第4話 鳥浪村

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 私が都会から引っ越したのは、つい数週間ほど前のことである。梅雨が明けたばかりだった。太陽は一気に活力を取り戻したようで、運転中はこれでもかとばかりにクーラーをかけていた。軽自動車のほうは妻が運転しており、子どもは私の車両に乗っていた。妻の松坂まつざか祐子ゆうこは、難関大学の非常勤講師だった。だが、私もいるから経済的には困らない。つまりは講師を辞めて、専業主婦になった。お互い四十路よそじだ。私は医者として重宝されるが、非常勤講師くらいはなんとでもなる。だから、これでいいのだ。

 車体が揺れる。下り坂になったようだ。助手席に乗った小学校高学年の息子は、さきほどからえらく静かだ。

「止まって」

 唐突に、息子はそう言った。急ブレーキをかけたが、先程からゆっくりと走らせていたからか、事故にはならなかった。「どうした。あぶないじゃないか」

 息子は若干前屈まえかがみになって、

「この道で本当に合ってるの?」

「心配か? たしかに長い道のりだが、もうすぐ鳥浪村とりなみむらに着くぞ」

 妻から電話がかかってきた。おそらく、今のブレーキについて説明が欲しいのだろう。私は息子の行動をあらかた述べて、祐子を納得させたが、それでも時間の消費を考えると苛立いらだってしまった。おまけに、息子は「……ないんだな」と何かつぶやいている。うっとうしい。車を発進させて、風景を眺めることで気を紛らわせることにした。

 やがて辺りが開けて、鳥浪村とそれを囲む山が見えてきた。

 神秘的で青々とした健全たる木々に、夏の陽光が射し入る様子は言い表せぬほど美しかった。それに対して鳥浪村は頽廃たいはいしており、二階建ての堅固な家を除いては、不安と嫌悪を誘う臭いがこちらまで漂ってきた。あの立派な家が、私たちの新居である。

 一番不憫ふびんなのは、息子の克彦かつひこだと思うが、全員が引っ越しに賛成だった。いじめ、パワハラ――まあ、私にとって転居は好都合だ。それこそ、神の加護を受けたかのように、物事が上手く運んでいる。

 だが、もしかすると息子は危険人物かもしれない。狂気によって得た、恐るべき洞察力がそう告げていた。

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