第17話 日本語のすすめ(3)

 読解力と筆力の説明よりは、根本にある日本語について書こう。

 日本語を正しく学び、実際に文章を書くためにはどうすればよいか。


 ――たくさん本を読めばいい、と思う。


 実に明確だ。

 これを明確でないとするならば、好きなジャンルの本を千冊読めばいい、と僕は言う。あるいは、教科書に載るような作品を千回読むか。


「無茶だ。できるわけがない」


 と思うならば、とりあえず本を読んでほしい。何も言わずに、本を読み続ける。本が好きならば、自然としていることだろう。忙しい人でも、本を読みたくなるならば、十分本好きである(それか、専門書に取り憑かれているだけか)。


「一日で千冊読め」と言っているのではない。だから、少しずつでもいいから本を読んでほしい。そうすれば、読解力はつくように思う。


 それは、小説でなくともよい。できれば小説が好ましいように思える。だが、あくまでも日本語を固めるために読書をするのだ。だから、好きな本を読めばいい。


 ここまで書くと、義務教育でも理にかなっているように思える。


 しかし、それこそが日本語の落とし穴だ。


 教師が、ズレた感覚(=一般的な感覚だけ)を持っている場合だ。

 これは、けして世界中の国語教師を批判しているわけではない。だが、実際にいると思う。教科書を信じ切っている教師というのが。


 教師用の教科書では、作品について分析された情報が載っている。しかし、それを執筆するのは作者自身ではない。あくまで他人である。ひとつ例を挙げよう。


 五味太郎という絵本作家がいる。

 とある高校が、自身(=五味太郎)に触れたテストを作ったというので、実際に受けてみたらしい。

 すると驚くべきことに、自分が「これだ」と思った選択肢がなく、回答用紙でいくつも不正解にされたというのだ(実話)。


 このように、作者とズレた感覚を、他人は持っているかもしれない。さらに、そのズレた感覚は、物語の解釈だとされて教科書に載っているかもしれない。


 つまりは、学校という場だからこそ、生徒は疑うことを忘れてしまうのだ(まれに希少種もいる)。


「教師の言うことが、絶対だとは思わない。だけど、まさか授業内容はね」


 ――授業内容には、正しい情報が詰まっている。


 この考えが危ないというのだ。

 読解力というのは、ひとつの考えに疑うことも大切である。ときには、自分の考えさえ疑ったほうがいい。それを踏まえて、意見を変えるのも、あるいは変えないのも自由である。


 ――人は、人に支配されるものではない。


 だが、この創作論に感動した人は、疑ってかからないでほしい――というのは、作者の思いである。


 読解力とは、今説明した考えと、単純に浅い理解の両方を指している。


 読み解く(理解・自分で思考する)。

 読書をする(=内容を理解する)。


 これほどの差がある。

 もし、「きれいな文章」を書きたいならば、(物語にふさわしいという意味で)きれいな日本語を使わなければならない。


 ここで言う「きれい」は、「適切な」という意味に代えても、差し支えないだろう。


 つまり、文章においては「オリジナリティ」よりも、適切な日本語が重視されるのである。


 たくさんの文章を読んで、自分の書く日本語に、違和感を覚えるといい。それと同時に、わからない語句は辞書等で調べて、インプットする。一度で暗記せずとも、何度も文章に触れていれば、自然とおぼえるようになるだろう。


 日本語に感じる違和感を、敏感にしようというのが僕の考えだ。


※『日本語練習帳』(大野晋)は、文章を書くうえで二番目に役立った。一番役立ったのは、読書をして、人の文体の真似から始めることである。

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