第18話 もう終わるのか……
「……ぐっ」
悲鳴にならない嗚咽にならない、何にもならない声が出る。しゃくり上げるような、吐きそうな、パイプの詰まったバキュームみたいな音が私の喉から出る。ガンガン鳴る頭。力が入らない両手両足で何とか立ち上がってすぐ、それは飛んできた。
腹部への強烈な一撃。
今度こそ吐く。でも胃の中身はさっきハシバの死体を見た時にほとんど吐いてしまっているので、すっぱい胃液と唾液の塊とを吐いた。思わず寝転がる。のたうつ。
「このガキに振り回されたのか」
英語だ。男の声だけど、ちょっと高め。
「こんなクソガキに」
足が、降ってくる。
そう判断して体を丸めた。幸運にも、大きな足の踏みつけは私の肩を直撃するだけで済んだ。肉や骨が頑丈な分ダメージは少ない。でも、痛い。
と、今度は髪をつかまれる。ぐいっと持ち上げられる。頭皮が剥がれそう……痛みを軽減するために私は仰け反る。そして私の髪をつかんでいる腕に縋りつく。だが、どうしようもなく頭ごと、体を持ち上げられる。
「おい、ソヌ。そのくらいにしろ」
ソヌ……。
私は何とか目を開けて、私に乱暴している男の顔を見る。目が細くて顔が平たいアジア系。でも英語でしゃべっているということは、アジア系のアメリカ人か。
そしてこいつの背格好で思い至る。
さっきパトカーにグレネードぶち込んでた男だ。五階の監視カメラ映像に映った男だ。六連式のランチャーを持っていた男だ。
「ぐぅ……」
ようやく喉の奥からそんな音が出る。何その声。無様。そんな自分の、内なる声が聞こえる。
「いやはや、乱暴をしてすまないね、お嬢さん」
おじさんがゆっくり近づいてくる。私はと言えば、何とかソヌの腕にしがみついて、頭皮へのダメージを軽減するのに必死になっていた。が、そんな心配もすぐにいらなくなった。いきなり私は地面に下ろされたかと思うと、今度は喉をがしっと鷲掴みにされて再び宙づりにされた。息が……息ができない……。
「大人をからかうとこういう目に遭うのは分かったかな?」
それからおじさんは周囲に目を走らせる。
「ソヌ。こいつにはもう一人仲間がいる。さっき我々の妨害電波発生装置を破壊した奴だ。そいつはまだ得体が知れない。だが銃を持っていることだけは確かだ。気をつけろ」
「分かった」
私はコレキヨとカレンのことを思う。二人は爆弾の方に行った。私のいるここからは離れてる。足場や機械やパイプの影で一目で居場所がバレることはない。頼む! 隠れてくれ……!
「こいつが一人でこんなところにノコノコやってくるとは思えん。この屋上のどこかに連れがいる。隠れるところはたくさんあるが、そいつはカンから奪ったK2を持っている。あれは長い。隠れ続けるのは難しい」
おじさんとソヌがこんな会話をしている時も、哀れな私はソヌの手にしがみついたまま足をバタバタさせることしかできなかった。と、私の目の前でおじさんが、拳銃を取り出した。
「お連れの君。降参したまえ。さもなくばこの子を撃つ」
拳銃が、私の頬に突きつけられる。
「今出てくればこの子と君の命は保証しよう」
ああ……ダメだ……。
私は必死に叫ぶ。でも首を絞められ吊るされている都合上、呻くぐらいしかできることがない。おまけに腹を蹴られて横隔膜をやられたのか、呼吸すら掠れている。降参なんか……降参なんかするな、こいつは絶対私たちを殺す……そう、頭の中で叫んではいるのだが、声にはならない。私は必死にもがく。ソヌの手にぶら下げられたまま、もがく。
少しして、おじさんは「命を保証する」旨を英語と韓国語の二種類で告げ直した。それからそれらが無駄だと分かると、再び日本語で続けた。
「なかなか辛抱強いね。それは素晴らしいことだが時と場合を考えるべきだ」
頼む……コレキヨとカレン、私を置いて逃げてくれ……!
哀れにも吊り下げられたまま必死にそんなことを思う。だんだん視界がちかちかしてきた。酸素が足りないんだ。息が……息が……!
「君がそうやってかくれんぼをするのは自由だが、お嬢さんの方はもう限界らしいぞ」
おじさんの声が遠くなってきた。視界に黒がちらつきはじめる。
もう、抵抗する気力もない。
手に力が入らなくなった。ソヌの腕から私の手が落ちた。下半身がだらしなくなった。私、もらしてないかな。下腹部がすーすーする。当然足なんて動かない。きっと今の私は、清掃員が持っている濡れたモップみたいにだらりと垂れさがっているのだろう。かっこわりぃなぁ……。
と、その時だった。
いきなり私は放り出された。床に叩きつけられた私は、やっとのことで呼吸を取り戻した。嗚咽。嘔吐。涙に鼻水。とにかく私の顔はもうぐちゃぐちゃだ。それでも必死に呼吸をする。息をする。酸素を吸う。ようやく意識がハッキリしてきた頃になって、それは見えた。K2……だっけか。コレキヨがテロリストから奪った銃が床に落ちていた。
「……降参する」
懐かしい声。
いや、その声を最後に聞いたのなんてほんの四、五分前のことなのに、まるで何十年も聞いていなかったかのような気になっていた。
それは、そう、コレキヨの声……。
*
「おやおや」
私の頭上で、おじさんが笑う。
「初めてお会いするね」
視界がハッキリしない。頭がくらくらする。
だが声だけはしっかり聞こえてくる。やりとりだけは分かる。
「恰好から察するに警備員かな。この女の子と組んで我々の邪魔をしてきたわけだ」
警備員……。
コレキヨか。やっぱりコレキヨがそこにいるのか。
私は一気に絶望する。私たちの中で一番武装をしているのは間違いなくコレキヨだ。あいつが降参したとなれば……。
絶望する。絶望する。何だよ。ここまで来たのに、ここまでかよ。床に落ちたK2を見て、また吐きそうになる。くそっ、これで終わりだ。私の命も、コレキヨも……。
ああ、最悪だ。
私一人が死ぬなら、極論いい。私は私の責任でこの一件に手を出した。私はパパを助けたくて……どうしよう。パパももう終わりなのかな。いや、もう死んでたりして。これから私パパのところへ行くのかなぁ。長かったなぁ。最後にこんな苦しむならもっと早く降参していればよかった。やっちゃったなぁ。私も死ぬし、コレキヨも死ぬんだ。カレン一人じゃこいつらなんて倒せないし……。カチャ、とどこかで音がする。それが銃の撃鉄を起こした音だと気づくのに時間はかからなかった。おじさん、確実にコレキヨを殺す気だ。と、再び足蹴にされて私は天を仰いだ。ソヌが私を蹴ったんだ。ああ、でも優しい。優しく蹴ってくれた。そんなことが嬉しくなる。いかれてる。いかれてる。そうは思うがやっぱり嬉しい。優しくされた。優しく蹴ってもらえた……。
「私はいい経営者にはなれないと言われていてね」
おじさんがつぶやく声が聞こえる。
「いち組織を率いる身としては気まぐれすぎると言われるんだ」
フフフ、と笑う声。おじさんとは違う声だから多分ソヌが笑ったんだ。ってことはあいつ、日本語も通じるんだな。おじさんといい、こいつといい、語学すげぇな。
「申し訳ないが今も気まぐれを起こしてしまってね」
一瞬。
一瞬だけ、私が戻ってくる。ダメだ。おじさん撃つ気だ。私は何とかコレキヨがいるであろう方向に顔を向けて、叫ぶ。
「にげ……にげ……」
だが、声が出ない。言葉にならない。と、再び蹴りが飛んできた。背骨を直撃する。「むぐぅ」私は呻く。
「キム。急ぐ。爆発」
ソヌの声。日本語だ。こいつスピーキングはダメなクチだ。そしておじさんの名前、キムっていうのか。韓国人らしい名前だな……。
「ああ、そうだね。そういえばここは後少しで爆発するんだったな」
また、カチャ、という音。撃鉄を戻した音だ。
「最後の時間だ。こちらのお嬢さんと人生の終わりのひと時を楽しむといい。私とソヌは、安全な地下へと逃げさせてもらうよ。生憎君たちの分のチケットはなくてね。置いていくのを許してほしい」
まず、キムが立ち去った。靴の動きを見れば分かった。キャメルの革靴が向こうへと歩いていく。続いてソヌ。黒の運動靴が忙しなく動き始めた。
と、その時だった。
何かが吹きつけられるような音がしたのは。
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