(下)

第7話

 事件があったのは九月である。

 島田文彦しまだふみひこは、大学生になってから、つくづく自分の運のわるさにあきあきしていた。あのように、まさか警察官が、彼のほうに来るとは予想していなかったのである。しかし、運がわるいのは、今にはじまったことではない。入学してもうすっかり森沢大学になじんでいる一年生では、安田道夫についてのうわさが例年通り好評をはくしていた。この安田という男が、彼が小学生の頃に仲がよかった五つ上の先輩で、そのために、過去の記憶をほじかえされては、いろいろと茶化ちゃかされるようになったのである。安田がかなり変人なために、いまだに彼の記憶にうっすらと残っていたのだが、そのせいで、いじめというほどではないが、からかわれるようになり、それが不快でしかたなかった。この現象は、どうやら毎年起こるようで、入学前にすでにそうと知っている者は、冗談めかしにこの男との関係を問われても否定するだけなのだと、のちに親切な二年生の先輩におしえてもらい、彼はそういう人がうらやましかった。けれど、彼がこの大学に入った本当の目的は、坪田憧英教授と会いたかったからだ。坪田教授は、現代国語をおしえていて、有名な文芸誌にも評論をたびたび寄稿きこうしているから、文庫本のほうも数多く出版している。ただし、いざお目に掛かると、結局はずかしくてしゃべりかけることもできないでいた。

 それはさておき、安田がなぜこの大学で有名なのかというと、多分に彼の経歴がかなり特殊とくしゅで、なぞめいていたからであろう。実をいえば、島田は高校でも安田に会ったことがある。その頃の安田は、授業こそ出席するものの、とかく勉強全般が苦手なようで、留年をなんどもしていた。だから、島田は、比較的偏差値の高いこの私立大学に、どうやって入れたのかが気になってならない。噂では、どうやら安田の父親が学園長と知り合いで、正当な手順をふまずに入学させたのだろうといわれていた。彼も多くは知らないのだが、この男の父親が不動産会社の社長で、母親は無職だった、と本人から直接聞いたことがある。そして、安田が小学校高学年の頃に、両親はみ合いをして、不幸にも階段からころげ落ちて頭を強打してしまい、それで亡くなってしまったらしい。以降、安田を引き取ったのは親戚のようで、そこで育ち、ようやく成人になるとすぐに一人暮らしをはじめたらしいのだが、実際に彼と再会するようになるとは、想像もしなかったことである。

 安田は、やはりというべきか大学一年生でも留年していた。この二人は別段親しい友人でもなかったので、島田はちょうどその頃、大学のキャンパス内にある食堂で、この奇怪な人物についてあれこれと妄想をふくらませていた。珈琲コーヒーカップを片手に取り、目の焦点も合わぬまま、深みのあるほろ苦い味を堪能たんのうしていた。二人の大学生があらわれたのはその時である。

 男は深く帽子をかぶっており――お洒落しゃれだろうか指輪をいくつもはめている――ちょっとした二枚目である。まわりの大学生たちに声をかけてまわってるようで、なにがあったのだろうと思いつつ、彼らが自分を捜してるのだとわかると、なにやら突然巻き込まれたようで、ぎくりとした。やがて、二人がこちらに近付いてくると、島田はわざとらしく目をそらして、気付かないふりをした。すると男は、

「いやあ君が島田文彦君だねえ」

 名前を呼ばれた途端、島田はいやがおうでも彼らを見なければならなくなった。女もまた、以前会った時と同じく、鼻筋のととのった白い肌の美人で、ほんのりと茶髪である。二人が並んでいる様子はまさにお似合いだ。けれども、女はなにかしらにおびえているようで、それを懸命に隠そうとしているのが、やけに気になったのだが、しかし、自分には関係のないことだと決めつけて、それがこの事件の真相を暗示しているのも気付かずにいたのだった。

「俺は二年の荒井大輔で、こっちは同じく二年の西村渚だ。君にひとつ、頼みたいことがあってきたんだが、なんだかわかるかな」

「安田道夫、ですか」

「ええ、今年は島田さんを加えることになりました」

 意外にも、西村のほうが答えた。どうやら、会話の主導権は彼女が握っているようで、島田はさらに困惑したのだが、とはいえ、今回が自分に決まったことは予想していただけに、好奇心と憂鬱ゆううつでもうなにがなんだかわからなくなった。

 入学当初、彼は西村から、毎年安田と面識があるものが集まり、安田の家をおとずれているのだと聞いたことがある。理由としては、ただ学生が面白がっているからだ、と彼女にいわれたのであるが、教授も毎回参加するために、これが大学公認の行事だと認知せざるをえなかった。思えば、西村はその行事の関係者側で、この時、すでに島田が選ばれていて、それを暗にほのめかしたのかもしれない。

「僕はあまり行きたくないのですが、強制参加ですか」

「はい。残念ながら、一度決定したことは変更するのに時間もかかりますし、こちらも忙しいので、できれば参加してもらいたいんです」

「でも、僕は部活動を優先させたいんです。今、所属しているラヴクラフト研究会の部誌が――翻訳者も少なくて――刊行予定日に間に合うか不安なので、せめてもう少し日にちをずらせませんか」

「それはむずかしそうです。教授陣の予定も確認して決まった決定事項ですから。しかし、島田さんは参加したがると思いますよ。坪田憧英教授をご存じですか」

「エッ、まさか来るんですか」

「今回で初参加らしいです。けれども、もしも島田さんが不参加の場合、もちろん坪田教授に会えませんよ。どうしてもというなら、しかたありませんが、もし気が変わったら今週土曜日に市立図書館へ来てください。午後一時です」

 二人は、島田に一言も話させないとばかりに急いで去って行った。荒井は自己紹介をして以降、なにもしゃべらなかったが、これはどういうことだろうか。荒井もメンバーなのか、はたまた、西村の恋人でただ仲がいいから一緒に来たのか、どちらにせよ、彼は不自然をぬぐいきれなかった。

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