第10話 創作の流行

 僕は、小説も音楽も流行に乗れなかった。


 というより小説に関しては、流行そのものが、つい最近までよくわからなかった。いまでも、なんか異世界系は人気があるな、という印象を受けただけで特に思うところはない。


 この波に乗って、サーフィンをするつもりも毛頭ない。ただ、異世界もの自体には、興味がある。面白いと思う作品もある。それでいて、執筆はしない。少なくとも、では――。


 小説は歴史がある。もちろん、長い歴史において、流行は必ず関わっているはずだ。しかし、流行がすべてではないことを証明している作品がある。


 おおよそは、文豪が書いたとされる作品である。夏目漱石、太宰治、三島由紀夫、川端康成、芥川龍之介……。いずれも例外なく日本を代表する昔の作家だ。


 僕が文学に出逢ったのは、ある人の薦めで『羅生門らしょうもん』(芥川龍之介)を読み、深く感動した中学一年生の頃であった。


 それまでは、宮沢賢治の絵本を読むくらいで、小説はそこまで読んでいなかった。だから、芥川龍之介の小説を読んだとき、「……難しい……」と感じた。


 ――今まで読んだ小説とは、まるで勝手が違う。


 ナナメ読みどころか、じっくり一文一文読んでも、意味がわからない箇所かしょもある。しかし、辞書も携帯電話もそのときは持っていなかった。おまけに、誰もいない部屋で、独り黙々と読書をしていた。


 まさしく『羅生門』は、僕を新しい領域へとつなぐもんであった。ここさえ乗り越えれば、ほかにも夏目漱石の『吾輩わがはいは猫である』も読めるのではないか、と。しかし、なぜそれほど純文学を読破したいのか?


 小説は、楽しんで読むものではなかったか。ただ苦しみながら読書をする、ならば小説なんて、読まないほうがいいのではないか。


 ――難しい文章、読めない漢字、わからない語句の意味。それでも作者は、ほどには何かを伝えたかったのだ。


 僕に出来ることは、文章から雰囲気を感じ、漢字から雰囲気を感じ、語句から雰囲気を感じることだった。すべて雰囲気――しかし驚くべきことに、僕は小説の世界に取り込まれていた。いや、というよりは僕自身がに小説を作っていた。


 無意識に、文章に意味をつけていたのだ。だから内容も変わってしまった。しかし、それ自体が小説の魅力になっていたというのだ。想像の重要性が、ここで大きく証明された。


 いつの時代かの流行は、気づかないかもしれないが、誰の言葉にも名残りがある。誰もが、何かの影響を受けている。言葉は誰から教わったものだろう。環境によって、人は誰しも影響を受け、また、影響を与えてもいるのだ。


 だから、歴史は流行の積み重ねであり、一部であろうと人々の心に残り続ける。流行に追いつこうとしなくても、自分が書きたい作品を、自由に書き続ければよいのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る