第8話 ジャンルという概念

 ひとくちに小説といっても、様々なジャンルがある。例を挙げる必要もない。だが最近は、あまりにもジャンルが気にされ過ぎではないか。もうジャンルなんて気にしない人が出てきてもいいのでは? と時折思う。とりわけ、自作品を書いているときがそうだ。


 いきなりだが、人の作品で起承転結が大体どこにあるのか、分かる人は多い気がする。特に、短編ミステリーなんかだとより起承転結の境界線がはっきりしやすい、と勝手に思っている。しかし、自作品を見てみると不思議なことに起承転結がどこなのか、よくわからなくなってしまう――この例がわかりにくい人のために、もう一つたとえを挙げよう。


 一般に純文学と呼ばれる小説を読み、起承転結をはっきりとさせようとしたとき、いやあ参ったな、と思う人は多いのではないか。そもそも、起承転結というのは小説のストーリーを作る技法のようなもので、ミステリー作品は、転から作れと言われたりする。ここで、もし起承転結が何かわからない人がいるならば、単に、小説で必要な技術とでも思えばいい。

 つまり何を言いたいのかというと、小説を完璧に理解出来る人間はいないのではないか、ということだ。


 ――内容を途中で忘れる。登場人物が頭のなかでこんがらがる。作者が何を伝えたいかがわからない。実は読者に故意で隠されたテーマがある。


 作者自身ですら、自作品のすべてを理解出来ていない、というのが僕の持論である。最高傑作が書けた! という小説家がいたとしよう。では、その人がふたたび、自身の記録を塗り替えるような小説を書けるのは、どのくらいの確率だろうか。新人作家ならば、まだ可能性は十分にあるように思う。しかし、巨匠とまで評される作家が言った言葉ならば、楽しみだな、と思うと同時に、これ以上の作品はもしかしたら出ないかもしれない、と少し残念になるだろう。それだから作者自身に、最高傑作とは何か、どういったら最高傑作になるのか、その過程が理解出来ていない人が多いと思う。


 だから、なぜこのような作品が書けたのか、と訊いて十分に納得がいく説明が出来ても、一文一文で区切って見ていくと、なるほどなあ、と納得させる説明がなかなか出来ないのではないか。というより、その一文をどうやって書いたのか、と質問されて答えるのは難しい。たしかに、表現方法はいくらでもあるはずだ。しかし、なぜその一文になったのかという問題になると、まるでわからない。


 たとえばこの部分――


 ――内容を途中で忘れる。登場人物が頭のなかでこんがらがる。作者が何を伝えたいかがわからない。実は読者に故意で隠されたテーマがある。


「内容を途中で忘れる」は、なぜ「途中で内容を忘れる」という文章にならなかったのか、それは筆者本人でもわからない。雰囲気、と答えれば、なぜその雰囲気がいいのか、と返され、おそらくだがこのやり取りは以後永久に続くであろう。


 同様に、ジャンルは完璧にその作品を表すものではないと思う。


 大衆向けだと思われていたものが、実は文学性をかねそなえている、と評価された作品がある(『或る「小倉日記」伝』松本清張)。ここには、ジャンルのぶれがある。なぜならば、その作品は大衆作品(直木賞)から純文学作品(芥川賞)の賞に回されたからある。通常、どちらかでしか賞が取れないのだが、そういう無理にジャンルを決める行為によって異例の事態が起きてしまった。たとえば、作者からすればホラー小説でも、読者からすればホラー小説ではなくファンタジー小説かもしれない。


 だからこそ、ジャンルというのはあくまで物語の側面を表しているに過ぎないのだ。ジャンルにとらわれない作品が、あってもいいと思う。そういった作品は、多くの多面性を持ち……まあとにかく、面白いことになりそうだ。

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