第二章

1 感謝と祈願 ○×

 重い怪我を負っていた男たちも、懸命の看病と手当てで次第に回復し、一番重篤だった者もベッドから起き上がれるようになっていた。噛み傷や切り傷が化膿し、手足を切断する必要がある者もいた。けれど、小さな村にそんな治療ができる修道院や診療所はないし、技術もない。生きぬく力が残っていなかった男たちは静かに死の海へと沈み、生きる力が勝った者は回復へと向かっていった。

 秋も深まり、もうすぐ冬が訪れる。カヴァーホーンには、秋と冬の境目に行う大切な行事がある。神に今年の恵みへの感謝をささげ、来年の豊穣を祈る感謝祭は、活気に満ちたものになる。しかし、今年は違った。村に差し始めた死の影に包まれ、人々は狼狩りや二人の死の傷から立ち直れずにいた。また歴史を繰り返すのか。次に襲われるのは誰なのだろう。根拠のない不安が村中に広がりつつあった。


「コゼット、そっちを引っ張って」

 広場に並べた机の上に、清潔な白い布をかける。裾には金糸で縫い取った麦の穂がずらりと刺繍されている。感謝と祈りを込めて、一針一針丁寧に女たちが縫ったものだ。私の縫った麦はよれて、布をひきつらせている。不格好な刺繍が他の刺繍から浮いて見え、私は苦笑した。

 話し合いながら会場を飾り立てるのは女たちの役目だ。酒を大量に準備したり、料理をしたりと大忙しだ。男たちは、祭壇に並べる兎や猪を狩るために弓を背負って森へ出かけていった。

 いつも通りの準備の時間だったが、それでも村人たちの表情は暗い。狼が現われた今、感謝祭を夜中まで続けるのは危険すぎるし、眩しい明かりを灯しておくことも危険だ。しかし暗すぎても迫りくる狼に気付けない。なすすべのない村人たちは、今夜狼の襲撃がないことを祈るばかりだった。


 日が落ち、村人たちがそろうと、さっそく宴が始まった。エミリアと私はワインやビール、エールを運んでは机に並べていく。着飾った女たちが給仕をする中で、男たちは低く話しながら酒を飲み、料理をつまんでいる。エミリアと私も髪を編み込み、生きた花を耳の後ろに差して、とびきりのお洒落をしていた。

 ハープやフィドルが奏でられ、明るい曲が響いている。広場を囲むようにぐるりと並べられた松明にまばらに灯った光が、人々を影を長く伸ばしていた。

「ルビー、ジャックが呼んでるわよ」

 ふいに後ろから肩を叩かれ、振り返るとコゼットが立っていた。頭に花輪を飾り、若草色のドレスをまとった彼女は、森の妖精のようだ。

「ジャックが?」

 私は眉をひそめた。ジャックから呼び出すなんで珍しい。コゼットは首を傾げ、私からジョッキを受け取った。

「北の納屋で待ってるそうよ」

 私はエミリアに断って、言われた通りに納屋に向かった。この村には三つの納屋がある。北、西、そして南の三つだ。北の納屋は一番狭く、一番使われない納屋で、もっぱら季節外れの農具をしまうために使われている。


 北の納屋は広く、二階建ての建物である。そんなところに呼び出すジャックが不思議だった。納屋に近づくにつれ、広場からのざわめきはほとんど聞こえなくなり、静けさだけがある。人の気配はまるでなかった。蜜色の光が、一階の小さな窓から伸びていた。

「ジャック?」

 私は黒々と闇に染まる扉を押した。ぎい、と蝶番が不気味な音を響かせる。中に入ると、やはり乾草の匂いがする。埃っぽい納屋の奥には、農具が暗がりにうずくまるように置かれている。小さな明かりだけが壁に灯っていた。人の姿はない。私は不安になって、ジャックの名前を呼んだ。

「ジャック!」

 短く反響した声に返事はない。誘っておいて、と少しむっとしながらも、私は壁に寄りかかってジャックが来るのを待った。ふいに、暗闇から背の高い男の姿が浮かび上がった。

「――ジャックなの?」

 嫌な予感がして、私は控えめに声をかける。

「やあ、ルビー」

 整った顔に青い目。制服ではなく、普段着を着ていたが、それは間違いなくジャックではない。私は思わず後ずさり、怒りを込めた目で男を見上げた。

「なんでハワードが」

 ハワードは優し気な笑みを崩さず、まっすぐに扉の方へ向かった。重い鉄の棒錠を軽々と持ち上げ、扉に通す。がちゃん、と鈍い音が鳴り納屋に鍵がかかった。

「やっと二人きりになれた、ルビー。婚約しているのに不思議なくらいその機会がなかった。君が僕を避けていたからね」

 恐怖が湧き上がり、目の前の男と向き合うのが怖い。

「たとえ君が僕を愛していなかったとしても、僕は君を愛してる。誰よりも、一番」

 ハワードが藁を踏みながら近づいてきて、私は一歩一歩後ろに下がる。背中が壁に当たり、止まるしかなかった。ハワードの大きな影が私の上に落ち、彼のなめらかな手が私の顎に触れる。振り払おうとするも、ハワードががっちりと私の顔をつかんでいたせいで叶わなかった。

「――ルビー、お願いだ。僕を愛してくれ」

 言葉が出ない。喉が張り付き、私はあの夜のようにただすくんでいることしかできなかった。ハワードの親指が私の唇に触れる。その曲線をなぞり、彼の手は徐々に下へと降りていく。首に触れ、鎖骨に触れ、胸のふくらみをつと辿り、スカート越しに太ももに触れる。体中に怖気が走った。気持ちが悪くて仕方ない。自己嫌悪と屈辱で死んでしまいそうだ。彼の顔が近づいてくる。唇と唇が触れ合いそうになったその瞬間、私はようやく叫び声をあげた。

「やめて――!」

 ハワードの手を振り払い、彼の胸を思い切り押して距離を取る。

「最低よ。悪いけれど、私はあなたの気持ちには応えられない」

 声が震えていた。悲鳴のような声が細くなびいて消えた瞬間、ハワードの目にぽつりと凶暴な光がともった。

「なぜ君はいつもそうなんだ。僕いつも君のことを考えているのに。どうしてあの男ばかりを見る! 金もない、親もいない、みすぼらしい溝鼠のどこがいいんだ!」

 別人のような顔をして吠えるハワードは、飢えた獣のようにぎらついていた。私は口を開き、怒りに目を光らせて静かに、けれども激しい感情を込めて言う。

「ハワード、一つ言っておくわ。いくらお金を持っていても、高価なプレゼントをしても、私はあなたに靡かない」

 怒りと、そして無理やり肌に触れられた屈辱を込めて言い放つ。ハワードは一瞬言葉を失った後、頬を紅潮させて低くつぶやいた。

「君がそのつもりなら、もういい」

 その声の無機質さに、肌がぞわっと粟立つ。目の前にいるのは、私が知るハワードではなかった。指が食い込むほど強く、肩を掴まれた。抵抗する間もなく勢いよく押し倒され、私は思い切り乾草の山に倒れ込む。これから何をされるのか悟り、頭の中が真っ白になる。ハワードが私の上に覆いかぶさるようにして、情欲の牙をむき出しにしたその瞬間、何かが破られるようなめりめりという激しい音が響き渡った。

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