三の二 エメリヒ 七月二十七日

 相手が覚えているかどうか不安ではあったが、エメリヒ・クルツは日本での「何か」を探す糸口に、父が勤めていた大学の後輩に電話をかけてみた。

 最初、探るようだった応対も電話の主がエメリヒだとわかると、とたんに弾けるような明るさを言葉にまとわせるようにして、エメリヒを大学の研究室に誘ったのだった。

 東京の、一流の大学の、レンガ造りの正門を入って、教えられた通りに大学の棟棟の間をあるいて、ビルの三階にあるその部屋へと向かった。

 以前日本に来た時は、ドイツ人と日本人のハーフであるエメリヒを、すれ違う人々が無遠慮に眺めて来て、居心地の悪い思いをしたものだが、現代の日本は国際化が進んだのか、エメリヒ程度の西洋人風の顔立ちでは、もはや気にとめる人もいないようである。

「エメリヒか、ほんとうにエメリヒなのか?」

 文化人類学の教授である原田氏は、大仰に声を高め、両腕を開いて、メタボリックな腹を突き出して、エメリヒを部屋に招き入れたのだった。

 いかにも大学の教授の研究室らしい、狭い部屋の両側をあらゆる種類の本で埋め尽くし、教授の机とソファーの周りだけネズミのひたい程度開けているのだった。

「先年お父上がお亡くなりになった時は、葬式にも顔を出せずに申し訳ない」

「いえ、地球の反対側ですから。来ていただいてはかえって恐縮します」

「エメリヒ君は何か研究しているのかね?」

「私はまったく先祖の血を引いていないようで、勉強の方はまるでいけませんで」

「そうかな、DNAは悪くないと思うからやればできるんじゃないかな」

 エメリヒは勝手なことを言うじいさんだ、と思いつつも、にっこり微笑んで答えにかえた。

「それで、わざわざ日本に何をしに?」

「実は」

 とエメリヒは言いよどんだ。何かを探せと恋人から言われたので来ました、というのはいかにも無思慮な人間の行動原理だという気がした。

「祖父や父の足跡をたどる旅をしていまして」

 とっさに口をついて出た言葉であったが、案外的外れではないかもしれない、という気もするのだ。

 誰かが、あるいはどこかの組織が、グレートヒェン・コールを使ってまで探ろうとしたエメリヒの秘密というのは、エメリヒ当人に自覚がない以上、先祖の来歴に隠されているのかもしれなかった。

「お父上に付いて文化人類学を学んだのは、一九八〇年から一九九〇年過ぎの十年ちょっとだったから、その期間のことしか話せないなあ。お祖父さんは、ずっと北海道に暮らしていたから、私はお会いできなかったし」

 それから原田教授が語った話は、ほとんどがただの思い出話であった。エメリヒの父が飲み会でハメをはずしただの、仲間内の憧れの的であったエメリヒの母を十五も年上の父が持っていくとは思わなかっただの、ある時は追想めいた、ある時は愚痴めいた、取り立てて引っかかりを覚えることのない懐古談に終始したのだった。

 原田教授と別れて、大学を後にし、エメリヒは、

 ――サガセ。

 と言う声を聞いた。空から降ってくるような声であった。ドイツにいたときは気にしなければどうということのない、意味不明な、何語かすらもわからない空耳であったものが、日本に来てからずいぶんはっきりと聞こえ、意味もわかるようになっていた。

 ――ああ探すさ。

 エメリヒは心の中で空の声に答えた。

 探すから、少し黙っていてくれ。お前がしゃべると癇に障ってしょうがない。考えがまとまらないから、黙っていてくれ――。

 そうして、北海道か、と思った。原田教授との会話で閃くものがあったのは、それだけであった。

 北海道は、長年祖父母が暮らした場所だった。今も母方の親戚が住んでいるし、このじめじめとした暑い東京から抜け出す意味でも、ちょうどよい進路だという気がした。

 親戚の家には、母方の祖父が亡くなった二十年前に訪れたきりであった。祖母はまだ健在で、突然訪ねて行ったらどんな顔をして迎えてくれるのか、不安でもあったし楽しみでもあった。

 もうひとり、従姉の郷美さとみの顔をエメリヒは頭の中に描いていた。

 あのこまっしゃくれた、日向臭かった少女が、今どんな女性に成長しているのか、ちょっと楽しみにさえ思えてくるのだった。

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