『お礼』を言っておく。よく分からないんだとちゃんと認めて、でも、誠意だけでも伝える努力をする。そういうことのようだった。

「……なあ、持ってきてるか、アレ?」

「あ、うん、ここに」

「悪いけど……たぶんそれは、僕たちが持っているべきものじゃないんだ。分かってくれるかい?」

「うん。何となく分かる」

 お父さんの言葉と視線に、少年は肩から下げていた虫籠を持ち直した。何となくこういうことになるんじゃないかと思って、言われなかったけれど持ってきていた。

 中には、例のクワガタが入っている。

 絶滅したはずのクワガタ。新種よりも貴重なクワガタ。お父さんも興奮するくらいの価値のあるクワガタ。

 お姉さんと同じように、数十年の年月を飛び越えて現れたクワガタ。


 少年はそっと虫籠の蓋を開ける。

 甲虫はそれに気づくと、少しだけ迷うように、躊躇うように、慎重に外へと這い出してきて……

 ぶん。

 小さな羽音を立てて飛び立った。

 いったん飛び立てばそれはもう迷いもせずに、洋館の庭を囲む林の中へと飛んでいく。


 幽霊の気配なんてみじんもない、青い夏の空の下。

 同じ女性ひとの影を知る親と子は、見えなくなっても、いつまでもクワガタの去った先を見つめていた。






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