第9話 嫌われる理由

 作家とは、孤独な生き物だと常々思う。自分の世界に陶酔とうすいするだけで、評価されずに散っていく。よくある話だ。よくあってたまるものか、とも思う。


 物語に多面性があればあるほど、作品を嫌う人も同時に出てくる。


 太宰治はまさしくそうだ。彼の代表作『人間失格』は、読む人によって大きく好き嫌いがわかれる。嫌いな人は、とことん批判的なかたが多い。たとえば、こんな作品書く必要がない、だとか、作者がうぬぼれているだけだ、とか言いだすとキリがない。また、この作品に対して「暗すぎる」という人はとても多い。太宰治が好きな人でも、よくそんなことを言う。


 しかしそれは、良くも悪くも人に好かれているということだ。有名な作品だから、ひとまず読んでみよう――そう思ってもらえるほどには、どこかしら信者をつくる魅力があったのだろう。


 僕は流行語が嫌いだが、あえてすたれる(と勝手に思っている)言葉で言うならば、ある人にとってみれば「胸糞小説」である。だが、作品だけではなくからすると、一概いちがいにはそう言えないかもしれない。


 太宰治という人間は、ずいぶん特殊な人であった。ノートには小説家芥川龍之介の名前をぎっしり書き、女性との心中を繰り返しては自分だけ死ななかったり、これまた有名な小説家三島由紀夫に、堂々とあなたの文学は嫌いだ、と目の前で言われた。しかもそれに対して、わざわざ言いに来てくれるほど、やつは俺(=太宰治)のことが好きだ、と返している(正確には、言葉が違うが)。これには、三島由紀夫も驚いたらしい(それは美しい言葉だった、とも三島はで言っている)。そんなとびきりの変人が、なぜ小説を書いたのか?


 ――元々は、遺書のつもりだったらしい。


 原稿を破き続けて、理想の作品が出来たときだけ、短編集に組み込んでいったらしい。それも相当な量を破いたという。原稿を破くとき、彼はどんな気持ちだったろうか。


 僕は元々、ノートに小説を書いていた。それは読書記録を兼ねたものだったから、いまでも持っているのだが、見返すたびに苦笑してしまうような作品ばかりだ。もし、読書記録をつけていなかったら、そのノートを捨ててしまっただろうか。なんとも言えない。原稿用紙に万年筆で手書きしたものは、大半が躊躇なく捨ててしまった。


 岐阜県文芸祭で受賞した『アウトサイダー』も原稿用紙に万年筆で書いたものだ。文芸祭への応募期間はもうそれほどなかった。ろくな推敲もしていない。その頃はパソコンも、執筆の相棒ポメラも持っていなかった。まさに絶望――しかしなぜか原稿は捨てなかったし、応募もして受賞もした。わけがわからない。僕としては、落選するだろうと思っていたし、同時に送った自信作の詩が、逆に入選すらしなかった。もらった作品集を見て、やはり詩のほうは納得がいかなかった。なぜ、落選したのか。


 僕は、万人に受ける作品は書けないと確信した。文章もわかりやすく、とても面白いライトノベルはナゾに書ける自信がある。しかし、本当に書きたいのは、そういう作品ではなかった。


 どれだけ時間がかかろうと、あるいは批判されようと、原稿を作品が書きたくなったのである。


 批判に苦しくなって、執筆を中断せざるをえなくなった人は、はたしてどれだけいるだろうか。もし、また創作をしたくなったら、しれっとこちらの世界に戻って来ればいい。メンタルが、けして強いほうでないならば、「じゃあ、あんたにこの作品が書けるのか」とでも毒づきながら、くやしい気持ちを創作の原動力にすればいい(いや、それだってメンタルは強いほうか)。


 もしそれも出来ないというのであれば、自分のために小説を書いてみればどうだろうか。


 人に評価をもらいたい、というかたもいるかもしれないが、何のために小説を書き始めたのか、今一度自分に問いかけてみればいかがだろうか。


 ――なぜ私は執筆を始めたんだ、と。

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