18

「フローリング、傷ついちゃいましたね」久下はカップを受け取ると、独り言のように呟いて床を撫でた。「修繕費いくらするんだろう」

「……ごめん。ちゃんと弁償するから」悠一は手に持ったカップに口を付けた。紅茶の香りが鼻についた。

「弁償とか、別にいいですよ。でも、事件が解決したら合鍵は返してくださいね。まだ先輩とは仲良くしていたいですし」

 何の衒いもなくそう言うと、久下も紅茶を口に含んだ。

「さて、それではいよいよ事件の解決編といきましょうか」久下の声は弾んでいた。「今回の事件は一つ一つの証拠が乏しく難解ですが、一件ずつ慎重に犯人たり得ない人物を消去していけば、案外簡単に犯人を特定できます」

 久下は分厚いノートを開くと、挟まっていた一枚の紙を床に置いた。「先輩のこれ、結構役に立ちましたよ」

 それは悠一がいつだったかに、事件の概要を纏めていたルーズリーフだった。いつの間に取られていたのだろう。

 久下は悠一の視線に気づくと、曖昧な笑みを浮かべた。

「どうしても一件目と二件目の情報が欲しくて盗っちゃいました。すみません。あんまり昔の事件は、週刊誌だと追いづらいんですよ」悪びれる様子はない。「それより事件の説明に入っちゃっていいですか」

 悠一は特に言うこともなく頷いた。「ああ、頼む」

「承りました。では、全ての推理を一度白紙に戻して、一件ずつ順番に考えていきましょうか。まずは五年前に起きた一件目、間中由佳さんが殺された事件です。この事件では、初め出会い系を使っていた男性と浮浪者が疑われていましたね」

 確か性的暴行の痕が見られたことから、そう言われていた。そうだったな、と悠一が肯定すると久下は首を振った。

「果たして本当にそうでしょうか。実はこの一件目の時点でそんなわけはないと断言ができます。ここで捜査対象を明確にしておけば、あるいはもっと早く事件の収束ができたかもしれないですね」久下は警察を糾弾するように言った。

「そうは言っても、一件目だけじゃ無理だろ。証拠なんて大してないんだから。遊びが派手だった間中さんを殺したのがそういう男性だと思われても仕方がない」

「それですよ、先輩」久下が指を差した。「思い出してください。間中さんが遊びが派手だと示唆する証拠は一体何でしたか?」

「なにって……」悠一は姉に見せてもらったファイルを思い出した。いくつかのアプリの画像が並んでいたあれは……。「出会い系アプリがスマートフォンに入っていたからだ」

 久下は笑顔で頷いた。「その通りです。では、もしその出会い系を使っていた男性が間中さんを殺したのだとすれば、そのアプリがスマホに残っているのはおかしいですよね。被害者と自分を繋ぐ唯一の証拠です。犯人が出会い系の男性なら、真っ先に消去するとは思いませんか?」

「それは……」悠一は口ごもった。

「それに、財布も無事だったということは物盗りの犯行でもありません。強姦目的という線は捨てきれませんが、少なくともこの時点で、出会い系の男性と物盗りは容疑者候補から外すことができるわけです」

 久下は適当な紙に『出会い系・物盗り ×』と書き込んだ。

「さて次は二件目、二年前に起きた木下沙枝さんが殺害された事件です。この事件では一件目と違うところがいくつかありますね。スマートフォンが現場から盗まれていたり、死体損壊の形跡があったり、犯行が激化しています」

 悠一は木下沙枝の遺影を思い出した。幼気な少女があんな惨い目に遭っていたのだと思うと、背中が粟立った。

「生憎、私は殺人鬼ではないので、殺人鬼の思考は分かりません。なぜ胸を切り取ろうとしたのかは犯人以外知り得ないでしょう」久下は皮肉っぽく言った。「でもスマートフォンを持ち去った理由は分かりました。さて、ここで問題です。一件目では何の興味も示さなかったはずの遺留品を、犯人はどうして持ち去ったのでしょうか」

「突然戦利品が欲しくなったとか、収集癖だったとか……一件目から三年も空いてるんだ。理由なんていくらでもあるだろ」

 悠一はぶっきらぼうに答えた。事件を愉しんでいる久下の不謹慎さに苛立っていた。

「そうですね。確かに思考を放棄すれば、いくらでも理由はこじつけられます。素敵な回答ですよ」しかし久下は尚も愉悦の笑みを湛えていた。「では、もっと意味のある行動だったとしたらどうでしょう。例えば、木下さんのスマートフォンに自分と繋がる証拠があったとか」

「なんだって……?」

「物はなんでもいいんですが、まあ考えられるのは写真ですかね。恐らく、木下さんのスマートフォンには犯人が写った写真があったのでしょう。現場となった公園は人通りが少なく、それに雪も降っていましたから、さぞかし綺麗な雪景色が撮れたと思います。それを背景に犯人を撮影していたんじゃないでしょうか。もしくは撮影してもらっていたか。いずれにせよ、それを隠蔽するために現場からスマートフォンを持ち去ったと考えるのが自然ですね。写真や指紋が見つかったらまずいですから」

 木下沙枝は雪が好きで、写真を趣味にしていたと、悠一は実の父親から聞いていた。クリスマスプレゼントにカメラを買う予定だったことも聞いた。スマートフォンを持ち去った理由も冷静に考えれば、簡単なことだった。

「収集癖だなんて、そんな単純な理由だったら推理も楽だったんですけどね」久下は柳眉を顰めた。「先輩が一体誰からそんなことを聞いたのかは知りませんが、その素敵な推理は一旦全て忘れてください。私がその代わりの答えを差し上げますから。先輩は私のことだけ信じてください。ね?」

 久下はぞっとするほど冷ややかな目をしていた。口許には笑みが浮かんでいるのに、目が据わっている。悠一のカップを握る手に力がこもった。

「さあ、二件目でもう犯人像が大まかに決まってきましたね。犯人は木下沙枝さんと仲の良かった人物です。父親の証言から犯人が『カナちゃん』と呼ばれる人物なのも分かっています。恐らく上央の生徒でしょう。私のあだ名と被るのが癪ですが、そのまま書いておきますか」

 久下は紙に『カナちゃん 親しい友人(上央生)』と書き込んだ。

「それにしても、警察は何をやってたんですかね。親族を疑うなんて、いくら何でも浅はかですよ。この程度少し考えれば分かることなのに。本当に信じられません」久下は不服そうに零してから、「先輩のお姉さんは責めてないですからね」と手を振った。

「別にどっちでもいいよ。それより、三件目は」

 悠一は投げやりに答えた。久下の飄々とした態度のせいで、これがとんでもない茶番に思えて仕方がなかった。

「三件目も二件目と考え方自体は同じです」久下は引き際を弁えているのか、真面目な顔に戻った。「三件目、蜷川かがりさんは大学近くの国道で殺されていました。今までと同様、死後に性的暴行の痕がありましたが、服を脱がされてはいませんでした。この差違が何を意味するのかは私には分かりません。事件が解決したら犯人にでも聞いてください。さて、しかしこの事件でも現場から失くなっているものがありましたね」

 久下がこちらに目を向けた。悠一は溜め息をついてから答えた。

「……財布だよ。恋人の、野月世奈さんからのプレゼントだ」

「はい、正解です。でも野月さんが犯人というわけではありません。もちろん、木下沙枝さんと仲良くなかったという点から否定できますが、野月先輩のアリバイに関してはもう少し後で詳しくお話ししますね」

 久下はそこで紅茶を一口啜ると、指先で唇を拭って続けた。

「この財布も二件目と同じような理由から盗まれたと考えることができます。なにかしら犯人に繋がる証拠があったのでしょう。では、果たしてその証拠とは一体何なのか。指紋がついていたから? いいえ。いくら仲が良くても人の財布はそう簡単に触れませんよね。今から殺す相手のものだとしたら尚更です。では、写真でしょうか? 財布にプリクラを入れている人もいます。それを隠滅するために財布を持って逃げたのでしょうか。それもなんだか釈然としませんね。あり得ないとはいいませんが、かがりさんはそういうタイプではありません。では、何が狙いだったのでしょう」

 久下は焦らすようにそこで一拍おいた。

「何が狙いだったんだよ」

 悠一が先を急かすと、久下は先ほどの漫画喫茶のレシートを掲げた。「これですよ」

「……レシート?」悠一は首を傾げた。

「はい。恐らく犯人は事件の当日、かがりさんと出かけていたんでしょうね。そして、そのときのレシートがかがりさんの財布に入っていたので、それを回収したかった。店の防犯カメラを見られたらまずいですからね。でもかがりさんが財布のどこにレシートを入れているかは分かりません。なので手っ取り早く財布をそのまま持って帰ったんでしょう」

 もしかしたら、野月先輩に罪を被せようって気があったのかもしれませんけどね。久下はそう言って、レシートを仕舞った。

「さて、そうなると犯人はかがりさんと一緒に出かけることのできる人です。そして、かがりさんの財布にレシートがあるということは、会計をしているのはかがりさんで間違いないでしょう。では一緒に出かけていた犯人の性別と年齢はもう分かりますよね」

 久下はまた悠一を見た。悠一は数秒迷ってから、結局は答えを口にした。

「……犯人は年下で、恐らく女性だ」

 悠一は紅茶で渇いた喉を潤した。犯人像が近づいてくる度、悠一の中で得も言われぬ不安が沸き起こっていた。それでも、久下の言葉が止まることはなかった。

「その通りです。もし犯人が男性ならかがりさんに払わせたりしないでしょう。その方が財布を持ち去るリスクを冒さなくて済みますから。でも、きっとかがりさんに強引に払われてしまった。そういう立場の人間はきっとかがりさんより年下で、女性に当たるでしょうね」

 久下は紙に『年上・男性 ×』と書いた。

「どんどん行きましょう。続いて四件目、つい先日起こった君島若菜さんが殺害された事件についてです」

 久下は自身の友達をまるで他人のように呼称した。恐らく感情的にならないようにだろう。悠一はそれを言及することもなかった。

「四件目は今までの事件と違うところがたくさんありますね。紛失物はなし、性的暴行の痕もなし、そして現場も昼間の自然公園でした。一体どうしてでしょう」

 悠一は答えなかった。これ以上犯人に近づけば、自分の望まない結末が待っていると察したからだ。

 けれど久下がそれを許してくれなかった。頭を固定され目を覗き込まれる。

「答えてください。どうしてでしょう。どうして、犯人はそんな場所で若菜さんを殺したんでしょう。人に見られる危険性があるのにも拘わらず。今までのように人気のないところに呼び出せば良かったのに、なぜでしょう」

「呼び出されたからだ。君島さんが、きっと犯人を呼び出した。犯人が場所を指定したわけじゃなかったんだ」

 悠一が口早に答えると、久下の手がようやく離れた。悠一は思わず久下から距離を取った。久下はその様子を見ると、満足そうに笑った。

「いい子ですよ、先輩。これからも私の質問にはちゃんと答えてくださいね。たとえ犯人が先輩の望まない相手だったとしても、お姉さんを殺した仇であることに変わりはないんですから。甘えないでください。先輩に足りないのは自覚ですよ」

 その言葉でようやく理解した。久下のこの妙に冗長な推理ショーは、悠一に教えるために行われているのだ。自分の手で犯人を特定するというのがどういう意味なのか、その責任を久下は示そうとしている。

「少し話が逸れましたね」久下は変わらず笑みを浮かべていた。「そうです。先輩の言うとおり、四件目の発端はそもそも被害者にあったのでしょう。犯人を呼び出し、けれど殺されてしまった。非常に分かりやすい構図です」

 そこで久下は表情を引き締めると、でも、と続けた。

「それだけでは納得いきませんね。どうして若菜さんが犯人をわざわざ呼び出す必要があったのか、それが不可解です。この謎を解くヒントとなるのは、現場に残されていたあの怪文書ですよ」

 悠一は整然とした文字の連ねられた、悪意の塊のような手紙を思い出した。『ずっと見ているぞ』あの手紙にはそう書かれていた。

「あの手紙の送り主は瀬川秀介さんだと判明しているんでしたよね。なので私たちは犯人とストーカーを切り離して考えることができます。しかし、若菜さんはどうでしょう。ストーカーが誰かなんて主観でしか考えられません。そうなったとき、心当たりがなにかあったのでしょうね。そのせいで勘違いをしてしまい、不幸にも若菜さんは犯人を呼び出す羽目になってしまった」

 久下は感情を見せることもなく淡々と言った。

「それでは、どうして呼び出す必要があったのでしょう。ストーカーが誰なのか分かった時点で警察に行けば良かったのに、若菜さんはなぜか犯人を呼び出しました。それはなぜなのか。答えは簡単ですね。ズバリ、ストーカーをしていると思った相手が自分の友人だったからです」

「ストーカーが友人?」悠一は繰り返した。

「あ、私ではないですよ」久下は冗談めかした注釈を加えてから続けた。「きっと若菜さんはその友人がストーカーであると思い込んでいて、その思い込みにはある程度の根拠があったのでしょう。数日前、私が言ったこと覚えていますか? ストーカーに心当たりがないか聞いた際、若菜さんは『恨まれているのかも』と、そう言っていたんです」

「それは確かに聞いた。でも、その恨まれてるってのは一体どういう意味なんだ。若菜さんは誰かと諍いを起こすような子じゃなかったんだろ?」

 悠一は図書館の書棚整理をしていた君島若菜の姿を思い返した。お淑やかで真面目な少女が、たとえ逆恨みであっても、誰かから恨まれるのは想像できなかった。

「ええ。若菜さんはどこにでもいる、ごく普通の真面目な女子生徒でした。ボランティアに積極的で、かといって目立つ子でもないですから、誰かから恨みを買うようなことはなかったでしょうね。だから、きっと全て若菜さんの被害妄想だったのですよ」

「被害妄想?」

 悠一が聞き返すと、久下は人差し指を指揮棒のように振りながら話を続けた。

「若菜さんの恨まれているという発言に至るまでに、なにかしらの行動があったはずです。例えば借金を踏み倒したとか、恋人を奪ってしまったとか、もっと些細なことでいえば水を掛けてしまったのかもしれませんし、不用意な発言をしてしまったのかもしれません。この内、前の二つはあり得ませんね。若菜さんはそんな人間ではありませんから。では、水を掛けたり、不用意な発言があったのかもしれませんが、これがストーカーに繋がるとも思えません。ではなぜ若菜さんは被害妄想に駆り立てられるようになったのか」

 久下は注目を集めるように、振っていた人差し指を立てた。

「これはあくまで私の想像なのですが、恐らく若菜さんは犯人の秘密を知ってしまったのでしょう。犯人が一番知られたくない秘密といえば、殺人を犯していることです。でも、若菜さんはそれをたまたま目撃してしまい、ちょうどその頃からストーカー被害も始まったので、犯人とストーカーを結びつけてしまった。こう考えるのが一番自然です」

「なら、そんな勘違いを起こさなければ、若菜さんが殺されることもなかったってことか?」

「そういうことです。若菜さんが友達想いなばかりに殺されてしまったんですよ。本当に、やりきれないですよね」

 久下は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにそれを隠すような笑みを浮かべた。

「さてこの犯人は、恐らくただの友人ではないです。わざわざ話し合いの場を設けるくらいですから、そこそこ付き合いが長く、若菜さんが大事に思っていた友人になるでしょう。若菜さんは交友関係が広い子ではないですから、もうだいぶ限られてきますね」

 久下はそう言って、紙に『若菜さんと親しい友人』と書いた。それから思い出したように、そういえば、と口にした。

「野月世奈さんのアリバイに関してはここで証明できるんですよ。四件目が起きたのは文化祭の一日目です。野月先輩はその日、ステージの上で司会をやっていました。他にも搬入や呼び込み、見回りなど仕事も多かったはずです。昼休憩のときすら誰かと一緒にいたそうなので、四件目を起こすことができません。つまり一件目から三件目の犯人でもないというわけです」

 久下は『野月世奈 ×』と書き足すと、嫋やかな笑みを浮かべた。

「さあ、いよいよ大詰めです。お待ちかねの五件目、昨日、深見盟さんが殺害された事件についてです。この事件では、盟さんの婚約者である瀬川秀介さんが亡くなっているせいで少々ややこしいことになっていますね」

 久下はそう言ってから、顔を歪ませた。

「まったく。これを重要視するあまり警察は及び腰になっているようですが、私に言わせれば愚の骨頂です。瀬川さんは今回の事件に一つも関係ないというのに」

 悠一は目を見開いた。「関係ない?」

「ええ。確かにそれぞれの被害者と多かれ少なかれ交流はあったようですが、瀬川さんは、四件目であの怪文書が現場に残されていたことからも分かるとおり、今回の事件においてはスケープゴートでしかありません」

「じゃあ警察がどれだけ瀬川さんも追っても……」

「何も出てこないでしょうね。死ぬタイミングが良かったせいで事件と関係あるように見えますが、瀬川さんは本当に事故死したんですから」

 これについても簡単に説明しておきましょうか、と久下は人差し指を立てた。

「まず私が昨日漫画喫茶に泊まった理由を思い返してください。なぜ、わざわざ外泊をする必要があったのでしょうか」

「雨が酷くて、電車が運休になったからだ」悠一は一息に答えた。

「正解です。昨日は夜の七時頃から電車が運休しました。再開は今朝の始発から。道路も酷い渋滞で、更にタクシーはどれも出払っていて、あの駅にいたほとんどの人は足止めを食らっていました。私もその内の一人で、恐らく瀬川さんも同じでしょう。さて、盟さんが殺されたのは七時半で、瀬川さんは八時頃でしたね。それぞれの現場は、電車が動いていても片道三十分かかる道程です。では、その状況下で瀬川さんに盟さんを殺すことはできるでしょうか」

 答えるまでもなかった。悠一が首を振ると、久下は満足そうに頷いた。

「そうです。そして、それは犯人も同じでした。盟さんと瀬川さんの両方を殺すなんてことはできません。つまり、瀬川さんは本当に、偶然、盟さんとほぼ同時刻に事故死してしまったのですよ」

 久下はそう断言して、『瀬川秀介 ×』と書き込んだ。悠一は頭の中で他の可能性も考えてみたが、どう足掻いても七時半に盟を殺し、八時に主要駅に到着していることはできなさそうだった。

「本当に警察は何をやっているんでしょう。呆れを通り越して笑えてきますね」書き終えた久下が鼻を鳴らした。「身内が殺された事件なのに、この程度のことも冷静に考えられないなんて」

 あるいは身内だからこそでしょうか。久下の目が細められた。冷たい目が悠一に向く。

 悠一は答えず、「それより、もう犯人は分かってるんだろ」と聞いた。「早く教えてくれよ。犯人は誰なんだ」

 しかし久下は冷たい視線のまま悠一を睥睨すると、これ見よがしに首を振った。

「ダメですよ、先輩。さっきも言ったじゃないですか。甘えないでください。探偵役の私が行うのは推理することだけです。犯人が誰かを答えるのは先輩ですよ。そうじゃきゃ、意味がない。本当はもう分かっているでしょう? これは先輩自身がけりを付けるべき事件です」

「俺が、けりを……」

「それとも先輩は許せるんですか? 大事なお姉さんを殺した人間を。許せないでしょう? 私に向けた殺意はまだ消えてないでしょう? 大丈夫です。もし犯人を殺すのなら、私もお手伝いしますから。絶対、私だけは裏切りません。信じてください」久下は甘やかな声で言った。「さあ、犯人の名前を教えてください」

 それでも悠一は答えられなかった。これを口にしては、万が一外れていたとしても、それこそ裏切りだと思ったからだ。

 久下はそれに溜め息をつくと、「手の掛かる人ですね」と零した。

「では、もう最後のヒントを差し上げます。先輩が疑う余地もないほど犯人に近づける推理です」

 久下はにっこりと笑った。こんな状況でなければ、よほど魅力的に見えた笑顔だ。悠一はもう逃げられないことを悟った。

「盟さんの殺害現場からも失くなっていたものがありましたね。でも、それと同時に失くなっていないものもありました」

「失くなっていないもの……」悠一は繰り返した。

「ええ。分かりませんか? では先ほど話したみたいに、また盟さんの遺体の状況を話してみてください」

 悠一はあまり気乗りしなかったが、言われるがまま、天野から聞いたことを話した。

「遺体は三件目の間中由佳さんが殺された現場と同じ場所で見つかった。死因は、後頭部を殴打されたことによる脳挫傷。今までと同様……、女性器に凶器の角材が挿入されていた」悠一は浅く息を吐いた。「現場から持ち去られていたのは婚約指輪で、その他の金品などは盗られておらず、雨のせいで犯人の痕跡は残っていなかった……。こんなところだ」

「はいその通りです。では、盗られなかった金品とはなんのことですか?」

「何って、財布とスマートフォンと、あとは……」そこで悠一はハッとする。「腕時計だ。俺がプレゼントした、腕時計」

 悠一はポケットの重みを確かめた。雨ざらしで壊れていた腕時計が入っている。天野が盟の遺体の近くに落ちていたと言っていた。落ちていたということは、つまり……。

「犯人が一度外してますね」見透かすような目で久下が言った。「ではなぜ外したんでしょう。単純です。最初に盗ろうと思ったのは腕時計だったから。でも、何らかの理由で盗むのをやめて、婚約指輪に変えた。さて、その真意はなんでしょう」

 久下は楽しそうに目尻を下げて悠一を見た。致命的だった。悠一は空のコップに口を付けた。

「犯人は知っていたんですよ」

 悠一が答えあぐねていると、代わりに久下が答えを口にした。

「お姉さんの腕時計が先輩からのプレゼントであることも、そして先輩が婚約者を嫌っていることも。全部を知っていたんです。そんな人間限られますよね。先輩、友達少ないですから。私と、あとは誰でしょう」

 悠一は生唾を飲み込んだ。久下はますます楽しげに笑う。彼女はこの期に及んでも、紙に『先輩と仲がいい』と書き足すのを忘れなかった。

「さあ、それでは今までの犯人像を振り返ってみましょうか」

 もう答えはでているというのに、久下は逃げ道を塞ぐように紙を掲げた。やめてくれと叫んだはずの悠一の声は、喉の奥でうめき声となった。

「一件目、援交相手や出会い系で知り合った人間は違いますね。二件目、沙枝さんと仲が良く、『カナちゃん』と呼ばれる人物です。三件目、男性と年上は違いますね。また、かがりさんの恋人、野月世奈さんも違います。四件目、若菜さんと仲が良かった人物です。そして五件目、先輩の家庭事情を把握できていた人間です」久下が目を細めた。「そんな人物、一人しかいませんよね」

 ここまでお膳立てされて、答えないという選択肢はもう残されていなかった。

 悠一は舌を縺れさせながら、犯人の名前を口にした。

「正解です」久下はふわりと柔らかい笑みを浮かべた。「そうですね。この条件を満たせる人はその人しかいません」

 悠一は拳を握りしめた。掌に爪が食い込んだ。久下はその手を掴むと、「それで、どうしますか」と言った。

「私はどちらでも構いませんよ。先輩が犯人を殺そうと、捕まえようと。先輩に従いますし、どこまでも付き合います」

 悠一は繋がれた手に目を落とした。

「どうしますか?」

 これは甘言だ。

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