7 帰還 ×(微)

「なんて綺麗なの!」 

 母が腕輪を眺めて感嘆の声をあげた。いつになく嬉しそうな顔で、母は私を見つめた。こんなに喜びをあらわにしたのはいつぶりだろうか。

「ハワードったら、やるじゃない。ルビーにルビーを贈るなんて」

 私は少しも喜ぶ気になれなかった。高価な腕輪を贈って結婚の意思を固めさせようとしているのか、己の財力を見せつけているのか。素直に私を思っているのだとは思えない。私が彼を公平な目で見ることができていないことは分かっている。

 ジャックならどうするだろう。どうしても考えてしまう。彼なら、銀とルビーの腕輪を贈るよりも、美しく咲き誇る真っ赤な花や、細かく彫刻を施したブナの木櫛をくれるだろう。そして、いつものいたずらな笑顔で私に触れてくれる。


 狼狩りが出発してから1日空けた朝。彼らは村へと帰ってきた。帰りを待っていた女や子供が外へ飛び出し、己の伴侶を探す。男たちは疲れ切り、ぼろぼろになっていたが、それでも笑顔を浮かべて抱擁を受け入れた。

「これが、我らが宿敵の首だ!」

 村長が槍に突き刺した狼の首を掲げた。ごわごわとした灰色の毛には血がこびりつき、かっと見開いた黄色い瞳には何も映っていない。恐ろしいほど尖った牙が、すでに硬直した唇からはみ出していた。

 違う。

 あれは大狼ではなかった。ただのハイイロオオカミだ。村長の愚かさに同情を覚えるとともに、馬鹿らしい計画に参加させられた男たちが不憫でならない。それがわかっているのか、村人たちは誰一人歓声を上げなかった。

 私は吐きそうなほど緊張しながらジャックを探した。何度も何度も視線を彷徨わせ、必死の願いを込めて村人をかき分けて探し回った。人数が足りない。男たちの殆どが帰っていないのだ。私と同じように伴侶を探す女たちを気にもせず、村長は武勇伝を語り続けている。

(嘘よ。嘘……!)

 いない。彼はいなかった。絶望が胸をよぎり、地面に崩れ落ちそうになる。その時村長が急に静かになった。はっと顔を上げると、顔を歪めた大勢の男たちが、いくつもの粗末な担架を広げて門を抜けてくるところだった。心臓が一つ脈打った。怪我人を置いてきたのか。

「素晴らしい村長だな」

 誰かが皮肉を込めてそう呟いたのが聞こえた。前方からか細い鳴き声と悲鳴が響いてくる。私は担架に駆け寄った。血まみれの男たち。手足がもげているものや、包帯で簡易的な処置をされている男もいる。瞳をぱっかりと開け、虚空を睨んでいる手足のない彼らはどう見ても死んでいた。そのなかにアルフレッドの遺体も混じっていることに気付き、私は目を背けた。リーサとジャクリーンの悲鳴と鳴き声が響き渡る。担架に縋り付いて泣く2人を他人事だとは思えない。

 パニックを起こすまい、絶対にここで泣くまいとしながら、私は一つ一つの担架を覗き込んだ。ジャックは一番最後の担架に横たわっていた。

「ジャック!」

 彼はまだ生きていた。緑の瞳はしっかりと私を捉えた。意識はある。それだけで叫び出したいほどの安堵に包まれる。ただ、ジャックの胸ははだけられ、どす黒い血の滲んだ包帯が巻かれていた。

「お腹が」

 私が言うと、ジャックは掠れた声で答えた。会話をするだけで痛むもだろう、ジャックの顔は引き攣っていた。こんな顔のジャックを見るのは、罠に足を取られたとき以来だった。

「狼の爪にやられた。大したことはない」

 負傷した男たちは、真っ直ぐ教会の方へと向かった。ある程度の医療知識を持つ牧師が手当てをしてくれるのだ。そして、命を落とした男たちの弔いも。



「ルビー、消毒を頼む」

 怪我をした男たちのほとんどは狼の爪や牙で傷つけられたようだった。獣の唾液が傷口から侵入していれば、感染症にかかる可能性が高い。私は消毒用の酒壺を抱え、教会の中を走り回っていた。清潔な布に酒を染み込ませ、傷口に当てる。かなり染みるのか、抑えた呻き声が上がる。女たちは自ら志願して手当や埋葬に乗り出した。狼狩りに出たおよそ20人のうち、無傷だったのはたったの5人程度だった。そのなかに村長も含まれている。

「ジャック」

 私はようやくジャックの手当てに取り掛かった。腹に巻かれていた汚い包帯を取り除くと、鋭い爪で抉られた切り傷が露わになる。どす黒く血液が凝固し、血の蓋ができていた。私はぬるま湯を含ませた布で、血を拭き取っていく。ジャックは手当の間全く声をあげず、私の手元をじっと見つめていた。消毒が終わり、新しい包帯を巻き付けると、張り詰めた緊張が解けたのか、目の前がちかちかと瞬いた。

 血の赤が目の裏に広がり、それはすぐに姉の蒼白の顔へと変わっていく。姉の悲鳴。倒れた体。棺。鉄の匂い。耳の奥が詰まったようになり、頭が重くなっていく。貧血だ。私はその場でうずくまり、めまいが治るのを待つ。

「大丈夫か?」

 ジャックが躊躇いがちに私の背中に触れる。膝に額をつけたまま、私は呟くように答えた。

「姉さんのことを思い出したの」

「……まだお悔やみも言っていなかったな」

 ジャックが言う。

「今は幸せに空で編み物でもしてるだろう」

 とても優しい口調だった。

「狩りはどんなふうだったの?」

 ジャックは思い出すのも嫌だというように顔をしかめた。暗い目を床に落とし、ゆっくりと口を開く。

「狼の群れに鉢合わせたんだ。十数頭はいた。先頭の狼の毛が黒かった。あいつはその狼が大狼だと叫んで、突然銃の引き金を引いたんだ。まったく馬鹿だよ。部隊なんてもんじゃなかった。統制はちっともとれてなかったし、大声を上げたせいで狼たちを興奮させた。それからはあっという間だよ」

 私は唇を結んだ。大狼の襲撃を何度も体験したことのない村長は、事の重要さを全く理解していない。危険な獣に出会ったらどうするべきかも。

「やっと狼たちを撒いて夜が明けて、すぐにそこを離れるべきだった。でもあいつは殺した狼の首を取るべきだと言い張った。俺たちの言い分何てまったく無視さ。そんなことより怪我の手当てを早くするべきだったのに」

 私はため息をつき、低くつぶやく。

「あの人は、大狼を童話かなにかとしか思っていないのよ。なめてるわ」

 村長は、あの怪物の姿を見たこともなければ狼に家族を殺されたこともない。知っているのは、あの怪物に傷つけられたフランクとローズだけだ。

「その場で死んじまった仲間もたくさんいる。置いてくるしかなかった。怪我が治ったらあいつらのところへ行ってやらないとな」

 そもそも、馬に乗って森を駆け回り、兎や鹿を捕らえる娯楽としての「狩り」と、狼を退治するための「狩り」は全く別のものだ。村長はその二つを混同しているのではないか。

 狼狩りは容易に果たせるものではない。無計画に、真正面から突き進んでも失敗するだけだ。そうしている限り、鼻も頭もよく働く彼らには勝てない。

「あなたが死ななくてよかった」

 そう言うと、ジャックは私の頬に手を伸ばそうとして、手を止めた。

「――俺は大丈夫だから、他の男たちのところへ行ってこいよ」

 胸に痛みが走る。ジャックとの間にそびえる透明な壁が、心底煩わしかった。私はハワードと結婚しない、と言いたくても、なぜか言えなかった。

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