三 写真 -3-

 結局、根贈の生育地を見つけることはできずに迎えた翌日。大穴に赴いての作業は、家茂と健のみで行われることになった。

 各深度での撮影がつつがなく行われ、後藤は今日、そのフィルムの現像作業を行うということだ。現像には、学校にあるという暗室を借りることになった。暗室での現像作業が気になったので、俺もまた後藤についていくことにする。

 今日は祝日のため、学校は休み。昨日のうちに役場を通じて暗室利用の許可を取ったが、特に鍵などが貸し出されることはなかった。都会の学校ではありえないことだが、勾島の学校には鍵を閉める習慣がないらしい。そもそも、勾島では玄関に鍵をかけている家も見ない。

 俺と後藤は、案内をかって出てくれた夏久に従って、昇降口から校舎の中へと入る。そのまま、職員室や保健室などの特殊教室が並ぶ一階の廊下を進んでいく。校舎はやや古いものの、中の様子は一般的な学校と何ら変わりない。生徒のいない校舎は静まり返っていて、少しだけ物悲しさを感じた。到着したのは、美術室らしき教室を通り過ぎた廊下の突き当たりだ。黒いカーテンが内側からかかっている教室の前に、夏久は立ち止まる。

「ここが暗室」

 短い夏久の言葉に促され、後藤が部屋の中へと入っていく。よく喋る千秋と比べれば冬夜もそう多弁な方ではないが、夏久はいっそう寡黙だ。必要があるときを除き、こちらから話しかけないと基本的には口を開かない。

 俺も後藤に続く。日中だというのに、暗室の中は名前通りの暗闇だ。後藤が電気をつけて、ようやく部屋の中の様子を見てとることができるようになった。施設としては一般的な暗室と何も変わらないが、全体的にうっすらと埃をかぶっている。

「あまり使っていないのかな?」

 俺が問いかけると、夏久はこくりと頷いた。

「幸い、現像に必要な薬液や道具は足りているみたいです」

 後藤が薬品棚をたしかめて、安堵の息を漏らしながら言った。

 それから荷物を下ろして、現像作業に取り掛かる。大きな四角い容器の中に、大きめのカップを複数並べて用意し、そこに薬液を揃えて温度を測りはじめた。薬液が保管用のポリタンクから出されると、鼻をつくような酢酸独特の匂いが漂いだす。

 後藤は次にカメラからフィルムを取り出すと、筒状の金属製のタンクとフィルム、機材を黒く四角い箱の中に入れて蓋を閉め、箱の横に空いている穴から手を入れて、なにか作業をしはじめた。

「それ、なにをやってるんですか?」

「この箱の中で、フィルムを巻き付ける作業をしているんですよ」

「暗室で現像っていうと、赤い光の中での作業っていうイメージだったんですが」

「ああ、それはこのフィルムを現像して、印画紙に焼き付けたあとの作業ですね。このあとやりますから、お楽しみに」

 すべての作業が箱の中で行われているため、俺たちからは見えない。しばしの作業のあとに、後藤は箱の中からタンクだけを取り出した。タンクの中に、温度を測っていた薬液の一つを注いでいく。一度薬液を注いだらそれで終わりというわけではなく、薬液を入れて時間を測りながら待ち、その薬液を排出して、次の薬液を入れるという作業を繰り返す。後藤の手つきは実に慣れている様子で、その後の作業も淀みなく続いた。


「夏久くん」

 少し迷ったが、俺は夏久へと声をかけることにした。後藤の様子を見ていた夏久の視線が自分へ向けられるのを待ってから、意を決して、言葉を続ける。

「春樹くんが死んだ夜、何か気づいたことはないかな」

 夏久の瞳がわずかに見開かれ、続いて浮かぶのは悲しみの色だ。普段ほとんど感情を表に出さない夏久の珍しい表情は、彼の悲しみがどれほど深かったかを感じさせる。彼の顔を見て胸が痛むが、これは聞かねばならないことだった。

 昨日、立川の船で春樹のヘアピンを見つけてから、大きな疑念が再び頭をもたげていた。あの衝撃的な朝から一週間以上が経ったいまでは、警察である士郎を含め、もはや誰も春樹のことを口にはしない。しかし、あれはどう見ても殺人事件だった。春樹がまるで、不幸な事故にでもあったかのように島の中で処理されてしまったこと、それ自体が異常だ。

 しばし黙って夏久の返事を待っていると、彼は俯きながらも口を開き、しっかりとした口調で話し始めた。

「士郎さんにも話したけど。おれが寝たのは真夜中ぐらい。その前の一一時くらいに、部屋の前の廊下を横切っていく人の足音を聞いた。だけど、それだけ。あとは寝て、朝に浅野さんの声で起きた」

「足音はどの方向からどこへ行ったかとかは、分かるかな?」

「千秋と春樹が寝てた隣の部屋の方から、風呂場の方に向かってた」

「帰っていく音は聞いてないかな?」

「寝ちゃったんで……」

 彼の端的な言葉には、納得するしかない。しかし、夏久は言葉を続ける。

「でも……おれのいた部屋の前の廊下、歩くと結構大きく軋む音がするんだ。それで一一時のも印象に残ってんだけど。おれ、そんなに眠りが深い方でもないんで、もしあの音がまたしてたら、気づいていたような、気は、する」

 訥々と語られる内容に、俺はしっかりと頷く。

 千秋は、一一時ごろに春樹が部屋を出ていったと証言していた。そして、その隣の部屋の夏久は、同時刻に部屋の前を横切る足音を聞いている。であれば、足音は春樹本人のものだったと考えて間違いない。玄関とは逆の風呂場の方向へ向かっていて、帰ってきた様子がないのなら、春樹はいったいどこへ行ったのか。

 俺があの晩のことを考え出し、しばらく経った時、

「電気消しますね」

 と後藤から声をかけられた。スイッチの音とともに暗室は赤い灯りに包まれ、別世界へと変わる。ようやく暗室らしくなった室内で、後藤は慣れた様子で作業を続けた。

 深さ一〇〇メートルから、一〇〇メートルごとに撮影ポイントをずらし、一〇秒間の猶予で撮影ができた五〇〇メートルまで。つまり、五地点でそれぞれ一〇回撮影をしているため、写真は五〇枚ある。

 はじめは、後藤の作業をただ眺めていた俺と夏久だったが、

「もしよろしければ、手伝っていただけますか?」

 という要請を受け、作業に参加することになった。

 後藤がネガフィルムから印画紙へと露光作業を行い、各薬液の入ったバットと呼ばれる平たいプラスティックの容器にできあがった印画紙を入れる。次に俺と夏久が時間を測りながら、別の薬液の入ったバットへ印画紙を流れ作業で移し、最後は壁から壁へと渡したロープに吊って乾燥させていく。

 俺は、後藤が入れた印画紙を、トングを使って薬液の中で揺らして次のバットへと移す最初の工程を担当した。真っ白だった印画紙に、写真の像が少しずつ浮かび上がってくる様子を見るのは純粋に楽しかった。もっとも、感動したのは最初の一〇枚程度で、そのあとは完全な流れ作業になったのだが。

 後藤の持ってきていたフィルムはモノクロフィルムだけだったため、写し出されるのは、すべてが白黒の写真だった。大穴の中の様子を撮影しているため、写真の内容は、基本的には変わり映えがしない。断崖の岩肌に所々木が生えている、という像ばかりが続く。後藤が露光作業と同時に、写真が撮影された地点と回数をナンバリングして記しているため、写真の右下を見れば、その写真が撮られたポイントが何メートル地点のものなのかが、すぐにわかるようになっていた。

 つづがなく作業が進み、地上から三〇〇メートル地点を撮影した写真を薬液に浸したときのことだ。俺は、その写真の隅に浮き上がった白いものに、目が釘付けになった。フレームアウトしているために、それがどこから来ているのかはわからない。しかしそれは、現像のミスを疑いようがないほどにはっきりと写っている。

 作業の手を止めた俺に、後藤が不審の眼差しを向けてきた。

「後藤さん……これ、後藤さんも見えていますか?」

 いままで数多くの幻覚を見てきた俺は、自分が信じきれなくなっていた。思わず、そんな間の抜けた問いかけをしてしまう。しかし今回は、写真を覗き込んだ後藤の表情が俺と同じように引き攣った。それは、彼も俺と同じものを見ているということを意味している。

 前人未到のはずの大穴の中に、軽く下向きに垂れた、人間の白い腕が写り込んでいた。

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