三 写真 -2-

 それから約一時間後。俺は冬夜と共に、立川の操舵する船の上にいた。

 家を訪ねたとき、立川は冬夜の言ったとおりに、家で昼食をとっているところであった。船を出して島を一周回ってくれないかと頼むと、急なお願いにも関わらず、彼はいっさい厭う様子を見せずに快諾してくれた。それどころか、獲れたての魚で作った昼食までご馳走になった。理由は聞かなかったが、立川にも瀬戸同様に妻がいないようだ。男飯といった様子の豪快な料理は、非常に美味しかった。

「もう少しだけ、島に船を近づけられますか」

 先ほど岩場から見えていた棚状の地形に近づき声をかけると、立川は船を操って、ギリギリのラインを攻めてくれた。

「これが限界です。これ以上近づけると座礁の危険がありますので」

「ありがとうございます」

 船は、崖からはある程度離れたところに停まった。

 崖にへばりつくように存在するその場所を見上げるが、ここから何かをして上陸するのは難しいように思われる。つまり、もしあの場所に根贈があったとしても、気軽に採取はできないということだ。

 門外漢である俺でも、立川の船を操る腕がたしかであることはわかる。島の海に精通した歴戦の漁師がそう言うのだから、誰であってもこれ以上の接近はできないのだろう。

 その場所の様子は肉眼でも見えていたが、持参してきた双眼鏡を覗き込んで、そのごくわずかなスペースに生えている植物を観察した。生えている木はスダジイで、根本のあたりをおおっているのは、そのほとんどがスズメノカタビラやドクダミ。つまり、純然たる雑草だ。崖の途中に存在するその場所を隅から隅まで目を凝らして見ても、根贈らしき植物は見当たらない。

「何かありましたか?」

 冬夜に問いかけられ、首を横に振る。

「立川さん、このままゆっくりと島を一周回ってください」

 俺は諦めて、別の場所を探すことにした。それからはゆっくりと船を進めてもらいながら、時折船を停めて、気になる箇所を観察する。しかしながら、根贈どころか他に興味を引かれるような植物さえ見つけることはできなかった。

 船は進み、大穴付近の崖に近づいた。海から見ても、その辺りはただの断崖絶壁である。この断崖の中に、俺たちのいまいる海面よりもさらに深い場所まで貫く穴があいていると考えると、妙な気持ちになる。

 大穴調査の成功可否は俺には関係がないことだが、穴の中がどうなっているのか、穴の下にはなにがあるのか、知りたいと思う好奇心はある。調査は順調に進んでいるだろうかと、崖の上に視線を向け、俺は体を硬直させた。

 崖際に人が立っている。その人はなにか大きなものを横抱きにして持っていたが、不意に手にしていたものを宙へと投げ出す

 声を上げる間もなかった。

 投げ捨てられたものは、また別の人の体であった。その者が身に纏っている着物のような白い布が風に煽られて翻る。ただの落下物となった肉体は、重力に引かれるままに落ちていく。体が船体真横の海面に叩きつけられた瞬間、大きな水音が上がった。

 俺は慌てて船の縁に向かった。そのまま海面を覗き込むようにして身を乗り出すが、いくら目を凝らしても、落ちてきたはずの人の姿は見当たらない。

 そこで、少し遅れて違和感に気づいた。人が落水した音は上がったが、水飛沫は上がらなかった。あの高さから落ちて、水飛沫が上がらないなどということはあり得ない。つまり、これは幻覚と幻聴か。崖の上に視線を向けるが、そこに立っていた人影はいなくなっていた。

「浅野さん、どうかしたんですか?」

 横に座っていた冬夜が声をかけてきた。彼が海に落ちた人に気づいた様子はない。むしろ、突然体を乗り出して海面を覗き込みだした俺の行動に驚いている。

 俺は、自分が幻覚を見ていたに違いないと確信した。早鐘のように早まった鼓動を感じながら、取り繕うように胸を抑え、首を振る。

「い、いや。なんでもない」

 特に指示をしていなかったので、船はゆっくりと進み続け、大穴側の崖からも離れていく。

 船に腰掛け、頭を抱えるように俯いた。そのまま深く息を吐き出し、また、動きを止める。

 視線の先、甲板の隅の物陰に、小さな煌めくものを見つけた。手を伸ばし、指先で摘んで拾い上げる。はじめは漁具の部品か何かかと思われたそれは、よく見ると銀色のヘアピンだった。小さな輝きを見つめていると、記憶の中のある姿が思い出される。

 これは、春樹が身につけていたものだ。

「浅野さん、このまま港に戻っていいですか」

 立川に声をかけられ、体が震えた。立川に気づかれないように、ヘアピンを自分のズボンのポケットへと滑り込ませる。

「ええ、よろしくお願いします」

 咄嗟に浮かべた自分の笑顔を、我ながら嘘くさい笑みだと思う。

 この春樹のヘアピンが、いつ立川の船に落ちたのかは定かではない。そもそも、春樹のものではないかもしれないし、春樹が複数同じものを持っていて、昔乗ったときに落としたのかもしれない。

 だが、しかし。

 春樹の無惨な死体が、水が滴るほどに濡れていたことを、俺は思い出さずにはいられなかった。

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